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実写映画を超える思春期のリアル 『リズと青い鳥』に見る、京都アニメーション作品の映画的手法

2018年05月16日 16:22  リアルサウンド

リアルサウンド

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 『映画 聲の形』が公開された際、原作漫画があることも知らず、松岡茉優さんが声優を担当しているという情報だけで観に行きました。そしたら、こんなにすごいアニメーション映画があるのかと衝撃を受けました。その後、原作漫画を読んで、映画がいかに原作の大事な部分を抽出して、構成・演出を行っていたのか、その凄さを改めて感じました。山田尚子監督を中心とした京都アニメーションの作品には“映画的手法”があるのです。


 そんな京都アニメーションが手がけた本作には、まるで“デビュー作”と思うような実験性と大胆な演出が詰まっていました。『映画 聲の形』があれだけヒットして、批評面でも高い評価も受けただけに、次に手がける作品は、いわゆる手堅いものになってもおかしくなかったと思うんです。でも、表現方法を多くの人が理解できるような分かりやすいものにするのではなく、作り手たちが本当にやりたいものをもう一度見つめ直している作品になっていました。


 構造としては、内気な主人公の鎧塚みぞれが、自分の殻を破って一歩成長するという非常にシンプルなお話です。自分を吹奏楽部に誘ってくれた親友・傘木希美を思い続けるみぞれと、自分より優れた音楽的才能を秘めていたみぞれに、嫉妬にも似た感情を覚えてしまう希美。2人の揺れ動く感情が丁寧に紡がれていきます。そんな2人の心情にシンクロしていくように、架空の童話『リズと青い鳥』のアニメーションがインサートされていく。青い鳥を自由に解き放つことが愛なのか、一緒にいることこそが愛なのか。みぞれと希美、どちらが青い鳥でどちらがリズなのか。置かれている立場が逆転してしまう、その心情が変化していくさまはスリリングですらありました。


 映画の冒頭は、みぞれと希美、2人の足音から始まります。高校3年生の吹奏楽部員である2人の何気ない登校風景を描写していくのですが、そのワンシーンだけで、本作が“音”の表現についての作品であることがありありと分かるんです。


 この冒頭とラストシーン以外、みぞれと希美は校舎内でしか映し出されません。このミニマムな世界観に落とし込むという選択に潔さを感じます。みぞれと希美が「みんなでプールに行こう」という会話をするシーンがあるのですが、その次のシーンではプールに行った後、写真をみんなで観ているカットになります。この場面は見せ場のひとつになりそうなのに、彼女たちを決して学校の外に出そうとしないんです。このシーンで作り手のこの映画に対する姿勢が伺えました。


 学校内しか描かないからこそ、教室にある何気ないアイテムで登場人物たちの感情が表現されていきます。風に揺れるカーテン、教室の黒板に貼られた掲示物、理科室にいる水槽の中のメダカなど、描かれている一つひとつのものに繊細な意味が込められているんです。絵で描かれた人間たちの芝居に加え、それらが実に効果的でした。


 学校という内側の世界しか描いていない一方で、彼女たちには高校卒業後の進路という外側の世界を突きつけています。分かりやすさを重視するのであれば、学校の外の世界も描いた方が観客には絶対に親切なんです。でも、あえて描かないからこそ、彼女たちの日常を観客に想像させる余地を与えることができる。大胆な作り手たちの姿勢が垣間見える、非常に映画的な演出だと感じました。それはフレームの中しか見せられないからこそ外の世界を想像させるというやり方です。


 彼女たちが通っている学校は女子校ではなく、共学なのですが、男子生徒の姿はほとんど映りません。会話の端々で男子が確かにいることは匂わせるんです。みぞれの今の心境を考えると男子が映らないのは自然なことなのでしょう。この演出を実写映画でやってしまうと、露骨に男子を排除しているような違和感が起きてしまう。そういったアニメーションならではの良さを活かしながら、本作は実写的な演出が随所に施されています。僕はこの演出に気付いたとき、高校生の頃、女子が僕らとはまったく違う世界を見ていたことを思い出しました。


 登場人物たちの足元や手、視線など、何気ない動きを丁寧に描き、それをリフレインさせることで心情の変化が観客にも伝わってきます。元々は絵であるはずの彼女たちが、まるで芝居をしているように見えてくるんです。


 その意味で本作は、中原俊監督作『櫻の園』や、市川準監督作品『つぐみ』『あしたの私の作り方』などに似ていると言っていいかもしれません。主人公の少女から距離を置きながら、じっとその成長を見守っている感じとか。2015年公開の『心が叫びたがってるんだ。』を観たときにも感じたのですが、現在は実写よりもアニメーションのほうが、等身大の高校生の感情を描きやすい時代なのかもしれません。現在、少女漫画の実写映画が非常に多いですが、同じ学校を舞台にした作品でも、演じている俳優さんたちは20代の方がほとんど。それが悪いわけではないのですが、設定や展開される内容が現実とかけ離れてしまうものが多く、“ファンタジー”と言ってもいいぐらいです。そんな実写映画のファンタジーに対して、今の高校生たちがどんなことに悩んでいるのか、どんな人間関係を作ろうとしているのか。世間や社会に対して、どんな憤りを感じているのか。そういった思春期のリアルが、本作のようなアニメーション作品には詰まっていると感じています。


 アニメーションだから、シリーズものだからと敬遠するのではなく、本当にいろんな方に観ていただきたい作品です。大袈裟な見せ場やオチがある作品ではありませんが、見応えは十分にあります。付けている芝居は最小限でも、観客にその世界観に入り込ませる世界観の構築と演出力があるから、動かない時間が表現として成立させています。実写映画の場合は役者が動かない時間にも、カメラを通してそこには空気が流れていて、そのシーンが停滞するわけではありません。例えば僕にとっては市川準監督がその名手でした。ただ、アニメーションにおいては、動かない時間はただの静止画になってもおかしくなかったはず。止まっていることと動かないことは違うのです。それをアニメーションで作っている京都アニメーションのみなさんには脱帽するしかありません。


 アニメーションで動かない時間を巧みに描いていた監督と言えば、押井守監督です。押井守監督も山田尚子監督も、停滞する時間をただの静止画にしません。実写とアニメーションの違いや、映画か否かといった問いは今までもありましたし、これからもあると思いますが、僕は映画を観るときに注意することのひとつに「時間の流れ方」があります。そういう意味では『リズと青い鳥』には僕が求める「映画」がありました。


(松江哲明)