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石崎ひゅーい『Huwie Best』に見える変化とは? 菅田将暉らとの交流から紐解く

2018年04月14日 12:02  リアルサウンド

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  石崎ひゅーいが、2012年7月のデビューから2018年3月までの5年半のキャリアを総括するベストアルバム、『Huwie Best』をリリースした。ファンに投票を募って選ばれた14曲、代表曲である「花瓶の花」と「夜間飛行」のアコースティックバージョン(どちらも通常バージョンも収録)、そして新たに書き下ろした「ピリオド」の、全17曲が収められている。


(関連:石崎ひゅーいはなぜクリエイターの評価を集めるのか 兵庫慎司が“目の離せなさ”について考える


  レーベルからベストアルバムの話を提案された。最初は「ヒット曲があるわけでもないのに」と躊躇したが、今の自分を鑑みたところ、制作に関してすり減ってしまっている、空っぽになってしまっている、ということに気がついた。特に2016年12月リリースの最新アルバム『アタラズトモトオカラズ』を作り終えたあとは、曲の作り方自体を忘れてしまいそうなくらい、何も出てこない状態だった。だから、ここでいったん自分の活動にピリオドを打つ、そして次のステップに行く、その区切りとしてベストアルバムを出すというのは意義があることだと思った。その“ここで一区切り”という意味合いと、次のステップの第一歩という意味合いで、「ピリオド」という新曲を書いて収録したーー。


 このベストアルバムのプロモーションタイミングでのインタビューで、石崎ひゅーいはだいたいどこのメディアでも、そのような話をしている。もうひとつ足すと、曲を作り始めて以来ずっと、自分が生身で体験したことやそこで考えたことをテーマにして、つまり自分の身を削って曲を作ってきたが、それがもう限界まで達してしまった。という事実から目をそらしてきたが、もう向き合って認めてしまおう、そしてそれではない新しい方法での曲の書き方を探していこう、という区切りとしてのベストアルバムだと。で、その、曲を書く新しい方法の模索の第一歩が、新曲「ピリオド」であると。


 とてもよくわかる話だと思う。で、ある意味、「ああ、よかった」と、ホッとするような話だと思う。純粋すぎて剥き身で赤裸々すぎる、表現に向かう際に自分を守ろうとしていなくてとても無防備、セーフティネットがない、だから聴いているとドキドキするし目も耳も離せなくなるくらい魅力的なのだが、同時に心配でもある。今この瞬間砕け散ってしまっても不思議じゃないような危なっかしさを感じる、それが自分にとっての石崎ひゅーいの音楽である──ということを、僕は2年ほど前に、このリアルサウンドに書いた(参照:石崎ひゅーいはなぜクリエイターの評価を集めるのか 兵庫慎司が“目の離せなさ”について考える)。


 その危うさが本当にデッドエンドを迎える前に、自ら舵を切ったんだなあ、という意味でホッとしたわけです。


 で、今後だ。そこで“身を削る”以外の新しい方法で歌を作ることができるのか。というか、それでいい曲を生むことができるのか。職業作詞作曲家みたいな仕事を彼に求めているファンは、おそらくいないだろうし。


 そこで「ピリオド」だ。各メディアのインタビューによると、春の歌を作ろう、春といえば別れ、じゃあ失恋の歌をーーという順で、彼はこの曲を発想したという。自分が彼女と別れたから書いた、とかいう話ではなく、まずテーマを決めてそれがしっかりと聴き手に届くように、作家として、プロとして書いたわけだ。どうでしょう。春に別れを迎えた人のつらい心にそっと寄り添う、素敵な曲になりそうなもんでしょう。


 なのに、そうやってプロとして書いたら書いたで、それはそれで大変に極端な曲を生み落としてしまうのが石崎ひゅーいであることを証明してしまっているのだった。未聴の方はぜひ聴いていただきたいので、微に入り細に入り説明するのは自粛するが、大意だけざっとお伝えする。本当の恋だった、まるで夢のようだった、だから悲しい歌にならないように誰もが羨むような素敵な結末を探したーーという話から始まって、恋が終わって自分が取り残されるんじゃなくて恋の終わりと共に自分もちゃんと散りたかった、僕を散らせてくれ、そして君も散ってくれーーという結論になる。そんな歌詞が、リリカルで流麗なトラックをまとったせつなく美しいメロディに乗って歌われる曲なのだった。


 おいおいおい。“身を削る”ことをやめた結果、もっと激しく危うい歌を書くようになってどうする。難儀だなあこの人は。でもきっと本人的には、生来の危なっかしさから片足くらいは脱出して書けるようになったのがこういう方向なんだろうなあ、とは思う。2015年に舞台、2016年に映画で役者を経験したことや、菅田将暉と交流して一緒に曲を書いたこと、つまり他人のために曲を作ったことも、きっといい影響を与えているのだろう。特に後者、菅田将暉に書いた「さよならエレジー」。菅田将暉が持っていたイメージを基にして石崎ひゅーいが作詞作曲をしたこの曲、パッと聴いてすぐ「うわ、石崎ひゅーいだなあ」と思う感じではない。曲を聴いたあとにそのことを知って「あ、そうなのか! 言われてみれば確かに」とわかって納得するような、そんな個性の表れ方をしている。


 特にメロディに関しては、「菅田将暉が歌うことによってさらにいい曲になっている」のは確かだが、ただし「菅田将暉が歌わなければよくない曲」ではないと思う。もちろん「石崎ひゅーいが歌わなければよくない曲」でもない。ある種、誰が歌ってもちゃんといい曲として成立する、ストレートな普遍性を持っていると感じる。


 自分以外の誰かが持っていたイメージを元にして詞曲を書いた、というこの「さよならエレジー」と、テーマを決めてからそれを表現しようとして詞曲を書いた「ピリオド」、石崎ひゅーいにとって、ある種同じようなトライアルだったのではないかと思う。どちらを先に書いたのか知らないが、つまりこれが、石崎ひゅーいが手にした、今までとは違う詞曲の作り方なのだ、ということだろう。


 そういえば、「ピリオド」のMVには、そのお返しなのか、菅田将暉が出演している。雨の屋上で、傘を差して、歌う石崎ひゅーいと逆向きに座って歌を口ずさんで泣くこのMV。以前の石崎ひゅーいの楽曲だったら、わかりやすくウェットすぎて成立しなかったかもしれない。ここまで感傷的な演出に耐えうる、というかそれがずっぱまりになるくらい、楽曲の持つポップスとしての強度が上がったのだ、というふうに、僕は解釈した。


 現に、「ピリオド」と「さよならエレジー」が発表されて以降、石崎ひゅーいのいわば“周囲からのいいと思われ方”が、以前とは変わってきたように感じる。「自分の生身をさらす赤裸々な曲を書くシンガーソングライター」的なイメージから、もっとシンプルな、「いい曲を書いて歌う人」的なイメージに。


 とりあえず、石崎ひゅーいの第二章が、とても楽しみになっていることは、間違いないのだった。


■兵庫慎司
1968年生まれ。音楽などのライター。「リアルサウンド」「CINRA NET.」「DI:GA online」「ROCKIN’ON JAPAN」「週刊SPA!」「CREA」「KAMINOGE」などに寄稿中。フラワーカンパニーズとの共著『消えぞこない メンバーチェンジなし! 活動休止なし! ヒット曲なし! のバンドが結成26年で日本武道館ワンマンにたどりつく話』(リットーミュージック)が発売中。