トップへ

黒瀬陽平が語るカオス*ラウンジ新芸術祭。震災後のアートを問う

2018年05月15日 13:11  CINRA.NET

CINRA.NET

黒瀬陽平
昨年末、福島県いわき市で開催された『カオス*ラウンジ新芸術祭2017 市街劇 「百五〇年の孤独」』。「かつての復興の失敗を歩く」というセンセーショナルな見出しを冠されたこの展覧会は、明治時代に起こった寺院の打ちこわしがなされた「廃仏毀釈」の痕跡を辿りながら3つの会場を巡る「市街劇」だった。

殺風景な街並みの中、無縁仏の供養された寺跡や設置された作品群を見ながら歩いていくと、そこには本展開催に合わせて開山した密嚴堂という寺や、2017年暮れ、アルミ缶で鋳造された鐘で150年ぶりに除夜の鐘がつかれたという観音堂が待っていた。

言うまでもなく東日本大震災(以下、3.11)の被災地であるこの地で、3年連続して極めて異例の芸術祭を敢行してきたカオス*ラウンジ。その実践は、平、小名浜、泉と場所を拡張しながら、その土地の歴史を過剰と言えるほど掘り下げ、アートを通じた現在の復興のあり方や未来について考えるきっかけを模索してきたように見える。

ネットやアニメ、キャラクターといったオタクカルチャーをモチーフとしてきた彼らが、震災以降、なぜこれほどまでに徹底したリサーチを重ね、神話や宗教を動員してまで被災地を立体化する必要があったのだろう? キュレーターの黒瀬陽平に話を伺った。

■日本国内のほとんどの芸術祭は単なる町おこし。震災後は特に、震災問題を扱う作品の違和感が強かった。
―2010年代の芸術祭隆盛の一方で、『カオス*ラウンジ新芸術祭』はそれらとは異なり、スペースを自分たちで開拓し、しかも被災地で行うというオルタナティブな芸術祭を志向していたと思います。黒瀬さんの感じていた既存の芸術祭に対する疑問点と、『新芸術祭』の開催意図とはどのようなものだったのでしょうか?

黒瀬:自前でやることに関してはいくつか理由があります。まず分かりやすいのは僕たちが震災後に、震災をテーマとした作品を作ったことで「炎上」したこと。それによって、助成金や公的なお金で活動することができなくなった。役所はクレームに弱いですから、炎上しているアーティストや団体に助成金を出すことは極めて難しい。

ただ、そのことで問題がはっきりしました。本来我々がやっていることは、日本の文化行政が全面的に喜ぶようなことではない。震災という大きなテーマを扱う以上、場合によっては地元住民が見たくないもの、考えたくないことについても触れなければならない。でもそれは、行政による町おこしの予算ではやらせてもらえない。だったら自前でやるしかない、と。

黒瀬:芸術祭に関して言うと、北川フラムさん(『越後妻有アートトリエンナーレ』『瀬戸内国際芸術祭』などの芸術祭を手掛けるアートディレクター)を先駆者とした日本の芸術祭の系譜は、とても重要だと思っています。北川さんは、日本が近代化する過程で切り捨てられた山村、農村を、現代アートの聖地にすることで復興させました。それは、かつて全共闘運動に深くコミットしていた北川さんなりの「前衛」であり、社会実験なのだと思います。

ただ、北川さん以降に出てきた芸術祭の多くは、単なる町おこしとして動員を期待されているに過ぎない。現在、全国各地でこれほど芸術祭が流行っているのに、3.11の被災地を舞台とした大型の芸術祭は、驚くほど少ないのです。復興はしたい、でも震災のことは深く掘り下げてほしくない、という自治体の欲望がはっきりと表れています。

もちろん、被災地でのアート活動にもたくさん助成金が落ちていますが、震災の問題を扱う作品の想像力の貧困に対して、違和感が強かった。

―それはどんな部分での違和感ですか?

