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菊地成孔の『フロリダ・プロジェクト』評:夢の国の外縁はゲトーが取り囲んでいる。これは驚くべき真実なんかじゃない。原理である。

2018年06月03日 12:02  リアルサウンド

リアルサウンド

■中心と周縁


参考:菊地成孔の『ブラックパンサー』評:本作の持つ逸脱的な「異様さ」、そのパワーの源が、もしトラウマであり、タブーなのだとしたら


 山口昌男を引っ張りださなくとも、周縁は中心に対し、圧倒的な差異を抱きながら、両極の片方を担うようになっている事を我々は知っている。皇居の周りはランウエアに身を包んだランナーが取り囲んでぐるぐる回っている(皇室の人々との圧倒的な差異!)、プエルトリコの首都サンファンは山の上にあり、上に向かえば向かうほど途方もない金持ちが住んでいる。サンファンの周囲はヴァージン海峡である。サンファンでトラブルがあったら即射殺、山から裏の海にポイ捨てされれば、サメがガブガブっとやって証拠はわずかな肉片以外残らない。彼女という中心の周縁には僕らがいて、圧倒的な差異を抱きながら、両極の片側を担っている。ガザ地区は、その逆転的な極例であろう。


 と、こんな漫画のような面白さを列記せずとも、一番図式的にリアルなのがフランス国のパリ市である。


 パリ市街図を見ると、環状の高速道路に囲まれるようにパリ市があるのがわかる。この輪っかの外に、革命前夜までにはゲトーがあって、革命時には中に押し寄せたのであろう、と、誰もが(フランスに市民革命があったことを知ってさえいれば、だが)簡単に想像するだろう。実際にそうだし、何と驚くべきことに、200有余年を経た現在に至ってもそうなのである。


 双子の天才ダンサーチーム「ル・トゥイン」や、フランスで初のジャジーヒップホップチームである「ホーカス・ポーカス」がこの地区出身なのは有名である。ゲトー出身のアーティストに優れた者が多いのは、一般的な一つの偏りだが、そういった、アートに昇華された形でなく、こうした地域の汚濁と緊張、退廃と諦めをそのまま劇映画にした作品としては2015年のカンヌでパルムドールを獲得しながら、ほとんど誰も知らない『ディーパンの闘い』(ジャック・オーディアール監督 / アントニーターサン・ジェスターサン主演)をご覧になることをお勧めする。


 内戦により荒廃したスリランカを出て、フランスに渡った、所謂「タミル難民」の物語であり、実際にスリランカのテロ組織「タミル・タイガー」出身のアントニーターサン・ジェスターサンを主演に据え、徹頭徹尾、陰々滅々としたゲトーの風景と、そこで繰り広げられる、激戦とはとても言えない、やはり陰々滅々とした抗争が描かれる。この作品のテーマは「EUが拭い去れない移民問題」や「それでもそこにある愛」を僅差で超えて「パリ市郊外の荒廃をドキュメントのように、世界中に見せつける」事であろう。


 驚くべきことに(しかも二重に)、我が国にも同様の作品がある。『ディーパンの闘い』と同年に公開された、『ケンとカズ』(小路紘史監督・脚本・編集 / カトウシンスケ主演)である。筆者はこの作品を、当連載中に扱った数多くの作品の中のベストとするに一切の躊躇はない(菊地成孔の『ケンとカズ』評:浦安のジュリアス・シーザー/『ケンとカズ』を律する、震えるようなリアルの質について)。


 この作品は、浦安のディズニーリゾートの周縁に、ゲトーが広がっており、そこに覚醒剤の簡易製造工場と、売人の組織がひしめき合っていることを描くことで、「夢の国」の外側には悪夢のような、こじれたまでのリアルが取り囲んでいないと、「夢の国」自体が成立し得ないことを痛いほど見事に描いている。


■<周縁が中心の模倣である>という激痛


 それでもまだ、ディズニーランドと浦安のゲトーは、高い壁によって厳格に隔絶されている。このことは、どんなに少なく見積もっても健全であると言えるだろう。ディズニーリゾートに来て夢を買った人々は、そこにスラムやゲトーの存在があることを隠蔽されたまま自宅まで帰ることができるし、ゲトーの住人(映画で描かれるのは、ほとんどが覚醒剤の売人)は、死ぬまでに一度はディズニーランドに入りたい、等とは夢思っていない(というか、あらゆる意味ですべてが「それどころではない」緊張感と傷を負って生きている)。相互排除の力学と、知らぬが仏の諺は、全員をWIN WINにする。


