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「英雄であり、仲間であり親友」高橋国光総監督、故ルイジ・タベリの葬儀に参列

2018年04月04日 21:51  AUTOSPORT web

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現役時代の高橋国光とルイジ・タベリ。ふたりはホンダのライダーとしてチームメイトとなった
2018年3月1日、ロードレース世界選手権の125ccクラスで1962年、64年、66年と三度のチャンピオンを獲得したスイス人ライダー、ルイジ・タベリさんが88歳で亡くなった。1961年にチームに加わって以降、ホンダの二輪ロードレースの活躍に大きく貢献した人物だが、同時期チームメイトだった、“国さん”ことTEAM KUNIMITSU高橋国光総監督が、スイスで行われた葬儀に参列した。ふたりの交流と思い出を、国さんに語ってもらった。(※文中、あえて親しみをこめて“国さん”、“タベリさん”と表記させていただくことをご了承いただきたい)

 スイス出身のタベリさんは、1954年に世界選手権にデビュー。MVアグスタやドゥカティといったイタリアメーカーのバイクで参戦を続けていたが、1961年にホンダに加わった。その後、125ccクラスで三度のチャンピオンを獲得したが、66年に引退している。

 一方、国さんは10代の頃から浅間火山レース等で活躍し、ホンダと契約。1960年にヨーロッパに渡り、世界選手権に参戦。61年にはホッケンハイムで行われた西ドイツGPで250ccクラス優勝を飾り、日本人として初めてロードレース世界選手権での勝利を収めている。

■「どん底」で出会った親しみの存在
 そんな国さんは1960年、シュツットガルト近郊のソリチュード・サーキットで行われた西ドイツGPが「僕の初めての海外でのレースだった」という。ただ、初参戦から順風満帆だったかといえば、そうではなかった。

「日本にはロードレースなんてなかったからね。60年に初めて海外でレースをしたときは、それまで経験したことがないくらい、プライドを傷つけられた。レベルが全然違ったんだよね。日本人も活躍できると思っていたし自信もあったけど、それがなくなっちゃった。どん底で、自分自身が嫌いになるくらいだった」と国さんは当時を振り返ってくれた。

「とんでもない世界だった」という世界選手権のなかで、国さんは憧れだったトップクラスの外国人ライダーたちと、写真に収まる気にもならなかったという。それは、自分が同じレベルの世界にいないことから来る“引け目”もあったのかもしれない。

「そこに、ルイジ・タベリがいたんだよね。彼とは写真を撮った記憶があるんだ。それは彼の人間性や、親しみやすさがあったからだと思う」

 こうしてふたりの交流が始まった。60年のモンツァで「ちょっと感覚をつかんだんだよね」という国さんは、2年目となる1961年のシーズンに臨んだ。250cc、125ccに参戦するホンダ陣営は、ジム・レッドマン、トム・フィリス、マイク・ヘイルウッドなど、蒼々たるメンバー。ここにルイジ・タベリ、高橋国光というふたりが揃った。

■切磋琢磨し、背中を追いかけた存在
 そのメンバーの中で、国さんが最も仲良くなったのがタベリさん。国さんは、先輩であるタベリさんの背中を追いかけながら、速さを磨いていったという。62年になると、国さんはさらに力をつけ、世界選手権125ccの開幕2戦で連勝を飾る。

 しかし、速さが絶頂にあった第3戦のマン島TTで、国さんは激しくクラッシュしてしまい、重傷を負う。復帰までに1年を要するほどの怪我を負ってしまったが、その後のホンダチームを支え、連勝を飾りチャンピオンを獲得したのがタベリさんだった。

 63年、負傷が癒えた国さんは、ヨーロッパで市販バイクのレースを転戦する。ひとりで旅をしながら、タベリさんの家に泊まったこともあったそうだ。また、市販バイクでふたりで草レースに参戦し、毎周のように順位を入れ替えながら、トップ争いを繰り広げたとか。

「最終ラップに、毎周そこでオーバーテイクをしていたコーナーでインを抑えて『よし! これで勝った』と思ったら、そのまたインにルイジが入ってきたりね。『ここまで来るのか!』という技をルイジが見せてくれたし、お互いに信じ合っていたからこそのテクニックだったよね。スピード、競争に対する考え方を教えてくれたと思う」と国さん。

 その後国さんは四輪に転向し、日本の四輪レース史に数多くの伝説を残す。一方、タベリさんは66年に現役を引退した。しかし、ふたりの仲はそれ以降も続いた。毎年、お互いの誕生日には電話で言葉を交わし、タベリさんの愛娘であるブランカさんがその後スイス航空で働いていたことから、「成田に迎えに行って、都内で食事をして、また成田に送る……ということをやっていた」と家族ぐるみの付き合いが続いたという。

 また、国さんが思い出に上げるのは、NHK BSで放映された『世界・わが心の旅』で自らのマン島での思い出を巡ったこと。タベリさんとともにマン島を巡り、63年にマン島で亡くなったトム・フィリスのお墓参りをしたりと、当時を語り合ったのだとか。

■「素晴らしい仲間で、親友だった」
 そのブランカさんから3月2日、国さんのもとにタベリさんが亡くなったという報せが届いた。国さんは、ホンダの現地法人のスタッフがアテンドしてくれたものの、スイスまでひとりで向かい、タベリさんの葬儀に参列。再会したビアンカさんや家族と親交を深めた。また、葬儀にはタベリさんが所有していたホンダのGPマシンも“参列”している。

「(スイスまで)遠いけれど、きちんと行って、真心を尽くしたかったんだよね。スイスだったら、ついでに観光もしたいかもしれないけれど(笑)、本当に行って帰ってきた感じ」と国さん。

「ルイジも僕も縁があってモータースポーツを戦い、出会って、スイスと日本の間で繋がりができた。ただそれだけなんだけど、心が繋がった。モータースポーツの素晴らしさのひとつだよね」

 ホンダの世界挑戦の黎明期。ヨーロッパの舞台で戦いはじめたホンダにとって、タベリさんの貢献は計り知れないものがあったはずだ。そして国さんにとってもそれは同様だ。88歳で亡くなったタベリさんのことを、国さんはこう表現してくれた。

「彼はスイスの英雄であり、彼からしたら図々しいかもしれないけど、素晴らしい仲間で、親友だったと思う」