黒瀬:例えば、被災地に入って当事者の言葉や経験を細かく引き出し、それらに寄り添いながら作っていくタイプの作品やプロジェクトがあります。そのような作品やプロジェクトは、一見、震災をテーマにした真摯な取り組みに見えます。

しかし、当事者に寄り添いすぎることで、本来であれば多くの「よそもの」と共有すべき震災や原発事故という人類的問題が、当事者の名の下に囲い込まれてしまうケースが多い。それは結果的に、震災にまつわる普遍的な問題を、当事者とそれを代弁するアーティストだけで独占することになってしまう。

そのような活動をしているアーティストの多くは、当事者しか分からないこと、経験できないことを安易に共有すべきではなく、むしろ「わかり得ない」ことを自覚するのがアートであり、倫理であると言います。しかし僕は、それは単に情報の独占であり、被災の記憶を死蔵してしまうのではないか、と疑問に思っていました。

今回の震災は、人類にとっても普遍的な事件であり、アーティストは作品を通じて、様々な人がアクセスして考えることのできる思考空間を提供すべきです。僕らは、震災をめぐる問題がわれわれに問いかけていることを言語化し、イメージし、作品体験として共有するためにはどうすればいいかを、ずっと考え続けてきました。

―震災をめぐる問題のなかで、特にどのようなことに注目されたのでしょうか?

黒瀬:究極的には「死者」の問題です。災害や事故が起こればたくさんの人が亡くなります。3.11でも、たくさんの人が亡くなりました。その周りには多くの人々が取り残され、街全体がたくさんの死者を抱えることになる。残された人や街は喪失感を抱えたまま、死者の隣で生きていかなければならない。そういった問題を震災は僕らに問うていると感じたんです。

そのことを考えながら、なにかヒントとなるようなものを探しましたが、現代美術の中にリファレンスを見つけるのは難しく、宗教について考えるようになりました。人類史を見れば、長い間「宗教と美術」が死者の慰霊や鎮魂の役割を共有していました。そう考えると、かつて宗教が生きていた時代、美術と手を携えていた時代には、死者をどのように扱っていたのか。そういった興味が出てきたんです。

■現実を今すぐに、直接動かすことは芸術の仕事ではありません。
―宗教と美術が、死者をどのように扱ってきたのか。それが『新芸術祭』を始める動機だったんですね。

黒瀬:そうです。それで2014年からいわきに通い、継続してリサーチを行ってきました。実はいわきの平という地域は、炭鉱や原発といったエネルギー産業が入ってくる以前、現在とは異なる個性を持っていました。東北仏教の布教の拠点になるほど寺院がたくさんあり、仏教都市としてのアイデンティティがありました。今の浜通り(福島県の太平洋側沿岸の地域)の姿からは想像できないような歴史があることが分かって、衝撃を受けたんです。

―いわきという場所が近代以前と以後で大きく変わっていたのですね。多くの人は震災後の福島を現在の視点で考えていましたが、過去を掘り下げることでまた違った被災地の印象が見えてくる。

黒瀬:現実の社会や政治を、今すぐに、直接動かすことは芸術の仕事ではありません。いわきに限らず、震災後に取材したいろいろな地域で、アーティストがいかに無力なのかをあらためて思い知りました。

でも想像力は自由です。足繁くいわきに通う中で、現在は忘れられてしまった過去のいわきの姿を、想像力を使って召喚し、現実に上書きしてしまえないだろうか、と考えたことが『新芸術祭』の始まりでした。

■「日本なりの前衛」というものをずっと考えていた。
―『新芸術祭』で目を引いたのが市街劇という形式です。黒瀬さんの著書である『情報社会の情念』でも、寺山修司の前衛的な概念として市街劇を扱っていましたよね。

黒瀬:日本美術史のなかで「前衛」は、すでに失敗し、死んだことになっています。例えば美術評論家の椹木野衣さんは、そもそも日本で前衛は不可能だと主張しています。前衛とは西洋的な「歴史」の概念と一体になっており、蓄積された歴史の最前線に、それを否定する運動としてあるものですが、日本はそもそも西洋的な歴史の概念が無く、したがって前衛も未遂に終わる、と。

しかし一方で、日本美術史のなかには「歴史のようなもの」や「前衛のようなもの」がある。それらはすべて失敗で、偽物なのかと言えば、そうではないでしょう。歴史が記述されるメカニズムや、前衛が生まれる条件が、場所や文明によって異なる、と考えたほうが自然です。

そういう考え方は、美術史だけでなく、インターネット文化やオタク文化にコミットしたことによって、そして震災後、宗教と美術の問題に触れたことで、ますます強くなりました。まだ誰もはっきりと定義していないだけで、きっと「日本なりの前衛」があるはずだ、と。

―その「日本なりの前衛」が震災後のタイミングで前景化したように見えます。それは何故だったのでしょうか?

