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【ネタバレあり】『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』の“真の衝撃”を読み解く

2018年05月04日 12:21  リアルサウンド

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■衝撃の展開の裏に隠された“真の衝撃”とは


 マーベル映画のヒーローたちが集結し、強大な敵と戦う『アベンジャーズ』シリーズ。その3作目となる『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』は、制作陣が「終わりであり始まりだ」と主張するように、『アイアンマン』(2008年)から始まるマーベル・スタジオ単独制作のヒーロー映画10年の節目となる作品だ。そして本作と直接つながる、2019年公開の『アベンジャーズ』次作をもって、アイアンマンやキャプテン・アメリカなど、マーベル映画第一世代といえるヒーローの物語は、いったん終わりを迎え新たな展開へと進んでいくはずである。


参考:真の主役は“あの人”? 『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』期待以上の衝撃作になった理由


 正義感とユーモアあふれるヒーローたちが協力しながら、人類の脅威を撃退していく内容で観客を楽しませてきた『アベンジャーズ』シリーズ、そして単独映画で描かれてきたヒーローたちの物語が、一つの集大成へと向かっていく。本作『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』は、そんなマーベル映画に魅了されてきたファンの期待を一身に背負って制作された作品なのだ。しかし、ついに公開された本作の物語は、そこで期待されたようなイメージとは異なった、あまりにも衝撃的なものだった。本作の上映終了直後、呆気にとられた観客は押し黙り、劇場内は重苦しい雰囲気に包まれていた。


 『アベンジャーズ』1作目から姿を現し、マーベル映画の世界(MCU)最強最大の悪役として君臨する“サノス”が、本格的にアベンジャーズに攻撃を開始することをアナウンスしていた本作は、正義のヒーローたちが今まで以上に苦戦を強いられるだろうことは事前に予想されていた。しかし、まさかここまで思い切った展開を見せられるとは…。


 そんなおそろしい展開と同時に驚かされたのは、本作ではヒーローたちよりも、むしろ圧倒的パワーによってヒーローたちを蹂躙していく“サノス”にスポットライトがあてられているという点だ。作品に仕掛けられた“衝撃の結末”については言及を避けるとして、ここでは、この強大なパワーを持ったサノスと、ヒーローたちが作り出す構図が意味するものを読み解きながら、本作のテーマに内包された“真の衝撃”について考えていきたい。


■強すぎる悪役、サノスが生み出す絶望


 サノスは今までに『アベンジャーズ』や『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』に登場していたが、MCUで最も強大な悪役でありながら、その少ない登場シーンでは、彼がどんなキャラクターなのか、ほとんど分からなかった。だが今回は、しっかりとその内面まで掘り下げて魅力的に、あまつさえ感情移入してしまうように描かれている。


 本作の物語は、コメディーを得意とするタイカ・ワイティティ監督による、ギャグが連続する楽しい内容だった『マイティ・ソー バトルロイヤル』のラスト直後から始まる。アベンジャーズ最強のヒーローである雷神ソーは、突如襲いかかってきたサノスに全く歯が立たず、彼が守るべき大勢の同胞たちは無残にも殺戮されていく。


 そこにアベンジャーズのもう一人の最強のヒーロー、超人ハルクも参戦するが、サノスは武器も持たずにボクシングスタイルで、華麗なフットワークと怒涛の連打によって、ハルクを数秒で攻略し、戦意を喪失させてしまう。マーベル映画において、得意な肉弾戦でここまで完膚なきまでに打ち負かされる無力なハルクを見たことがない。いや、それよりも相手の土俵に立って堂々と戦う、サノスの圧倒的な強さが際立っているのである。


 アベンジャーズの双璧たる二大ヒーローの敗北。殺戮される人々。まさに絶望としか言えないダークな雰囲気と圧迫感は、このオープニングから映画全体にまで行き渡っている。サノスの体臭が匂ってくるくらいに、その紫色のたくましい腕で掴まれて締め上げられてるような気さえしてくる。


 この緊迫感や絶望感は、今までマーベル映画を熱心に見ていれば見ているほど強く感じるはずである。その意味で、本作の絶望を最大限に味わうには、やはり過去のマーベル映画を鑑賞しておくことが望まれる。それはまた、マーベル映画というものが本質的に、常にその制作を統括してきたケヴィン・ファイギの手による長大な一つの作品であったことを指し示している。『アイアンマン』からの10年、18作の足取りというのは、映画による大規模なドラマ作品と言うべきもので、それは従来の続編映画とは異なる形態となっている。


 その枠のなかでは、映画内の全てをコントロールするはずの映画監督の存在感は、作品によって個性を活かす人選がなされているとはいえ、比較的希薄なものになっているといえるだろう。だがその一方で、本作の監督であるルッソ兄弟(『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』、『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』)という、一定の統制がとられた環境下で輝くことができる優れた才能を発掘しているのも確かだ。


■「力」こそが「正義」になった世界


 本作の物語が進むと、絶望感はさらに増していく。サノスはここから、宇宙創世の際に生まれたという不思議な力を宿す宝石「インフィニティ・ストーン」を一つずつ集めていき、それらを金属製のグローブ「インフィニティ・ガントレット」にはめ込んでいく度に、強力な宇宙的能力を獲得し、全知全能の神にも等しい力を手にしていくのである。6つのインフィニティ・ストーンが揃えば“鬼に金棒”どころの話ではない。指を「パチン」と鳴らすだけで、宇宙の生命の半分を消滅させることすら可能になるというのだ。


