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瑛太が体現する“結論付けられない現実”ーー映画『友罪』が投げかける“少年A”の問題を考える

2018年05月28日 10:31  リアルサウンド

リアルサウンド

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 日本を震撼させた「少年A」といえば、多くの者が実際に起こった“あの事件”を思い浮かべるだろう。小学生や児童をターゲットにし、警察を挑発するメッセージを残した猟奇的な殺人のみならず、その犯人が中学生男子だったというショッキングな展開。当時、多くのメディアによって事件報道は過熱した。


参考:山本美月が語る、瀬々敬久監督と考えた“普通”の意味 映画『友罪』インタビュー


 更生施設を出て大人になった「少年A」は、いま日本のどこかで生活をしている。彼は日常に溶け込んでおり、われわれの顔なじみだったり隣人として、身近に存在しているのかもしれない。映画『友罪』は、作家、薬丸岳(やくまる・がく)の同名小説を基に、事件を起こした「少年A」のその後をフィクションとして描いた映画だ。


 主演を務めた生田斗真は、本作の舞台挨拶のなかで、「はっきり言って問題作です」、「賛否両論も巻き起こると思っています」と発言した。そんな言葉が出てくるのも分かるほど、本作『友罪』は、エンターテインメントを超えた地点でわれわれの感情や思考を揺さぶってくる。ここでは本作が描いたものを読み取り、「少年A」の問題について、できる限り深いところまで考えてみたい。


 生田斗真が演じる主人公“益田(ますだ)”は、週刊誌の記者を辞め、ジャーナリストの道を挫折した青年だ。家賃を払う貯えもなく町工場に流れ着き、従業員として寮に住み始め、そこで同時期に働き出した“鈴木”(瑛太)という人物と出会うことになる。極端に口数が少なく、周囲の人間と距離をとって仕事をする鈴木は、何を考えているのか全く分からない謎めいた人物だ。それでも益田は職場でのトラブルを機に、少しずつ鈴木との交流を深めていく。だが、益田はある日偶然に、この鈴木が過去に残忍な殺人事件を犯した、あの有名な「元・少年A」であることに気づいてしまう。


 この物語は、実際の「少年A」が施設で慕っていた女性の精神科医や、一家離散した両親(本作では別の事件の家族として描かれている)の存在など、公表されている実際の「少年A」事件の情報を知っていれば、それらを基に組み立てられていることが分かるだろう。さらに週刊誌が、出所した後の鈴木の足取りを記事で発表するという展開も、やはり実際の出来事をトレースしている。


 鈴木は、寮の仲間たちとカラオケでアニメソングを照れながら歌うほどに、周囲に対して心を開くようになっていく。緊張して小さな声でボソボソと歌い始めるが、だんだんリラックスして楽しむようになっていく過程は、そんな鈴木の、ほどけてゆく心の動きを象徴しているようだ。劇中で鈴木は、同様に過去の出来事を背負う若い女性(夏帆)に出会い、心を通わせるようにもなる。


 われわれ観客は、この鈴木という青年の心の成長や、ぎこちない恋愛を、ついつい微笑ましく見てしまう。しかし、この人物が「元・少年A」だということを意識すると、素直にニコニコと見ていられるだろうか。かつて殺人の被害に遭った、何の罪もない小学生や児童は、成長してこのような幸せな時間を過ごすことはできないのだ。当時中学生だったとはいえ、他人の人生を身勝手に奪った「元・少年A」が、被害者を差し置いて人生の楽しみを味わっている姿は、われわれに複雑な思いを抱かせる。


 そういう視点を代弁するのが、自分の息子が交通事故を起こして他人の子どもの命を奪ったために一家離散することになった、ある家庭の父親(佐藤浩市)だ。彼は、一家が離散した原因となった息子が、女性を妊娠させ、あまつさえ結婚を考えていることを知ると、「お前が家族を作ってどうするんだっ…!」と、激昂する。彼は鈴木とは関係ない人物だが、このセリフは、本質的に「元・少年A」に向けられたものであることは明白だ。


 他人の家族を破壊し、自分の家族までをも壊すことになった人物が、いま新しく家族を作り出そうとしている。事件の被害家族にしてみれば、たとえ法律が許したとしても、そんなことが道義的に許されるのかと思ってしまうのは自然だ。人によって感覚は異なるだろうが、過失による交通事故で人を殺した人物が、被害者のためにその後の人生を一切楽しんではならず、幸せになる道を絶たなければならないかというと、それは行き過ぎのようにも思える。だが、そう思うことがもし行き過ぎだとするなら、少年時代に快楽殺人を犯した「元・少年A」が、家庭を持って幸せに生きることに異を唱えることも、果たして行き過ぎなのだろうか。交通事故による殺人が許されるべきで、少年による快楽的な殺人が許してはならないのだとすれば、その「許される、許されない」という線引きはどこにあるのか。


 実際の「少年A」が逮捕されたとき、「少年法」によって犯人に刑事処分が与えられず保護されたことについて、世間では反発もあった。確かに「少年法」制定時には、子どもがこれほどの凶悪事件を起こすことは想定外だっただろう。刑事処分の可能年齢が、「16歳以上」から「14歳以上」へと、2000年の時点で改正されたのは、やはりこの事件の影響が大きかったはずだ。ともかく「少年A」は、それ以前の基準によって保護処分となった。「元・少年A」への複雑な感情は、この処分が法律上はともかく、道義上、果たして適当だったのかという疑問にも繋がっているように感じられる。


 本作は、その判断を観客一人ひとりに考えさせるつくりになっている。かつて残忍な方法で、小学生や児童を殺害した「元・少年A」を、感情移入すらできる一人の人間として描き、法律を超えたところで、彼を許せるのかどうか迫ってくる。そして観客がそれをどう結論づけたとしても、おそらく誰かの人権を少なからず踏みつけてしまうことは避けられないのではないかと思える。


 本作における、もう一つの重大な疑問は、彼が本当に「更生」しているのかということだ。実際の事件を基にしているが故に、その真実を描くことは非常に難しい。当時の「少年A」の実際の主治医は、「この子は大丈夫でしょう」と語っているものの、本当に真実を知る者は「元・少年A」本人以外にはいないからである。


 知り得ない真実をどう描くのか。瀬々敬久(ぜぜ・たかひさ)監督は、あたかも鈴木が、二つの状態が重ね合わされた「シュレーディンガーの猫」であるかのように、二つの可能性を同時に描くという演出を施している。犯行を悔やんでいるのか、それとも嘲笑しているのか。どちらか読み取れない、アンビバレントでどっちつかずな演技を瑛太に求めているように見える。これこそが、本作が真に描こうとしたサスペンスであり、結論付けられない現実そのものなのだ。


 われわれは、この先も「元・少年A」の心のなかの真実を知ることはできないだろう。またそれは犯罪者に限らず、全ての他人の考えに対しても言えることだ。友人であっても恋人であっても、他人の本音を確実に知ることは不可能である。しかし本作の益田のように、あらゆる可能性を真剣に考え、相手を知ろうとする行為は無駄ではないように思える。世界中で起きている差別問題や争いなどの悲劇は、相手を理解しようとせず、自分の考えの枠のなかに押し込めてしまうことで生まれるのではないだろうか。「少年A」が当時、残忍な犯行に及ぶことができたというのは、まさにこのような想像力が欠如していたからであったように思える。(小野寺系)