 『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』は、合衆国の得意技である、貧困者に労働を与えるための都市開発計画の名だが、世界でも屈指の観光地であり、中でも「世界で最もマジカルな場所」として知られる「ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート」を中心とした時の、周縁にひしめき合う、安モーテル群が舞台となっている。


 そして、このモーテル達は、実際のディズニー・ワールドのアトラクションの、名前はおろか、外観までそっくりに似せられているのである。


 スペースワールドやアラビアンナイト、マジックキャッスルといったアトラクションを模した、最低、一晩でも40ドルから借りられる格安モーテルの群れは、建造当初こそ観光客の家族利用が圧倒的だったのだろう、しかし、今ではホームレス家族という、キャンピングカーすら持たない貧困層の定住によって、観光客は訪れず、完全に半スラム化している(廃屋もいっぱい)。モーテルだけではない、アイスクリームカウンターやスーヴェニール・ショップもあり、周縁の第一層が、中心のガジェット的なレプリカなのである(一方で薬局や医者や理髪店もあり、タウン化している)。


 舞台の中心となるのは「マジックキャッスル」で、そこの管理人がウィレム・デフォーなのだが、あのウィレム・デフォーが、地味な顔の真面目な普通の人、に見えるほど、強烈な人々ばかりが住んでいる。本作の、表層から深層まで胸をえぐる、刺激的かつ重い痛み、そしてそれと共存する不思議なドリーミーさは、「スラムが、カラフルな魔法の国のレプリカ、その残骸である」というより、「中心と周縁」の両極端さが、隔絶されず、デザインの模倣というたった一点で液状化的に繋がっている、という、廃墟マニアなどにも届くであろう、特殊物件である事に依る。映画は、この事実を世界に向けて見せ付ける事に執心している。


■物語はほぼ無い / 愛が適正量、きちんと湛えられている


 主人公は全員にタトゥーが入った、昨日まで買春婦だと言われても不思議ではないシングルマザー(ブリア・ヴィネイト演。服飾デザイナーだった彼女は、インスタグラムを通じて、クランクイン直前にスカウトされたという)で、ビッチではあるが、子供には、何の衒いも隠された理由もなく、「普通に」優しい。


 この「子供に対する、普通の健全な愛情」という、光り輝く宝が、本作を単なるノーフューチャーのゲトー映画から救い出して余りある。登場人物は全員、スラムの子供達を、まるで共同体に共有的であるかのような母性愛によって守り続けている。虐待は夢の世界の出来事のようである。更に言えばレイプも人種差別もここにはない。


 「そんなに善人ばかりの集団なんてあるかよ」といった発言がリアルだとした場合、本作は、ギリギリで童話かも?というほどにアンリアルなのかもしれない。しかし、監督・脚本・編集・製作のショーン・ベイカーは、愛の人ではあるが、童話の語り部ではない。


 前作、全編をスマートフォンで撮影したことで話題となった『タンジェリン』も本作も、基本的には写っているものも、観客の誘導力の質も同じだ(『タンジェリン』の方が、多少脚本が凝っているが、それは、コーヒーショップやドラッグストアによって形成される「中心」の周縁をグルグル回り続ける黒人の女装者/性転換者による売春婦達の群像劇が、やがて物語のスタート地点であるコーヒーショップに収斂する、といった「気が利いた円環構造」であって、劇作というより、「スケッチにオチがついた」程度の工夫が、見るも者の心を温める)。巧みで伏線だらけの<息もつかせぬ見事な脚本術>は、我々を疲れさせるのである。一方で、「何も起こらない、インチキな雰囲気エコロジカル映画」の穏やかさも、等しく我々を疲れさせる。


 「巧みな脚本なんか書けなそう」ではなく「書けばいくらでも書けそうなのに」といった、刀の鞘への収まり具合、力の抜き加減は、端的にホスピタリティへの供物である。「全知を駆使した、誘導ゲーム」という映画の激しいアトラクション化とも、ベタベタに愛を垂れ流し、観客に移入させるだけ移入させ、おいおい泣かせてカタルシスを与える。という、一歩間違ったらドラッグ的な愛のあり方とも違う、平常水位の愛の存在を、監督は信じている。「最強は穏やかな心」は、毛沢東の言葉である。


 然るに、様々な悲しさや惨めさは個々人に降りかかるものの、登場人物たちは、きちんと適正量だけ愛の海の中、温泉にも似た集合無意識的な湯加減の中に居続ける。過剰なヒューマニズムによる愛の押し売りも、その逆である、自傷衝動的な、恋愛飢餓による愛への憎悪や冷感症も、ショーン・ベイカーとは無縁だ。


