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『キャロル』は手法上のリハーサル? 『ワンダーストラック』は混乱しつつ、なおかつ透明たりうる

2018年04月07日 12:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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 トッド・ヘインズ監督の前作『キャロル』は素晴らしい映画だったけれども、新作『ワンダーストラック』を前にした今、『キャロル』は『ワンダーストラック』のためのあくまで手法上のリハーサルだったのではないかとさえ思われてならない。『キャロル』の中で車窓のガラス面や水滴のカットにかいま見えた物質的想像力が、今回は堰を切ったように全面展開してゆく。『ワンダーストラック』は非常に混乱した映画ではある。混乱しつつ、なおかつ透明たりうるという相矛盾したことが生起する、そんな稀有な瞬間の集積こそ、『ワンダーストラック』という時間なのだ。


 1977年──主人公はミネソタ州の寒村に在住、母親を交通事故で亡くしたばかりの12歳少年ベン(オークス・フェグリー)。もともと父親はいない。ベンを演じた子役俳優オークス・フェグリーは、ディズニーの実写ファンタジー『ピートと秘密の友達』(2016)でやはり両親を事故で失う孤独な少年を演じた。『ピートと秘密の友達』は、ルーニー・マーラとケイシー・アフレックが共演して高い評価を得た『セインツー約束の果てー』(2013)のデヴィッド・ロウリー監督の長編2作目ではあるが、なんとも不当な低評価にとどまっている。この『ピートと秘密の友達』はファンタジー映画史上に残る傑作であったのに、この不当な低評価は受け入れがたいものであり、同作におけるオークス・フェグリーは子役史上の名演技だったことは、この場を借りて強調しておきたい。


 少年ベンが母親といっしょに2人で住んだ家。そこにはまだ母の残した遺品がそのままになっている。近く伯母がこの家を売却するのだという。息子のベンを寝かしつけたあと、母親(ミシェル・ウィリアムズ)は自分ひとりの時間を満喫する、という回想シーンが出てくる。好きなレコードをかけ、好きな本を読む。眠れないベンが起きてきた時、部屋ではデヴィッド・ボウイの「スペース・オディティ」のイントロがかかっている。壁にはイギリスの劇作家・詩人オスカー・ワイルドの名言「俺たちは皆 ドブの中にいる。でもそこから星を眺める奴だっている」と書かれた紙切れが留めてある。この「ドブ」と「星」こそ、この映画の主題だ。この映画の、と同時に、この世界のあり方そのものを大摑みで提示していると言っても過言ではない。


 母親の死後、彼女の遺品に囲まれながら、なぜか突然の落雷に撃たれて聴覚を失った彼は、父親の居どころを探すために家出する。ところ変わって1977年のニューヨーク、マンハッタン。聾(ろう)者になったばかりのベン少年が歩く1977年のニューヨークは、いささか刺激が強すぎる。彼の難聴を表すように雑踏や交通のノイズがカットされ、ノー・モジュレーションの上に当時の(主に)黒人音楽が大音量でかぶさって、彼にとってまるでここは別の惑星のようだ。カルチャーショック、好奇心、不安、空腹、疲労、睡魔、それから運命の手引き。そうした事柄がいっぺんにベンに襲いかかる。それを観る私たち観客もベンに乗り移り、聾者として1977年のマンハッタンにタイムスリップする。それは強烈な視覚的、嗅覚的、触覚的体験であると同時に、聞こえないという不可能性も含めた聴覚的体験でもある。


 じつはこの映画にはもうひとつの物語がある。場所は同じニューヨーク。だが時代は1927年。経済恐慌に襲われる前の活気溢れる大都会の息吹が、荒々しくひとりの少女を翻弄する。生まれつきの聾である少女ローズ(ミリセント・シモンズ)。彼女は大の映画ファンで、リリアン・メイヒュー(ジュリアン・ムーア)というスター女優の追っかけである。時はサイレント時代。聾者のローズにとって、他者に遅れをとることなく受容できる理想の世界こそ、サイレント映画なのである。彼女がガラガラに空いた劇場でリリアン・メイヒュー主演の『嵐の娘(Daughter of the Storm)』という映画を観て涙を流すシーン(いや、劇場に座った少数の全観客が泣いているのだが)がなんとも素晴らしい。『Daughter of the Storm』というタイトルは、メイヒューと同じファーストネームを持つスター女優が主演したD・W・グリフィス監督『Orphans of the Storm(嵐の孤児)』という1921年の名作をもじったものだろう。


 ただし1927年という年はサイレント映画にとって、終わりの始まりでもある。1927年10月6日、ニューヨーク市内のワーナー・ブラザース劇場で世界最初のサウンド付き長編映画がプレミア上映される。アル・ジョルソン主演の『ジャズ・シンガー』である。ローズが『嵐の娘』を観て劇場を出ようとすると、『嵐の娘』のポスターがまさに剥がされようとしており、「サウンド時代の到来だ!」という横断幕がものものしくはためいている。サイレント時代の終わり──彼女の幸福な映画ファン時代の終わり。トーキー映画は聾者を蚊帳の外に追いやることだろう。嵐の娘、嵐の孤児。サイレントの終わりと共に、ローズ自身がまさに「孤児」として流されていく。母親を失って大都会でさまよう1977年の孤児ベン。聴覚に対する視覚の優位が確立し、サイレント映画ファンとして孤児と化した1927年のローズ。50年という時間を隔てて、2人の子どもが無音の中をさまよい出て行く。この2つの光景の恐るべき詩情をなんと表現したらよいものか。


 2人の孤児の彷徨を跡づけるこの『ワンダーストラック』というジュヴナイル(juvenile =児童映画)は、じつに挑戦的な作品だ。なぜかというと、ベンの父親探しという最低限のサスペンスを除いては、ほとんど物語が存在しないからだ。物語なきハリウッド映画。オハナシを持たないジュヴナイル。トッド・ヘインズ監督はひとつの映画を作ることによって、ひとつの新ジャンルを生み出してしまった。世界中の子どもたちはこの挑戦をどのように受け止めるのだろうか。また、この作品はニューヨークが誇る2つのミュージアムに対する敬意に満ちたオマージュでもある。まずマンハッタンにある「アメリカ自然史博物館」。そしてもうひとつは、ニューヨーク全5区の精巧なジオラマで知られる「クイーンズ美術館」。19世紀に開館した「アメリカ自然史博物館」には1927年のローズが同館に務める兄を頼って訪ねて来るし、1977年のベンも、父から母に贈られたとおぼしき『WONDERSTRUCK』という同館発行の画集を手がかりに訪れる。博物館・美術館という世界に星の数ほどある施設を訪ね歩くという体験の楽しさ、貴重さを、この映画を観る子どもたちに教育的にサゼスチョンしている。


 本稿の最初で筆者は「混乱しつつ、なおかつ透明たりうる」と本作を評した。その相矛盾を豊かに生きる。そしてまた本作は、怪奇幻想映画でありつつ児童向け教育映画でもあるという、そんなユニークな存在たりえている。最近の日本で起きた、とある小さなエピソードを配給スタッフから伺った。本作の子ども向け試写会でのこと。アンケート用紙に幼い男の子の字で、本作に感動したこと、そしてもっと映画というものをたくさん観ていきたい気持ちになった旨が書かれていたという。じつに美しいエピソードだ。そして本作は、将来有望な映画ファンをひとり作り出したのだ。(荻野洋一)