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狂った野獣=小林勇貴の狂い咲きが始まるーー『全員死刑』を商業映画デビュー作に選んだ理由

2018年05月02日 12:32  リアルサウンド

リアルサウンド

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 ここ数年で、最も勢いを感じさせる日本の若手映画監督と言えば、小林勇貴である。最近の新人監督は天才肌が多い。最初から才能にあふれて、自主映画とは思えないような完成度でいきなり登場する。山戸結希や岩切一空がそのタイプだが、最初はその達成度に感嘆するものの、以降も同じテーマの繰り返しになり、驚きは薄れてしまう。


参考:『全員死刑』の「急にどうした」感 小林勇貴監督は異様な原作をいかに映画化したか?


 小林勇貴は天才肌ではない。早すぎる自叙伝『実録・不良映画術』(小林勇貴 著/洋泉社)は、若松孝二の『俺は手を汚す』(若松孝二 著/河出書房新社)に匹敵する名著だが、これを読めば、小林が愚直なまでにひたすら映画を観て、本を読み、取材し、映画を撮るという行程を繰り返し、一歩ずつ試行錯誤しながら歩を進めていく監督であることが分かる。毎回不良の映画ばかりであるにもかかわらず、飽きが来ないのは、新作を撮るたびに目に見えて変化と進化を遂げる――それも、商業映画、自主映画、配信、長編、中編といった区切りとも無縁に、最新作が一番面白いという驚きを、いつも観客に与えてくれるからだ。


 今回、『全員死刑』のDVD化に合わせて、自主映画時代からの全作品が一挙にリリースされる。岩井俊二や園子温ですら、初期作品集がソフト化されるまでに20年前後かかっているのに、いかがなものかと一切思わせないのは、自主映画も商業映画も無関係に、疾走を続ける小林映画を知る上で欠かせない重要作ばかりだからだ。


 最新作の『へドローバ』は、〈ケータイで撮った〉80分ほどの中篇である。昨年末、アップリンクで限定上映されたが、初の商業映画となった『全員死刑』の公開からひと月も経っていない時点でもあり、どうせ息抜きに撮った軽い映画だろうとナメてかかっていると、思い切り横っ面を張られるような衝撃を受けた。スラム化した団地を舞台に、不良たちと無認可宗教を営む老婆との狂騒的な日常が描かれるが、限定された空間を活用することで、厳しい条件を逆手に取って、アナーキーな世界を作り上げている。なかでも、浴場で繰り広げられる全裸乱闘シーンが素晴らしい。DVD版はボカシが入るのが残念だが(別に男のチンコを見るのが好きなわけではない)、俳優たちは、これまでなら隠す前提でいたものを、全裸でアクションを演じることで、虚構の壁を突き破り、異様な迫力が生まれている。


 それにしても、『へドローバ』は予算をかけた商業映画で通用する企画だけに、こんな早急に撮ってしまっていいのかと思えるほどだが、映画への衝動がとめどなくあふれる今、出し惜しみなど考えてもいないようだ。『全員死刑』にしても、大牟田4人殺害事件を描いた『我が一家全員死刑』(鈴木智彦/コアマガジン)を原作に映画化するという、商業映画第1作としては高いハードルを選んでいる。評価された『孤高の遠吠』の延長上にある不良映画の方が遥かに作りやすいだろうが、安全運転する新人監督なんぞ糞でしかないことに小林勇貴は自覚的だ。10年後に『全員死刑』を撮った方が完成度は高くなるに違いないが、映画への衝動は薄れているだろう。それならば、どちらを選択すべきか――という問いかけの答えが『全員死刑』にある。


 『仁義なき戦い』シリーズの脚本家・笠原和夫は、実録映画について、こう定義している。


「〈実録もの〉はデフォルメ(変形)に力点をおき、素材の〈毒性〉を意図的に誇張することで、現実の隠れた貌を摘出しよう、というのがわたしの考えだった。したがって作品の形態は喜劇(コメディ)になる。」(『鎧を着ている男たち』笠原和夫 著/徳間書店)


 現実の犯罪をもとにした『全員死刑』は、笠原の定義が最も優れた形で実践された作品である。事実の再現ではなく、デフォルメと毒性の強調によって、〈人を殺す〉という、これまでフィクションの中で散々繰り返されてきた表現が刷新される。資産家一家の息子を殺すために間宮祥太朗が家へ乗り込み、息子の首にタオルを巻き付けて一気に締め上げる。凄まじい力が息子にかけられる。2人とも後方に吹き飛ぶが、間宮は力を緩めることなく全力で締め上げる。大粒の汗が間宮の顔に浮かび、息子は舌が飛び出し、失禁して息絶える。ところが遺体を遺棄するために夜道を車で走っていると、トランクの遺体は蘇生して暴れ始める。人はかんたんに死んでくれないのである。そこで間宮は兄の毎熊克哉に手伝わせ、息子の首に巻き付けたロープを双方から力いっぱい引っ張り合う。首が絞まり、目玉を飛び出させた息子は、ようやく絶命する。鳥居みゆきを間宮が絞殺する場面でも、途中で疲れてジュースを飲みながら、なおも首を絞め続けるのが奇妙なリアリティを放つ。やはり、人はなかなか死んでくれない。


 そういえば、40年近く映画を撮っていない長谷川和彦が連合赤軍事件を映画化したい理由にこんなことを言っていた。「実際の行為の最中に、懺悔したり回想しながら行為する人間はいない(…)『同士殺し』なんて行為の中には、快感もあれば正義もあったに違いない。それを映画でまるごと描けば、必ず可笑しいはずでね。可笑しくて、哀しいはずなんだ」(『映画芸術』1998 春号)。結局、長谷川は映画化できないまま現在に至っているが、この構想に最も近い映画は、『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』ではなく、『全員死刑』ではないかと思う。〈人を殺す〉という行為が、肉体労働であり、滑稽なコメディになるということに、小林勇貴は自覚的だ。


 前述の笠原和夫は、実録映画について、こんなことも言っている。「実録というのは、マヤカシや悪フザケが堂々とできる――ということです。そんなことが?――といわれるようなとっぴな設定でも、実録ですから、といえば、パスしてしまう」(『われわれはなぜ映画館にいるのか』小林信彦 著/晶文社)。そう、優れた実録映画は、事実に縛られるのではなく、実録であるがゆえに自由を獲得できる。小林勇貴が商業映画デビュー作に『全員死刑』を選んだ理由も、そこにあるのではないか。


 実録映画と言えば、東映が実録路線時代の熱気を取り戻すべく製作した『孤狼の血』(5月12日公開)の取材で白石和彌監督にインタビューした際、これがヒットして再び東映で不良性感度に満ちた作品が次々作られて欲しいと語っていたが、最後にこう付け加えていた。「日本は人材も豊富で、『全員死刑』を撮った小林勇貴っていうのもいますから」。これが、そう冗談とも思えないのは、石井岳龍、白石和彌と、日活で抜擢された監督が東映で暴れるという伝統が日本映画史には脈々と受け継がれているからだ。個人的に小林勇貴には、時代劇、戦争映画に加えて、関東大震災時の朝鮮人虐殺や、連合赤軍の同士粛清など撮ってほしい題材が幾らでもある。狂った野獣=小林勇貴の狂い咲きがもう始まろうとしていることは、この初期作品群を観れば納得するはずである。(モルモット吉田)