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カッコ悪いけれど、カッコいいーー映画『馬の骨』が描く、『イカ天』魂にあふれた渾身の生き様

2018年05月28日 12:52  リアルサウンド

リアルサウンド

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 脚本、監督、桐生コウジ。その名前には強烈な見覚えがあった。かつて『ディアーディアー』(15)という作品でプロデューサーを務め、さらには「幻のシカに運命を翻弄される三兄妹の長男役」としても奇妙すぎるほどの存在感を放っていた男である。


 実際のところ、この”知る人ぞ知る”名作『ディアーディアー』に魅了された人はかなり多かったようだ。筆者はこれまで何十人もの人とこの映画について話をしてきたが、誰もが「こんな作品と出会えるからこそ、映画って面白い」と言わんばかりに、邦画界に蜃気楼のごとく浮かび上がった本作への思いを嬉々として語っていた(未見の方は是非観てみてほしい)。


 そして2年半が過ぎ、我々は今一度この男の名と出会うことになる。桐生コウジ、待望の新作である。今度はシカではなく、ウマ。またも名作の予感がする。これを見逃すなんてことができるものか。


●「イカ天」出演の実体験をベースに、魅力的な物語を紡ぎあげる


 かくも彼のことから語り始めたのは、本作『馬の骨』が桐生自身の実体験に着想を得た、魂の叫びのごとき快作だからだ。そもそも不可思議なタイトルは、とあるバンド名に由来する。かつて時代が昭和から平成へと突き抜けた1989年、TVでは伝説的な深夜番組『イカ天』が放送開始された。その中では桐生がヴォーカルをつとめるバンドも出演。老婆を伴ったエキセントリックな演出がウケて、審査員特別賞を獲得したというのだ。そのバンド名こそ「馬の骨」。ここまでは一切フィクションなしの、紛れもない事実である。


 しかし本作は、当時の若者たちがバンドで頂点を目指そうとする話ではない。リアルな設定に“フィクション”という魔法を振りかけ、「あれから30年後の世界」を生きる元「馬の骨」ヴォーカルの姿を濃厚なまでに紡いでいくのだ。


 工事現場の仕事をクビとなり、住むところにも困った主人公、熊田(桐生コウジ)。彼は不動産屋で紹介された超絶的な安さのシェアハウスに魅せられ、契約書の職業欄につい「音楽関係」という嘘を書き込んでしまう。人里離れたその一軒家には、面倒見のいい大家さん(しのへけい子)と、キノコ採りが趣味の宝部さん(ベンガル)、アイドルとして活動しながらも本当はシンガーソングライター志望のユカ(小島藤子)、彼女を支える就活前の大学生の垣内くん(深澤大河)など、それぞれに事情を抱えた者たちが同居している。そこで期せずして熊田の「仕事は音楽関係」という嘘が一人歩きし、ユカは藁にもすがる思いで「ぜひ私にアドバイスして欲しい!」と頼み込むのだがーー。


 もちろん嘘はすぐにバレる。だが、本作が本領を発揮し始めるのはそこからだ。熊田は自分のことをすっかりと「終わった人間」と考えているが、この「今にも裏山の崩れそうなシェアハウス」という特殊な空間は、あたかも彼が内面に抱え込んだ時限装置のように、いつしか30年分の鬱屈と後悔を根底から揺るがし、徐々に突き崩すきっかけとなっていくのである。


 また、そこで出会う若きヒロイン、ユカとの友情も本作の要だ。彼女は『イカ天』放送時にはまだ生まれてもいなかった世代だが、この親子ほどに歳の離れた2人は奇妙な具合に呼応し、お互いの生き様に自分に近いものを見る。ユカは中年オヤジの熊田の悲哀を見つめながら「ああ、この人は私と同じなんだ」と気づき、また熊田は熊田で、情熱を抱きながらもつい自己に負けてしまいがちなユカの心情がよく理解できる。かつて自分もそうだったから。そうやって逃げ出した経験を今なお引きずって生きているから。


 かと言って、彼らは共感し合うだけでなく、逆に客観的な視点で相手に「自分にはない輝き」を見出し合うことだってできる。若さ。ガムシャラさ。根拠のない自信。底から突き上げてくるような表現への衝動。情けなさや悲哀の中からこういった宝石のかけらのような魅力がこぼれ出すのも本作のたまらない魅力だ。そんなささやかな師弟関係が醸成される中で、2人には次第に「失うものはない」と猪突猛進する度胸が芽生えていく。ヒロインにも。中年オヤジにも。


●そのなりふりの構わなさ。カッコ悪いけど、カッコいい。


 もしも本作が中年男性の視点だけだったら、それはあまりに哀愁に満ちた内容に成り下がっていただろう。逆に若さだけが満ち溢れていても空回りで終わったはずだ。つまり大きな鍵を握るのは、やはりこの親子ほどかけ離れたこの男女タッグの個性、さらに言えば異なる時代や世代、価値観といったものの掛け合わせの妙ということになる。


 そこに新たなハーモニーが生まれる。はじめは不協和音にも似た不恰好さばかりが目につくが、やがて呼吸や一挙手一投足がリズムとなり、発する叫びがメロディとなる。人生、それほどいいことばかりではない中で、本作はそうやって、日常に音楽の魂が湧き出でてくる瞬間をあまりに泥臭く、確かな体温を持って描いている。大成功なんてしなくていい。ただ自分自身を納得させたい。あの日の忘れ物を取り返したい。そんな切実な思いがじわりと胸に沁み、ただただ優しく、素敵に心を打つ。


 不意に涙を誘うのは、昔の仲間たちに「もう一度、バンドやらないか?」と連絡を取り始める熊田の姿だ。そこにはこれまでになく神妙で、気恥ずかしさと照れ隠しの中で瞳だけは真っ直ぐに見据えた表情があった。ふと「もう後悔はしたくない」という心の声が聞こえてきそうだった。


 かつて『イカ天』に出た一体どれほどの人が音楽活動を続けられているだろう。ライブシーンが撮影された新宿JAMも今はもう無くなった。気がつくと大切な存在が忽然と消えていたり、好きなものを好きだと言えないまま時が流れたりもする。人生はそんなことでいっぱいだ。かといってノスタルジーに耽っているだけでは何も始まらない。「今」をしっかりと掴まえなければ。ヒロインの船出を見守りつつも、自らの30年分の人生にケリをつけようと奮起する主人公の姿には、そんな覚悟と凄みがみなぎっている。笑っちゃうほどカッコ悪いけど、カッコいい。その相反する要素をなりふり構わず体現する生き様は、観る側の胸にも確実に何か熱いものを残すはずである。これは巨大な映画界からすればあまりにちっぽけな作品だが、こんな時代だからこそ、周囲の目ばかりを気にしすぎて身動き取れなくなっている人にとっては打ってつけ。まさに処方箋とも言うべき映画なのかもしれない。


 この渾身作を目にしながら、桐生コウジという人のステージ・パフォーマンスは今なお形を変えて続いているように思えた。「馬の骨」のスピリットは死んでなどいない。これからもこの人には、バンドを率いるみたいに破天荒かつ胸を揺さぶるような映画を作り続けて欲しい。そう強く感じずにいられなくなる一作である。(牛津厚信)