黒瀬:前衛のひとつの要件として「現実否定のモメント」というものがあります。つまり、今の現実に違和感があったり、受け入れ難いと思うのであれば、それを否定して別の現実を想像したり、その実現に向けて表現することです。

僕が震災後に感じていたのは、その「現実否定のモメント」にとても近いものでした。明らかに復興はうまくいっておらず、国力はどんどん下がり、社会は不寛容になり、多様性を失っていく。日に日に現実がクソだということが確定していくわけです。

そのような現実に慣れてしまうと、最初に死んでいくのが想像力です。今目の前にある現実に縛られ、そこから逸脱する想像力を失ってしまう。だからこそ、被災地を舞台にした「市街劇」という形で、現実の制約から想像力を解放したかったんです。

■寺山修司だったら今の世界でなにをして、なにを言っただろうか。
―「市街劇」という方法を選んで『新芸術祭』に実装した目的はどこにあったのでしょう?

黒瀬:被災地の街を想像力によって現実から逸脱させる、という僕のビジョンと、寺山修司の「市街劇」のコンセプトが重なることに気がついたんです。寺山を「死んだ前衛」ではなく、現在まさに求められているアクチュアルな前衛として復活させようと思い、オマージュの形を取りました。

寺山は、1983年5月4日に肝硬変で亡くなっていますが、もし寺山が病気をしていなければ、今もこの世界でTwitterやニコ生をやっていただろうし、僕はそれにクソリプを飛ばしていたかもしれない(笑)。寺山だったら今の世界でなにをして、なにを言っただろうか、そういうことを定期的に考えてしまうような存在です。僕にとって寺山は、一度も会ったことが無いし、絶対に会えない存在であるにもかかわらず、常にその「声」を聞こうとしてしまう「死者」のひとりだったんです。

―黒瀬さんのビジョンと寺山修司の「市街劇」は、どんな部分が共通しているのでしょうか?

黒瀬:寺山が1970年代初頭に編み出した「市街劇」は、想像力によって歴史を書き換える、現実を再組織化する、と宣言していました。突然、現実の街頭で同時多発的に起こるパフォーマンスのネットワークによって、まるで「AR(拡張現実)」のように別のレイヤーが重ね合わされ、想像力によって現実が書き換えられる。これは「現実否定のモメント」から始まった表現の一形式だと思ったんです。

震災後にフィールドワークを重ねてきて、ちょうど街を歩く巡礼のような表現形式や体験の設計に興味が湧いていたこともあって、「市街劇」を被災地でやればどうなるか、という実験をしたくなった。

カオス*ラウンジで行ってきたインスタレーションを街に拡張して、作品を見て回る順番やロケーション、物語や意味が全体で有機的に設計されている展覧会。それを自分なりの「市街劇」として行ったのが、『新芸術祭』なんです。

■痕跡を残すための受け皿自体を作る。そう考えた時に、寺を作ることが一番自然で合理的な解答であると気づいたんです。
―『新芸術祭』は3年間連続の開催でした。3回目の『百五〇年の孤独』では泉という土地に対してどのようにアプローチしていったのでしょう?

黒瀬:泉に入ったのは「廃仏毀釈」(明治維新の神仏分離によって起こった仏教破壊運動)が入口でした。水沢松次さんの『泉藩領廃仏毀釈 消えた寺院考察』という自費出版本の存在を知って、こんなにも徹底的な「廃仏毀釈」が被災地で行われたにも関わらず、それがどの文献にもほとんど登場しないことに驚いたんです。

―泉では密嚴堂の建立のように、自分たちで新たなモニュメントを立ち上げていましたね。その意図はどこにあったのでしょう?

