■過去と未来、史実とSF――両極端の世界を描く2作は、真逆の方向から「いま」を見つめる
スティーブン・スピルバーグは多産な映画監督だ。およそ半世紀に及ぶキャリアを見返すと、年間ほぼ1本という超ハイペースで新作を公開し、同時に製作総指揮やプロデュースも手がけている。日本国内で今年立て続けに公開された『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書(原題:『The Post』)』と『レディ・プレイヤー1』にいたっては同時期に製作していたというのだから、その仕事中毒ぶりに驚かされる。
1970年代に実際に起きた機密漏洩事件と2045年のVR世界を舞台としたジュブナイルSFという、まったく毛色の異なる題材を破綻なく完成に導くバランス感覚こそ、スピルバーグの特別な才能だろう。だが、この2作は彼のなかで完璧に切り離されて別々に存在しているわけではない。過去の歴史と未来の空想という両極端な世界を描いた2つの映画は、それぞれ真逆の方向から明確に2018年の「いま」を見つめている。
■トランプ政権下の動揺、安倍政権とマスメディアの攻防を連想させる『ペンタゴン・ペーパーズ』
『ペンタゴン・ペーパーズ』は、1971年に「ニューヨーク・タイムズ」と「ワシントン・ポスト」の二大新聞紙が、ベトナム戦争にかかわるニクソン政権の虚偽スキャンダルを報道した事件に基づいている。
映画では、主に後者の新聞社内で起きた「報道倫理を重んじる現場」と「組織の継続を重視する経営陣」との間の葛藤に光が当てられる。大義なきベトナム戦争の欺瞞を暴くことはジャーナリズムにとっては正義だが、同時にそれは、会社を破滅させ、雇用者たちを路頭に迷わせかねない危険な爆弾だ。
女性経営者キャサリン・グラハム(メリル・ストリープ)と男性編集主幹ベン・ブラッドリー(トム・ハンクス)は、衝突と共同を重ねながら最良の選択を模索していくわけだが、権力と富に恵まれた勝ち組たちが、政府からの制裁に怯えて子犬のように身を震わせつつも決断するクライマックスは、トランプ政権下におけるアメリカニズムの動揺を露骨に反映したものだし、日本の観客からすれば森友・加計問題や元財務省事務次官による女性記者へのセクハラ問題に揺れる、安倍政権とマスメディアの攻防を連想させる。
■『レディ・プレイヤー1』はビッグデータ社会の行方を暗示? 巨大IT企業の野望
一方、未来のディストピアに80年代の楽観的ムードが漂う『レディ・プレイヤー1』は、現在の我々が恩恵を受けるビッグデータ社会の行方を暗示している。
殺伐とした現実の代替として人類が耽溺する仮想現実世界「オアシス」の所有権をめぐって主人公たちと対立する巨大IT企業の野望には、大衆のライフログの収集・分析を商売とするGoogleやAmazonの社会的影響力と、それに対する人々の警戒心が反映されている。
最近大きく騒がれたFacebook社による約8700万人の個人情報流出事件(これにも大統領選挙中のトランプ陣営が関わっている)は、利便性と引き換えに奪われる個人の自由について多くの警句を発しているが、スピルバーグがアーネスト・クラインの原作『ゲームウォーズ』から再創造した『レディ・プレイヤー1』の意義もまた、この同時代性に見出すことができる。
■不正や嘘がまかり通る国に慣れた観客に2作はどう映るか。両作に潜む「明るく残酷な嘘」
この2本を観て特に面白いのは、キングコングやハローキティやガンダムが複雑な著作権の世界を超えて活躍する『レディ・プレイヤー1』の荒唐無稽さよりも、史実に基づいているはずの『ペンタゴン・ペーパーズ』のほうがはるかに現実から遠く離れて思えることだ。それは先に述べたクライマックスに顕著で、毎日のように不正や嘘がまかり通る国に慣れた私たち=観客は、主人公たちの勇気溢れる行動が報われる結末を率直に想像することができない。
この現実からの遊離感は、『シンドラーのリスト』以降のスピルバーグ作品の撮影監督を務めるヤヌス・カミンスキーによる淡い光を活かしたクラシカルな映像によってさらに強調される。ほぼ全編がCGで描かれる『レディ・プレイヤー1』においては、どこかチープなリアルワールドがそうだし、『ペンタゴン・ペーパーズ』では主人公2人が印刷工場から立ち去っていくラスト近くのシーンが象徴的だ。
両作は、共に「この世界に正義はあるのだ!」と高らかに宣言するかのような「ベタな」ハッピーエンドで幕を降ろすが、そこには現実を両義的に見ようとするスピルバーグなりの嘘がある。この嘘は、観客を奮い立たせる明るい嘘だが、動かしがたい現実を強調する残酷な嘘でもあるだろう。
■『ペンタゴン・ペーパーズ』が描く「女性の力」の勝利は未来への希望
だが、最後にもう一つ、『ペンタゴン・ペーパーズ』に込められた別の嘘の話を加えておきたい。裁判に勝利を収めた主人公たちを大勢の市民が迎えるシーンで、編集主幹のベンはたくさんの男性新聞記者たちに取り囲まれ、喝采を受ける。その横を黙って通り過ぎる経営者のキャサリンに記者たちは目もくれないが、かわりに彼女を力強く迎えるのがたくさんの女性たちだ。この素晴らしく美しいシーンは、同作のもう一つの主題である「女性の力(Woman Power)」の勝利も象徴している。
もちろん、このシーンは映画的な嘘で作られたもの。ニクソン大統領を辞任に追い込んだウォーターゲート事件の報道に深く関わり、アメリカでもっとも影響力のある女性としてキャサリンが知られるようになるのは、数年後のことだからだ。だが、ここでカミンスキーがとらえた画面右へと水平移動するショットの美しさは、英雄の登場を祝福する歴史画を思わせる。人種も年齢もさまざまな女性たちは、やがて訪れる未来を予兆しているのだ。
日本よりも遥かに女性運動が盛んなアメリカであっても、1970年代が依然として男性中心の社会だったのは『ペンタゴン・ペーパーズ』を観ればよくわかる。だが現在の世界は違う。この日本でも状況は変わりつつある。このシーンに込められたスピルバーグの嘘は、2018年の私たちを肯定するまっすぐな希望に溢れている。