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ウェス・アンダーソン監督自身が体現する“希望” 『犬ヶ島』は“新たな世界の見方”を伝える

2018年06月05日 12:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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 シンメトリーな構図、シュールでユーモラスなセンス。くすんだ色調と愛らしい美術、こだわりの字体とレトロなファッション。これらの要素が何層にも装飾的に重ねられた箱庭的ヴィジュアルが、アメリカ映画界でとくに際立った個性を放つ、映画作家ウェス・アンダーソンの世界だ。娯楽映画の世界のみならず、ファッションやアートの分野でも注目を浴びている、その独特な作家性は、一部の観客の熱狂的な支持を受けている。


参考:『犬ヶ島』犬の毛並みがふわふわに見えるのはなぜ? パペット責任者が解説「○○を再利用した」


 本作『犬ヶ島』は、そんなウェス・アンダーソン監督が、犬と人間との結びつきをテーマに、日本文化への強い愛情を持って描いた、ストップモーション・アニメーション映画だ。ここでは、作品の内容や監督の作風を基に、本作が本質的に描いたものが何だったのかを考察していきたい。


 舞台となるのは近未来の日本、ウニ県メガ崎市の街と、その近海に存在する“犬ヶ島”だ。このユニーク過ぎる地名から分かる通り、ここで描かれているのは現実的な日本の姿ではない。ウェス・アンダーソンの美意識によって、相撲、浮世絵、太鼓パフォーマンスなど、海外に愛される日本文化の特殊性を極度に強調した、『ブレードランナー』や『AKIRA』の世界観をも想起させる、架空の都市、そして架空の島なのだ。


 そのメガ崎市で、犬が感染源とみられる“ドッグ病”が蔓延したことで、市長・小林は犬たちを、廃棄物だらけのゴミの島へ隔離することを決める。市長の養子である12歳の少年・小林アタリは、多くの犬とともに“島流し”となった愛犬スポッツを探すため、単身で飛行機を操縦し、病気の犬ばかりが住む“犬ヶ島”へと降り立つ。ドッグ病をおそれずに島まで犬を探しに来た飼い主は、彼一人だけである。だがそんなアタリ少年に、市長の追手が迫る。


 『ファンタスティック Mr.FOX』でも緻密な世界を作り上げていたウェス・アンダーソン監督は、本作ではさらに、看板や酒瓶のラベル、人間や犬の体毛、ゴミが散乱した大地など、スケールの小さいところから大きいところに至るまで、世界を構成するあらゆるものを精緻に、偏執的に、そして子どもが積み木を組み立てていくような楽しさで並べてゆく。しかもそれらの多くに、ハンドメイドのあたたかみがあり、極端なカリカチュアライズ(風刺的誇張)が施されているのだ。その作品世界には、アメリカで主流の3DCGアニメーションとは全く異なるテイストがある。本作はその意味で、アメリカの商業映画に表現の幅を与え、世界のアートアニメーションに大きな可能性を提示しているといえるだろう。


 愛犬スポッツを捜索する少年の旅を助けるのは、チーフ、レックス、キング、ボス、デュークという、全てリーダーとしての名前がつけられた5匹の犬たちだ。彼らが仲間同士でかわす言葉は、観客のために人間の言語に変換されている。犬たちが犬ヶ島の荒れ果てた土地でかっこよく佇む、ダンディズムを感じるシーンでは、黒澤明監督の世界的名作『七人の侍』の劇中曲が流れる。そう、彼ら犬たちは、野武士の略奪に遭う農民たちに力を貸した七人の侍のように、義によって正しい者を助ける、“ヒーロー”としての“侍”なのだ。


 ウェス・アンダーソン監督本人が「黒澤明監督だったらどう撮るかと考えた」と、影響を明言しているように、本作は黒澤映画を想起させるシーンの数々が印象的である。『七人の侍』をはじめ、『用心棒』を想起させる横並びの構図や、『天国と地獄』で三船敏郎が演じていた資産家と、本作の小林市長との類似。またゴミが散乱する犬ヶ島の荒野は、『どですかでん』の工場跡地を利用したオープンセットを思い起こさせる。黒澤監督の『どですかでん』のカラフルな色の地面は心に残る風景だが、後にそれは六価クロムに汚染された土地だったことが分かり、騒動になったという。そんな嘘のような事実も、『犬ヶ島』の世界観に近いように感じる。


 同時に、今回日本を舞台にしたことで、よりはっきりとしたのは、ウェス・アンダーソンの作風が、市川崑監督のそれに非常に近いということである。突出したヴィジュアルセンス、ドラマのなかでも平面的な漫画的構図を楽しませる余裕。そして実写とアニメーション制作の両立など、市川崑やウェス・アンダーソンのように、多角的な才能が一人のなかに備わっているケースはまれだ。


 隔離された島のなかで大人たちの手から逃亡を図るという構図は、過去作『ムーンライズ・キングダム』の内容にも類似しており、これらはさらに、フランソワ・トリュフォー監督の名作『大人は判ってくれない』(1959年)における、感受性が豊かであったり、独立した精神を持っているがゆえに社会と折り合いがつかず、エスケープする子どもの孤独な姿へとつながっている。


 『ムーンライズ・キングダム』で子どもたちが団結したように、本作では、そんな孤独な小林アタリに共鳴し、政治の横暴や、異質なものを切り離そうとする排外主義を糾弾すべく団結する、メガ崎の高校生たちが現れる。なかでも、市長の政策の欺瞞を暴くのが、交換留学生トレイシー・ウォーカーだ。巨大なブロンドのアフロヘアーが特徴の彼女は、高校の新聞部員でもある。現実でも外国人の記者たちが、歯に衣を着せずに権力に対して痛烈な物言いができるように、しがらみや因習から自由な外部の人間が社会の異様さに気づくというのは、よくあることだ。彼女の情熱に突き動かされ、高校生たちはゲリラ的に市長への反対運動を起こしていく。時流に逆らい、力に逆らって、正しい道を進む。彼らもまた、ヒーローとしての侍である。犬ヶ島の侍とメガ崎の侍は合流し、ついに政権打倒へと向かっていく。


 人と犬の間には、種族の違いという壁がある。しかし彼らは、弱きを助け強気をくじくという、志の高さによって共鳴し、共闘することができる。それはまた、近年の世界各国における排外的な気運が高まる現実の世界においても、人種や出身国、文化の違いを乗り越えて、人は信念を共有し、分断しようとする勢力と闘いながら、ともに正しい方向へと向かうことができるはずだという“希望”へとつながっている。


 それは、本作で黒澤明監督などに接近しようとした、ウェス・アンダーソン監督自身が体現していることでもある。人種や国の文化の違い、そして時空を超えたところで、世界の、そして過去や未来のアーティストたちは、表現したいという衝動や、映画に対する情熱などによって、精神的なつながりを持つことができるのである。


 かつて日本人が社会的な意味で軽視していた“浮世絵”の価値を、西洋の人々が正しく評価できたという事実がある。日本人は、外国人よりも黒澤明監督や市川崑監督の作品を正当に理解できると勝手に思いがちだが、ウェス・アンダーソン監督は、感覚的な世界のなかでそれらを、異なった角度から深く理解できているように感じられる。『犬ヶ島』が、人と犬との関係を描くことで本質的に伝えているのは、旧弊な関係性を超えた、人間の新たなつながりの可能性であり、新たな世界の見方なのだ。(小野寺系)