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モルモット吉田の『ペンタゴン・ペーパーズ』評:スピルバーグが問う報道をめぐる姿勢

2018年04月08日 10:02  リアルサウンド

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 1971年と2045年――2本連続で公開されるスティーヴン・スピルバーグの新作『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』と『レディ・プレイヤー1』(4月20日公開)は、それぞれ47年前と27年後の世界が舞台だ。近年のスピルバーグが現代を舞台に選ぶことは少ないが、この2作は今を色濃く反映させながら、過去と未来に目を向けている。


参考:『ペンタゴン・ペーパーズ』初登場5位 スピルバーグ・ブランドは復活するか?


 1966年、ベトナムの戦地を訪れたアメリカ国務省のダニエル・エルズバーグ(マシュー・リス)は、ロバート・マクナマラ国防長官(ブルース・グリーンウッド)に戦況の悪化を報告する。しかし、長官はマスコミには真逆を伝えている。3年後、エルズバーグはベトナム政策に関する政府の極秘文書ペンタゴン・ペーパーズを少しずつ外部に持ち出してコピーし、ニューヨーク・タイムズへリークする。


 冒頭部分からして静かに興奮させる。何せスピルバーグが自身も徴兵されかけていたベトナム戦争を直接描いたのは、これが初めてだからだ。かつて『スティーブン・スピルバーグ論』(フィルムアート社)で西田博至が「約一八〇年に及ぶアメリカの戦争を撮り続けているスピルバーグが、なぜ彼自身が実際にその戦時下を生きたヴェトナム戦争を撮らないのかという問いが生じるのは、ごく自然だろう」と指摘したように、初期作を除けば自身が映画監督となった時代のアメリカを、宇宙人などのギミックを用いずに映し出すことを避ける姿勢が見え隠れしてきただけに、わずかなシーンとは言え、スピルバーグがベトナム戦争をどう描いたかは注目に値する。


 開巻の映画会社のロゴに重ねてヘリのホバリング音と爆発音が響き、一挙にベトナムの戦場に連れ込まれる。と言っても、『プライベート・ライアン』(98年)のノルマンディ上陸作戦の様に驚異的な戦場疑似体験をさせてくれるわけではない。雨が降り注ぐ密林を一個小隊が進む姿を横移動でカメラが捉えて銃撃戦となるシーンが象徴するように、一見すると無造作に思えるほどサラリと撮られ、無駄のない最少のショットの積み重ねで最大の効果を引き出す。質の高い低予算戦争映画を観ているかのような気分になるが、この〈B級的〉なふるまいは本作全体に通底する。殊にラストシーンの呆気に取られるような処理は、作品に格式を求める向きには顰蹙を買いそうなほどB級的である。


 1971年、不慮の死を遂げた夫からワシントン・ポストの経営を引き継いだキャサリン・グラハム(メリル・ストリープ)は、自社の株式公開を前に慌ただしい日々を送っている。そんな中、ニューヨーク・タイムズが3か月にわたる精査の上、ペンタゴン・ペーパーズの存在をスクープする。政府は直ちに記事を差し止め、遅れを取った各紙も動き出す中、ポストも編集主幹のベン・ブラッドリー(トム・ハンクス)が記者たちを鼓舞して独自取材に当たらせて文書を入手。だが、記事の掲載によって政府から訴訟を起こされる可能性が高く、株式公開をはじめポストの関連事業にも大きな影響を与えることが懸念され、掲載の可否はグラハムに一任される。


 こう言ってしまっては身もふたもないが、映画としては大スクープをものしたタイムズを描いた方が面白くなったはずだ。ペンタゴン・ペーパーズの入手から検証、訴訟、そして1972年のピューリッツァー賞公益部門をこの記事によってタイムズが受賞するに至るまで劇的な要素が申し分なく揃っている。しかし、それではこれまで数多く作られたジャーナリストを主人公にした作品と代わり映えしない。言い換えれば、男社会の男たちの映画でしかない。


 本作の成立に大きく寄与したのが、1997年に出版され、日本でも翻訳が出ていた『キャサリン・グラハム わが人生』(キャサリン・グラハム 著・小野善邦 訳/TBSブリタニカ)である。脚本家のリズ・ハンナは本書を読んだことで脚本の執筆を決意するが、邦訳でも2段組の700頁近い半生記だけに、彼女の人生のどの時期を抜き出すかで映画の形が決まる。翻訳した小野氏もあとがきで「内容が多岐にわたっているので、さまざまな読み方ができる」とした上で、次の3つの読み方を提示している。


