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トッド・ヘインズは少数者の孤独な魂に寄り添う 『ワンダーストラック』が示す数奇なつながり

2018年04月14日 10:02  リアルサウンド

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 いまアメリカ映画で最も注目されているトピックが「多様性」だ。『ブラックパンサー』が記録的な興行成績を収め、『シェイプ・オブ・ウォーター』がアカデミー作品賞に輝くなど、マイノリティー(社会的な少数者)の物語を描いた映画が高い評価を受けている。トッド・ヘインズは、そんな現在の流れが発生する以前から、そのような映画を独自に撮っていた映画監督だ。異なる人種間や同性同士の恋愛や、多数派と違った趣向を持った人間が、保守的な時代や環境のなかで阻害され弾圧される姿を描き、社会をさまよう孤独な魂に寄り添ってきた。


参考:『ワンダーストラック』トッド・ヘインズが語る、リスク覚悟で聴覚障害の子役を起用した思い


 本作『ワンダーストラック』で描かれるのも、そんな孤独な魂を持った、少女と少年二人の物語である。舞台は1927年と1977年のニューヨーク。彼らはそれぞれに大事なものを捜すために、違う時代、同じ街を独りきりでさまよう。この交互に描かれていく二つの物語に何のつながりがあるのかを提示しないまま、映画は進行し、観客をも作品世界に迷わせていく。ここでは、そんな物語が示すものを検証し、この映画が描いたものは何だったのかを、後半の展開への言及を避けながら、本質的な深いところまで解説していきたい。


 1977年のミズーリ州。母親を交通事故で亡くしたばかりで、おばの家に住んでいた12歳の少年ベンは、忍び込んだ母親の部屋からニューヨーク自然史博物館のことが書かれた古い本『ワンダーストラック』を発見する。そこには博物館が生まれるのはなぜか、なぜ人は物を収集するのかということが記されていた。本にはさまっていたニューヨークの書店のしおりにメッセージがあり、ベンはそれが行方不明の父親の手がかりだと考える。


 そのとき突然、空から落ちてきた雷がベンを襲い、彼は病院に運ばれてしまう。驚きの展開である。じつはここが『ワンダーストラック』のテーマを象徴する場面なのだが、それについては後で述べていきたい。目が覚めたベンは、自分が聴覚を失っていることに気づく。今まで様々な音が響いていた世界は静寂に包まれ、自分の声さえ自分で聴くことができなくなってしまった。不安と失意のなかで、ベンが頼れるものは行方不明の父親だけだった。彼は病院を脱走し、独りきりでバスに乗り込んでニューヨークの街に降り立った。


 書店を見つけられず途方に暮れていたベンは、同じ年頃の少年ジェイミーに声を掛けられ、ニューヨーク自然史博物館へとたどり着く。ジェイミーの父親は博物館で働いており、いつも博物館の中で過ごしているジェイミーにとって、館内はまるで自分の家の庭のようだ。ベンは館内にあるジェイミーの「秘密の場所」に案内され、そこで一晩寝食を共にすることになる。二人は筆談や身振り手振りで会話をすることによって友情を深めていくのだ。


 本作は『ヒューゴの不思議な発明』の原作者ブライアン・セルズニックによる小説を原作とし、さらにセルズニック自身が脚本も書いている。『ヒューゴの不思議な発明』にも、このような秘密の場所が登場したが、ここに原作者の独特なフェティッシュが垣間見える。私自身も、子どもの頃によく実家の物置や収納スペースに隠れ、本を読んだり絵を描いたりすることに喜びを感じていたことを覚えている。そんな行為を見つけられると、今は亡き祖母から「かげ猫みたいに!」と叱責されたものだが、いまだに「かげ猫」とは何のことだったのか分からない。


 亡くなった母親の部屋や博物館の隠れ部屋など、本作で描かれた子どもだけの秘密の空間というのは、大人からの干渉の外で、自分だけの世界に没入するための舞台装置としての意味がある。そこで味わうものは、人間にとってはじめての濃密な個人的体験になり得る。


 幼い頃、過剰投薬によって実際に聴覚を失ったという子役ミリセント・シモンズが演じる、生まれながら耳の聞こえない少女ローズの物語は、そこから50年前の、1927年のニュージャージー州から始まる。彼女は雑誌や新聞などを切り抜いて、建物の模型を作るという、一風変わった趣味を持っていた。