 日本映画でいうと、黒澤明の『どですかでん』に近い。スラムやゲトーの中に漲る、誰が誰に、といった個人的な愛ではなく、共同体による共有的な愛、それを堂々と当然のように信じること。「過酷な地域で、過酷な人生を送る人々は連帯し、愛し合うのである」等といった旧左翼の浪漫派的テーゼを、綺麗事と鼻で笑う自称リアリスト達さえも、本作のショーン・ベイカーは黙らせてしまう。


 それは、そうした愛が共有されている場所ですら、人には大人になれないほどの痛みが慢性的に宿っていること、そして、時には事故的に悲劇が起こり得る、という、愛の甘さに流されない冷徹さもきちんと押さえているからである(このことは、映画が終了する契機とつながっている。主人公一家は、この街さえ出なければいかなくなる)。


 何せ、あのウィレム・デフォーが、特に率先しては何もやらないのである。能力的には、ギリギリで能無しであるかの如き彼が、あの相貌で示す(しかも)母性の有り様は驚異的である。彼は、傷つきそうになった者、間一髪で傷ついてしまった者に、つまり、丘から転げ落ちそうな者にだけ、確実に救いの手を差しのばす。しかし、必要以上のことも、能力以上のこともしない、ただただ、拾い上げ、猶予を与え、許し、護るだけである。相手の幼さによって絶叫しあったりもするが、彼から仕掛けることは決してない。むしろ彼は、住民たちの未熟さや弱さと、つきあわざるを得ない状況にイラつきつつ、とっくに、あるいは最初から適応しているのである。デフォーの顔が、母親に見えてくる映画。


■子供達が瑞々しい映画。なんていくらもあるだろう


 そして、筆者がここ数年で見た作品の中で、「子どもたちの瑞々しさ」が、ここまで無防備に、かつ大切に記録されている例は無い。それは、ドキュメンタリーの手法をコンバインした、無責任な放置でもなく、監督が撮影中、子供たちと密にコミュニュケーションを交わした、といった、若干の症状みたいなものでもなく、子供たちをこの環境に置いて、好きに遊ばせながらきちんとセリフを言わせ、適正に撮影した、その誠実さの賜物。ということに尽きるだろう。


 良い子も悪い子も無い、子供達は子供達なのだ。貧困や愛情飢餓など、合衆国の子供達にとってはもはやデフォルトである。総労働力が極めて低く、金欲や性欲が(少なくとも内部では)渦巻かない共同体で、子供達は「せめてもの伸びやかさ」を、せいいっぱいに謳歌することになる。それは、貧国(例えば合衆国に戻される前のキューバ)の人々が荒んでいない。といった実例のトレースでもあり、監督が作り上げたシンプルで強度のあるファンタジーでもある。


 多くの退行的な観客は、子供たちを見ているだけで感涙に咽び、ラストは「ハッピーエンドを超えた、マジカルエンド」という、間違いなく配給会社がつけたと思われる、過剰申告を鵜呑みにして大感動することになる。ネタバレというほどのことは無いと判断して書いてしまうが、主人公が、あらゆる労働(ストリートで安香水売りまでやるのである。全身刺青のまま)に適性がなく、とうとう買春に手を出してしまう。それがSNSによって周知となり、この集合団地を出なければいけなくなる。しかし子供は出たく無い。最大の親友と二人で、行くあてもなく二人は手をつないで逃げ出す。なんとシンプルなエンディングであろうか。


 さすがにオチまでは書かない。しかし、ここまで読めば、それがどういう事になるか、ほとんどの読者は想像がつくだろう。周縁の二人の子供が、「中心」に突入した瞬間、映画は終わる。本作は、子供を使って泣かせる安物でもない、合衆国の格差社会を描いた社会派の安物でもない。清貧の思想を押し付ける安物でもない。中心と周縁という永遠のテーゼ、そのバリエーションの一つを、見事な題材の選択、ほとんどそれだけで駆動させた、ある意味、均質なまでの作品である。我々の感動は、周縁への同情や判官贔屓ではない。我々人類が、どこまで叡智を尽くそうと、あるいは何も考えずに無邪気に夢だけを追おうと、必ず中心と周縁が出来上がってしまう。その原理への、無意識の底からの驚きと納得、そして、周縁が中心を模してしまった、という「原理」の「事故」がもたらす、リアルとアンリアルが絶妙にシェイクされた、異次元的な映像体験によるものであろう。(菊地成孔)