社会って本当に無駄のるつぼじゃないかと思う。特に気になってしまうのが、無駄な仕事が多いという点だ。「こんな仕事をしていても、全く何の意味もないではないか」と思えるような、非効率的で誰も感謝しない仕事が世間にはいくつもある。
僕の知人が昨年転職をした。が、その転職先では、未だにパソコンを使える事務方がおらず、帳簿を手書きで行っている。以前にはパソコンでそれを行おうという動き自体はあったようだが、「ラクをしてはいけない」みたいな理由で反対運動が巻き起こったのだとか。
パソコンを使えば数秒で済むような処理を、今日も電卓を使って、その会社の事務員は地道に行っている。……無駄な努力とはこのことだ。大体なんでパソコンはダメで、電卓ならOKなのかも分からない。(文:松本ミゾレ)
「その言葉を励みに改善されない人生を頑張ってる人いるけど、それこそ無駄そのもの」
先日、おーぷん2ちゃんねるに「人生経験の中に無駄なものなんて何一つない!」というスレッドが立った。本文にはこうある。
「あれ嘘だから。人生の中で無駄なんてたくさんある。その言葉を励みに改善されない人生を頑張ってる人いるけど、それこそ無駄そのもの。一生同じレベルをクルクルするだけ」
どうやら僕と同じ考えの持ち主のようだ。実際にこの社会には有意義なものよりも、無駄でしかないものの方がはるかに多い。
もっとも彼自身が、わざわざ匿名掲示板でその考えを披露するためにスレッドまで立てて議論をしているんだけど、これすらもしなくていい努力だと言える。世の中には無駄なことがたくさんあると主張している当該人物そのものもまた、無駄の輪の中から逃れられていないのが、なんとも印象的だ。
しかし人間は無駄を省いて生きることは想像以上に難しい
ただ一方で、人間は無駄なしでは生きていけないとも思っている。前述の無駄な仕事とはタイプが違うが、たとえば趣味なんて、自分のストレスを解消するなどのメリットもあるにはあるものの、度が過ぎて没入してしまうと、その大半は無駄まみれになってしまう。
必要ないのに色々と集めてしまったり、まだ使える道具があるのに、もっと高い物を買ってしまうなど。通勤途中の電車の中で、窮屈な体制のままスマホをいじり、ソーシャルゲームに興じている人もかなり増えてきた。これだって無駄の最たるものだろう。
ソーシャルゲームなんて5年も10年も楽しめるものではない。そのうちにサービスが終了し、もう遊べなくなる。課金したって意味もなくなる。全部が無駄になってしまう。
そう、世間には無駄が無数にひしめいている。だけど趣味しかり、ソシャゲしかり、ひどい労働環境に置かれる労働者しかり。こうした無駄にどこか依存をしている側面はあるんじゃないだろうか。「こんなことしても意味はないのに」と頭では分かっているが、現状を変えることはできない。結果、無駄にすがってしまう人は大勢いる。僕も含め、きっと人は効率的なだけの生き方ができない生き物なんだろう。