 そんな彼女のイマジネーションはどこからやって来るのか。それは字幕付きのサイレント映画である。劇中で彼女が一人で訪れる劇場で上映されていた作品『嵐の娘』では、凄まじい嵐によって家が倒壊する、おそらくミニチュアを利用した視覚効果シーンが登場する。ローズの創造力は、映画を観るほどに育ち、現実を模した虚構の世界を作り上げることに喜びを感じるようになっていったのだった。そしてそれは、彼女の一生を決定づけるものともなっていく。だがその頃映画は、現在のように音声が付いた「トーキー」方式に切り代わりつつあった。耳の聞こえない者にとって、それは劇場から閉め出されることにも近いことだったことは、本作が指摘する映画史にとっての一つの重要な事実である。


 本作の冒頭では、イギリスの作家オスカー・ワイルドの言葉が登場する。


「われわれは皆 ドブの中にいる。でもそこから星を眺める者だっている」


 ローズのように変わった趣味を持っている子どもの多くが、大人になるに従って、少しずつそれを「卒業」していってしまう。それは生活のためだったり、就職や恋愛のような、功利的で実際的なものに興味が移るからであろう。オスカー・ワイルドは、そのような価値観に支配されてしまうことを、作家である自分のことも含めて「ドブの中にいる」と表現する。しかし、それだけでは悲しい。人は生活や享楽以外に、そこから距離をとった何かの理想を見つめる瞬間にこそ、本当の意味で「生きている」のではないだろうか。


 だが、それを趣味にするならともかく、自分の一生の大部分を理想に捧げようとするのには、一種の狂気が必要である。それを追い続けることは、自分の利益や幸福に反することになりかねないからだ。では、その狂気へ踏み出す力は一体どこからやって来るのだろうか。


 「芸術の才能とは人の内面にもともと存在するものだ」と思われている場合もあるが、実際には芸術とは模倣より生まれるものである。優れた芸術家や、豊富なイマジネーションを持った人物は、いろいろな作品に出会い、それらを自分の実際の体験などと組み合わせることで、いままでに無かった新しいものを創造するのだ。ベンは、生前の母親にオスカー・ワイルドの言葉の意味を質問したが、彼女はその意味を教えてくれなかった。それは、その言葉の本質は、人から教わるようなものではなく、自分でそのようなものに出会うことでしか掴み得ないものだったからだ。


 漫画家・藤子不二雄は、自伝的作品『まんが道』のなかで、その瞬間をはっきりと描いている。手塚治虫の漫画作品『新宝島』は、映画的な演出をとり入れ、現在のストーリー漫画の基となった画期的な作品だ。それを読んだ瞬間、『まんが道』の主人公である少年は“雷に打たれたような”、もしくは“凄まじい嵐が巻き起こったような”衝撃を受ける。そして本当に漫画家になる道を歩んでいく決心をするのだ。人生は、このような一つの瞬間で決定してしまうことがある。それこそが“ワンダーストラック(驚異の一撃)”なのである。


 ワンダーストラックに出会う人間もいるし、出会わない人間もいる。そして出会っても様々な事情によってこれを棄てることになる人間もいるだろう。ワンダーストラックを体験し、いつまでもその夢を追い続けられる人は、世の中にはあまりにも少ない。成功できなかったり、まだその途上にあるのならば、多数の人々から嘲笑されたり、理解を得られず弾圧されることもあるはずだ。本作が寄り添うのは、そんな少数者の孤独な魂である。


 それを応援する象徴的な曲が、本作で使われているデヴィッド・ボウイの曲を子どもたちがカヴァーし、合唱した「スペース・オディティ」であろう。その歌詞は本作の物語にリンクしている。


 デヴィッド・ボウイがこの曲を生み出すときに影響を受けたのは、スタンリー・キューブリック監督のSF映画『2001年宇宙の旅』の世界観であり、またその原曲となるリヒャルト・シュトラウスの交響詩は、哲学者フリードリヒ・ニーチェの著作『ツァラトゥストラはかく語りき』からインスピレーションを受けたものだ。人の生み出すものは、こうやって連綿とつながれてゆく。「ご都合主義」とも感じられる本作の数奇なつながりは、そのような芸術の本質を表す模型のようなものではないだろうか。それはあたかも、ニーチェがまさに『ツァラトゥストラはかく語りき』で提唱した「永劫回帰」思想をも想起させる。


 トッド・ヘインズ監督は、デヴィッド・ボウイの曲のタイトルをそのまま映画の題名にした『ベルベット・ゴールドマイン』という作品を撮り、その人生を描き出そうとしたことからも分かるように、表現者として彼から深い影響を与えられたことは確かであろう。彼にとっての“ワンダーストラック”が、デヴィッド・ボウイとの出会いであったのならば、本作でデヴィッド・ボウイの影が現れるということは必然的なことだったはずである。(小野寺系)