黒瀬:『怒りの日』を行って、今、被災地で市街劇をやる意味がちゃんと伝わったという手応えはありましたが、これをどう着地させるかずっと考えていたんです。終わってしまったら全部消える夢みたいな経験ではなく、痕跡をちゃんと残したいと思っていた。

たしかに地元の人に買ってもらった作品はあるし、未だ現地にいくつかの作品も残っている。その意味で痕跡は残ったけど、市街劇の体験自体が残るわけではない。作品がバラバラに残っても、それはちょっと違う気がしていました。

現地に、市街劇の体験を留めておけるギャラリーや美術館のようなプラットフォームを作りたい、と考えていましたが、そもそも市街劇のような形式を収蔵できるギャラリーや美術館はありません。ということで、その受け皿自体を新しく考えることになった。結論から言えば、ギャラリーや美術館ではなく、寺を作ることが一番自然で合理的な解答であると気づいたんです。

■日本で現代美術が成立するとしたら、どのようなスタイルがあり得るか。
―寺を作ることがリサーチを重ねる中で行き着いた答えだった?

黒瀬:僕らがいわきに入ってから、菩提院袋中寺の副住職である霜村真康さんをはじめ、仏僧の方々にお世話になることが多くなりました。寺院や墓地、旧跡を巡りながら過ごしてきて気づいたことは、ギャラリーや美術館といった施設が輸入される以前は、寺院こそがその役割を担っていた、ということでした。寺には宝物がある。そして常駐して管理している人、つまり住職さんがいる。そこでは芸術が守られ、人が集まり、コミュニティの拠点になっているという意味で、寺はすでに昔からギャラリーであり美術館だったわけです。

にもかかわらず現在、寺に現代美術が入っていないのはなぜなのか。たしかに、現在美術とコラボレーションしている寺はあるし、寺院建築を活かした展覧会なども少なくない。でも、そのような企画をやっている現代美術家やキュレーターのほとんどは、仏教について考えるだけの知識を持っておらず、きわめて表面的なレベルでコラボレーションしているケースがあまりに多い。

今の現代美術と仏教の関係は、お互いビジョンや理念をほとんど共有しないまま、「オルタナティブ」なアート活動のバリエーションに堕してしまっている。そればかりか、寺の側も動員が欲しくて現代美術家やキュレーターに声を掛けているだけのケースすらある。そうなったらもう「地域アートで町おこし」と何も変わらない。

―両者の現状でのズレが明らかになった、と。そこでどんなことをしようと思ったのでしょうか?

黒瀬:仏教とアートの「死者への想像力」が呼応した状態で、寺に現代美術がある、という状況を作りたかった。それを本当にやるのであれば、単に話題作りのための表面的なコラボレーションではなく、場所を立ち上げるところからアーティストが一緒に関わることが絶対に必要でした。

そして立ち上げにあたっては、様々なことを話し合わなければならないし、試される。そのハードルをお互いクリアして、一緒に作りたかった。そういう意味で寺を立ち上げることは『新芸術祭』での大きなテーマでしたね。

―この3年間の『新芸術祭』は「震災後の時代」に対するカオス*ラウンジの実践の総決算だったように思いますが、今後の展開について具体的な構想はありますか?

黒瀬:色々なレベルであります。カオス*ラウンジは、ネットから生まれたアーティストコレクティブを超え始めて、法人であり、小さなギャラリーを運営し、哲学者の東浩紀さんが経営する「ゲンロン」という会社とともに『ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校』というスクールも開講しています。

もちろん、やみくもに事業拡大しているわけではありません。これらの活動はすべて、「日本で現代美術が成立するとしたら、どのようなスタイルがあり得るか」という実験なのです。その自然なフォームを見つけ、名指して実践することは、まだ誰もできていない。

かつて、村上隆さんはそれをやろうとしましたが、欧米で完成したフォームを輸入して啓蒙する、というやり方だった。もちろん、そこから日本のオリジナルのフォームを作ろうとしたし、今も部分的にそのプロジェクトを続けていることも知っています。むしろ僕は、その想いを自分なりに引き継ぐつもりでやっています。新芸術祭を3年やって、村上さんのやり方とは違うやり方が、少しずつ見えてきた気がする。

カオス*ラウンジが一体どういう集団で、どういうムーブメントだったのか。言葉や言説が残ることだけでなく、それが定期的に思い出され、誰かが継承して、また誰かに影響を与えるという運動自体を作らなければいけない。作品が美術館に入ることや、美術年表に名前が残ることは、本当の目標じゃない。そうじゃなくて、自分たちなりの現代美術のあり方、その原型を作らないと、カオス*ラウンジのプロジェクトは完結しないですから。