 1.「一人のアメリカ人女性の波乱万丈の物語」
 2.「ワシントン・ポストに焦点を当てた読み方」
 3.「女性解放、女性差別撤廃に焦点を当てた読み方」


 長大なテレビドラマなら1が相応しいだろうが、映画としてグラハムの人生のどこを切り取るかを探せば、ナナメ読みをした筆者でも、めっぽう面白いと感じたのは、2・3の視点が凝縮された「第22章ペンタゴン機密文書事件」「第23章ウォーターゲート・スキャンダル」のくだりである。国家と報道の間に立ち、男社会で決断を迫られる彼女の姿は、従来のジャーナリストを主人公にした映画とも異なる立ち位置だけに、ウォーターゲート事件を追うワシントン・ポストの記者を主人公にした『大統領の陰謀』(76年)とも差別化を図ることができる。


 とはいえ、グラハムを中心に描いているだけでは、結局1のような女性経営者一代記の1コマになってしまう。ここに敏腕記者のベン・ブラッドリーをもう1人の主人公として置くことで、違う立場の2人が紆余曲折を経て互いを理解しあうことになり、深みが増す。もっとも、メリル・ストリープとトム・ハンクスが演じるとなれば、如何にもアカデミー賞的演技でオーバーに見せられるのではないかと思いそうになるが、スピルバーグは2人を熱演のスイッチが入りそうになる直前で抑制させ、不必要なアップも極力撮ろうとしないのが好ましい。


 女性映画としての視点は、株式公開にあたって株式引受人たちへ説明する場面での男ばかりの殺伐とした空間にグラハムが放り込まれる孤立感や、ホームパーティで政治の話になると女たちはサロンへと無言で移動を始める場面で端的に描かれているが、細部にもそうした女性視点からの描写が散りばめられている。ブラッドリーと妻とのさりげないやり取りや、彼の自宅で密かにペンタゴン・ペーパーズの精査をするために記者たちが集められるシーンで、彼の10歳の娘がレモネードを作って記者たちに25セントで売ろうとすると、父から50セントにしろと助言され、仕事が終わる頃には彼女は札束を抱えているという挿話もなんとも微笑ましい。


 筆者が最も印象深かったのは、女性記者のジュディス・マーティン(ジェシー・ミューラー)である。ニクソンの娘の結婚式の取材をホワイトハウスから名指しで拒絶された彼女の話題は、グラハムとブラッドリーが最初に一緒になる場面から出てくるが、その後もこの女性記者は重要な場面には必ず顔を出す。特に目立った活躍をするわけではないものの、終盤の編集室で彼女の忘れがたいアップが登場するとだけ記しておこう。


 ところで、スピルバーグがリズ・ハンナによって書かれた脚本を読んで本作の映画化を決めたのが2017年2月。既に撮影を終えていた『レディ・プレイヤー1』は、膨大なVFX作業が待ち受けていただけに、ポストプロダクション作業と平行しながら5月から本作の撮影を始め、11月には完成した。早撮りで知られるスピルバーグの作品の中でも屈指の早さで、製作費も『レディ・プレイヤー1』の3分の1程度で撮りきっている。これまでも、『ジュラシック・パーク』(93年)の仕上げを行いながら『シンドラーのリスト』(93年)を撮ったことがあるが、巨額の製作費をかけた商業映画を撮った後に、良心の呵責とでも言わんばかりの社会派作品を撮る姿勢は、偽善めくという批判もあった。


 本作にしても、2017年1月にトランプが大統領に就任したことを思えば、時局に適した題材に飛びついたかのようにも見える。「大統領の検閲を許す筋合いはない」「大統領はクソだ。新聞を潰そうとしている」「放送免許を失うぞ」「ワシントン・ポストの記者をホワイトハウスに入れるな」――劇中に飛び交う台詞を思い出すと、まるでトランプとマスコミのやり取りのようだ。実際、トランプは大統領候補指名を確実にした前年から既にポストを取材拒否するなど対立姿勢を明確に打ち出し、SNSでマスコミへの罵詈雑言を浴びせかけており、大統領就任と同時に、いっそう新聞、テレビへの口撃を強めていた事実を踏まえれば、このタイミングで映画化すれば、過去を通して現在を撃つ作品として評価される目算を立てたという見方もできるだろう。


