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【崖っぷち折原コラム】スーパーGT第2戦富士で復活したサードと耕太郎エンジニアの置土産

2018年05月11日 18:21  AUTOSPORT web

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スーパーGT第2戦で2位表彰台を獲得したDENSO KOBELCO SARD LC500
悲報が届いた。チームルマンの山田健二エンジニアが、スーパーフォーミュラ開幕戦の日曜朝に死去されたとのことだった。この悲報を受け、チーム、そしてTRDはスーパーGTレクサスチームのエンジニアを動かすことになった。

 WAKO'S 4CR LC500の山田健二エンジニアの後任として白羽の矢が立ったのは、DENSO KOBELCO SARD LC500に籍を置く田中耕太郎氏だ。そしてスーパーGT第2戦の富士から、耕太郎さんはサードからチームルマンに移籍することになった。そのサードは、笠井昭則氏をエンジニアに据え、富士を戦うことになる。

 チーフエンジニアが変わったとはいえ、コンバートが決まってから1週間ほどしか立っていない。それにタイヤのチョイスもサードは耕太郎さん、ルマンは故山田氏が決めている。となれば、それぞれのエンジニアが決めたセットでを変更する時間はなかったはずだ。それでもチームルマンは好調をキープし、予選2番手を獲得した。

 一方サードは異変が起きていた。予選5番手と、開幕戦で予選最下位に沈んでいたそれまでの不調が嘘のようなパフォーマンスを見せた。
 
 伝え聞いた話ではあるが、39号車を悩ませてきた問題のひとつが解決したらしい。そして状態の良くなったマシンに耕太郎さんのセットがハマった結果、トップから0.5秒遅れの5番手のポジションというわけだ。

 シーズン前のとテストでは「思った方向に行かない」とか、「何を変更しても変わらない」などのコメントしか出てこなかったのに、それまで積み上げたものが、ここにきて結果を見せはじめたように思える。レースでもヘイキ(コバライネン)がポジションを上げ、一時はトップを走る快走を見せた。

 バトンを受け取ったルーキーの坪井翔もその時点でのトップを快走し、ポジションを守りきり表彰台を手に入れた。ポディウムで見せたヘイキの笑顔は、それまでの苦しい状況が一変したことを物語っているように見えた。

 傍目にはどう見えたのかはわからないが、僕には耕太郎さんが積み上げてきたものが身を結びはじめたように思える。そんな中、チームルマンにコンバートされた彼自身はどう考えているのだろうか。話を聞けば「与えられた条件で結果を出すだけだよ」と答えるに決まっている。彼はプロだから。

 レースに携わっているプロは、得てして後ろを見ない。常に前だけを見据え結果を追い求める。僕の知っている耕太郎さんは、そんな人間の筆頭だ。そうであるなら耕太郎さんの残した39号車と、新しく作りはじめた6号車のこの先が楽しみで仕方ない。

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折原弘之 1963年1月1日生まれ
1980年の東京写真専門学校中退後、鈴鹿8時間耐久レースの取材を皮切りに全日本ロードレース、モトクロスを撮影。83年からアメリカのスーパークロスを撮影し、現在のMotoGPの撮影を開始する。90年からMotoGPに加えF1の撮影を開始。現在はスーパーフォーミュラ、スーパーGTを中心に撮影している。