 サノスが強大になっていく過程は、むしろ壮観である。アイアンマン、キャプテン・アメリカ、ドクター・ストレンジ、スパイダーマン、スター・ロード…次々に挑んでは敗北するアベンジャーズのヒーローたち。サノスは彼らの連携攻撃を正面から受けながら、自らのパワーとガントレットの力を組み合わせた、宇宙規模の攻撃を繰り出し、目的に向かって突き進んでいく。ここまでの圧倒的パワーがサノスという一個人に備わっていくのを見ていると、この悪役が一体どこまで強くなれるのかという興味が沸いてくるとともに、彼の放つ強大な力そのものに対し、観客が憧れの念すら抱いてもおかしくない。


 だが忘れてはならない点は、彼の目的というのは、“宇宙の生命を半分滅ぼす”という最大最悪の大虐殺(ホロコースト)なのだ。サノスはなぜそんな狂った犯罪に手を染めなければならないのか。それは宇宙の人口増加問題によって食料危機などが起き、将来的には宇宙の生命が滅んでしまうということが予想されるからだという。つまり彼が行っているのは、大きな意味での「正義」だというのである。


 サノスの言葉を信じるなら、確かに資源を狙って戦争が起き、知的生命は自然環境を巻き込んで、全て自滅していく可能性がある。ならば、争いの元である生命の数を半分にすれば、悲劇を未然に防げるという説も成立しないことはない。少なくともサノス自身は、自分のやっていることを、生命を守るために必要な行為だと信じきっている。さらに、種族や貧富の差と関係なく無作為に生死が選ばれていくという彼の考え方は、ある特定の民族や団体を滅亡させようとする虐殺「ジェノサイド」とは異なるのだ。


 おそろしいのは、そのように生命を生かすために生命を間引きするという狂った行為が、究極のリアリストによる、ひとつの「正義」なのだということを、絶対的な力を背景に強弁すれば、押しきれてしまえないことはないという点である。サノスは、敗北するアベンジャーズに「自分は正しいと思っていても、どうにもならない」と、諭すように言い放つが、それはつまり、理論の正しさを最終的に決めるのは、それを語る者の“力”なのだという意味である。


 実際にアメリカでは、差別的な言動を繰り返しているという一点において、サノスよりも道徳的に問題があるといえるドナルド・トランプ大統領が、子どもの教育に悪い過激な発言を連日のように続けている。その不道徳さを問題視する人々は、大統領の声明やツイッターでの発言に恐怖し、苦々しく思いながらも、それを止めることはできない。政権内でも、その意に反した者は排除されていく。どんなに正しいと思われる批判をしようが、大統領は独自の理屈による「正義」に従って、自身の強大な権力を背景に行動していくのだ。独善的な「正義」が力で押し通される現在のアメリカの光景は、本作の哀れなヒーローたちがサノスを止められず打ちひしがれる姿と重なるように感じられる。そしてそれは、アメリカ国内のみにとどまらない、世界中で見られる普遍的な構図だといえるだろう。


 マーベル映画がトランプ就任以前に、サノスとの最終対決を予定していたことは確かだろうし、本作の内容が原作コミックに準拠しているのも確かだ。しかし、この現実とのシンクロというのは、数奇な巡り合わせである以上に、脚本や演出の細かい部分で、現実の状況に寄せた部分もあるはずである。


■揺さぶられるヒーローたちの「正義」


 サノスが朝の日差しを眺めるシーンによって、本作は真のおそろしさを見せる。『ブラックパンサー』で「地球で一番美しい」と言われていた、太陽に照らされるワカンダ王国の景色を美しく思う心が、ブラックパンサーと悪役キルモンガー、双方が持つ王国への共通する愛情を表していたように、殺戮者サノスにも世界を愛する心があり、朝の美しさに感動する心があったのである。


 われわれは、歴史上の大量虐殺に関わった人物を悪魔のような狂人だと思いがちだし、手を下した人間を地獄の鬼のような存在だと思いがちだ。しかし、子どもすら殺害するホロコーストに関わった人間が、その日に帰宅して自分の子どもたちを抱きしめることができるように、現実では愛情豊かな人間が、矛盾なく殺戮者になることもできるのだ。サノスには深い愛情を感じる唯一の対象があった。彼はその人物のために涙を流す一方で、愛し合う人々を引き裂き、無残に殺害していく。


 彼が理性を失った、完全な狂人であれば安心できる。殺戮者サノスの示す愛情にわれわれ観客が動揺させられるのは、自分の内面とサノスの内面の間に本質的な違いを見出すのが難しいからであろう。それはつまり、自分自身も時と場合によっては殺戮者になりかねないという可能性を垣間見てしまうということである。そして、今まで「アベンジャーズ」シリーズの正義の原動力として機能していたはずの「愛」が、逆に正義を殺していくという、一つの真実を突きつけられ戦慄するのだ。


 アベンジャーズがいつでも完璧に正しいとは限らないということは、『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』で、正義の巻き添えになって命を落とす一般市民が出てしまったことで、すでに描かれている。だからこそアベンジャーズは、それぞれの「正義」を信じる二派に分かれたのだ。正義にいろいろなかたちがあるのならば、サノスの語る不完全な「正義」は、ヒーローたちの信じる不完全な「正義」と決定的に違うものだと言い切れるだろうか。悪を力でねじ伏せてきたアベンジャーズと、アベンジャーズを力でねじ伏せるサノスのどこに違いがあるのだろうか。本作『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』は、サノスの内面をヒーロー以上に深く描くことで、最終的にそこまで突っ込んで観客の倫理観や固定観念を揺さぶってくる。


 では、ヒーローがヒーローでいるためには何が必要なのか。正義を正義たらしめるものとは、一体何なのだろうか。その最終的な結論は、『アベンジャーズ』最終作が出すであろうメッセージを待って、あらためて考えたいと思う。(小野寺系)