 だが、スピルバーグは、映画を反トランプのプロパガンダとして利用できるほどの戦略家ではない。いくら表面上は生真面目なテーマで取り繕っていても、圧倒的な描写力で上回ってしまい、前述の『ジュラシック・パーク』と『シンドラーのリスト』のような両極に位置する作品でも、恐竜とナチスの違いはあれども、人が殺戮される描写がほとんど同一化してしまうところに、スピルバーグのスピルバーグたる所以がある。本作も前述したお題目があったにしても、それを描くために注がれる細部の豊かさが上回り、目を奪われてしまう。


 冒頭のベトナム戦地で何よりも印象深いのはジープに載せられたタイプライターだが、報道を描くとは、とりもなおさず活字を紙に書き込み、印刷することに他ならない。スピルバーグは全篇にわたって紙と活字にまつわる描写をフェティシズムあふれる眼差しで映し出す。ペンタゴン・ペーパーズが青い閃光と共に複写されて紙が吐き出されるカット、タイムズのメッセンジャー・ボーイが街を駆け抜け、車に跳ねられそうになりながらも編集室から編集室へと原稿を届けるために疾走するカット、出し抜かれたポストの記者たちがタイムズの早売りを街頭で買い求めて食い入るように新聞紙を凝視するカット、果ては活版印刷で輪転機によって新聞が刷り上がっていくカットまで、記事が作成されて拡散する過程が、俳優たちに向ける眼差し以上の重みを持って描かれる。


 もう一つ、スピルバーグがこだわったのが〈通信〉である。1971年の一般的な通信手段は言うまでもなく電話だが、重要な場面で必ず登場する電話は、『ダイヤルMを廻せ!』(54年)、『知りすぎていた男』(56年)をはじめとして電話をサスペンスの道具として存分に活用してきたアルフレッド・ヒッチコックに匹敵する巧みさである(ダイヤルのアップを見よ!)。それだけに、劇中に電話が登場する度に胸が高鳴ってしまう。コードレス時代ではないだけに、電話を使えば動きが制限され、画面の変化が乏しくなるはずだが、スピルバーグはそうした不自由さに見事な演出を加えていく。ペンタゴン・ペーパーズの入手に動くポストの記者ベン・バグディキアン(ボブ・オデンカーク)が街頭公衆電話でエルズバーグと連絡を取る場面では、通話機を片手にコインをバラバラと地面に落としてしまったり、ケーブルの長さが足りずに手こずる動作が躍動を生み出し、説明的で単調になるはずの場面が見違えるように輝き始める。


 そして、電話が最も大きな役割を担うのが、ペンタゴン・ペーパーズをポストに掲載するか否かを決断する局面だろう。ブラッドリー宅からグラハムの家へ掛けられた電話は、その場に居る者たちも内線で参加して激しい応酬が繰り広げられる。あまりにも電話が劇の盛り上げに巧みに活用されているので創作かと思いそうになるが、前述の『キャサリン・グラハム わが人生』を参照すれば、実際に内線を用いてこうしたやり取りが行われたという。終盤でも、ポストの運命を左右する重要な知らせは、電文と電話のリレーによって通知されるところからも、いかに〈通信〉が本作にとって欠かせない装置だったかが分かるはずだ。


 通信手段がインターネットに置き換わった現在では、新聞に頼らなくとも誰もが拡散させる力を持っている。しかし、本作で丹念に描かれた、早く、正確に、検証して、掲載を決断する過程は曖昧になり、フェイクニュースが横行する時代になった。スピルバーグは反トランプの映画というよりも、より根源的に報道をめぐる姿勢を〈通信〉というシステムを通して描いたと言えるだろう。


 次回作の『レディ・プレイヤー1』でも〈通信〉は大きな役割を担い、それを介することで仮想現実の世界へ入ることが可能となる。貧富の差が激しい世界で主人公はゲームの腕前を見込まれて大企業から誘いが舞い込むが、その時に企業側は安定した通信環境の提供をメリットとして挙げる。1971年から2045年へ時代は移っても、人々は〈通信〉を介しているが、この2つの時代の中間にいるのが、2018年に生きるわれわれである。スピルバーグの2本の新作は、今を色濃く反映させながら、過去と未来に目を向けているだけに、連続して観ることでスピルバーグの目に映る現代が、より明瞭に見えてくるはずだ。(モルモット吉田)