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ただのティーン向けキラキラ映画じゃない 漫画原作への偏見を覆す『坂道のアポロン』の強み

2018年03月27日 18:21  リアルサウンド

リアルサウンド

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 Hey! Say! JUMPの知念侑李が主演を務め、共演には『きょうのキラ君』の中川大志に、『黒崎くんの言いなりになんてならない』『近キョリ恋愛』でヒロインを演じてきた小松菜奈。そして監督が『アオハライド』『先生! 、、、好きになってもいいですか?』の三木孝浩と、この布陣だけを見たら間違いなくティーン向けの“キラキラ映画”であると考えるのが自然な流れだ。


参考:知念侑李の姿も!『坂道のアポロン』特別映像


 ところが、この『坂道のアポロン』はごく一般的な“キラキラ映画”の定義を匂わせながら、それとはまったく異なるタイプの青春映画として貫いている。というのも“キラキラ映画”の最重要な要素である少女漫画原作でありながらも、原作が連載されていた漫画雑誌『月刊flowers』というのはティーン向けではなく少し大人向け(大人の少女漫画という感じだろうか)。過去には『海街diary』や『娚の一生』が映画化されており、“キラキラ映画”という括りどころか、漫画原作に対する偏見を覆すだけの確固たるヒューマンドラマが展開していく強みを持っている。


 さて、『坂道のアポロン』の舞台となるのは1966年の長崎県佐世保市。佐世保出身の村上龍が自身の高校時代をモチーフに執筆した小説を、李相日監督が妻夫木聡主演で2004年に映画化した『69 sixty nine』と時代的にも重なる部分が見受けられる。もっぱら知念演じる西見薫と、中川演じる川渕千太郎の2人が文化祭の直後に走っている場面は、60年代の高校生の抑えきれない熱量が“走る”という動作に還元されるという、同作と共通したショットになっていた。


 佐世保という町は米軍基地があって、町中には多くの外国人の姿が見受けられる。また、 ディーン・フジオカ演じる桂木淳一が語るように「学生運動」が全盛を迎えている時代。それらが映画の至る所でこの60年代を象徴させるものとして登場しながらも、たとえば「ベトナム戦争」の話題などの暗部に深入りすることなく、あくまでも音楽に没頭する主人公たちの青春模様を映し出していく。


 これは物語の核となる“青春”の部分が、決して半世紀前の世界ではなく現代にも通じるということを言いたいということだろう。どんなバックグラウンドがあっても音楽で繋がることができる、音楽に救われる。例えば薫は父の仕事の関係で横須賀から転校してきたと語られるが、おそらく基地関係の仕事なのだろう。居候する家にも居場所はなく、将来へのプレッシャーを負わされた窮屈さから解放される瞬間が音楽をやっているとき。60年代に限定されるべき物語ではないことがわかる。また千太郎の生い立ちと、彼が味わってきた偏見。そして長崎の文化に根付く教会の存在も然りだ。


 こういった、社会的な要素の数々というのはティーン向けの“キラキラ映画”にはほとんど必要とされてこなかった部分である。学校を舞台にして恋愛する、そこにヘビーなバックグラウンドというのは家庭や友情、はたまた自身の中に秘めた心理的な問題ぐらいしか作用せず、かつ希望を見出すものは恋愛や部活動から生まれる自己肯定感や達成感が中心だった。


 それでも、本作にも主軸のひとつに恋愛要素が絡んでくるのだ。薫は律子に一目惚れをし、律子は千太郎を愛おしんでいる。ところが千太郎は海で出会った深堀百合香(真野恵里菜)に一目惚れし、その百合香は千太郎が慕っている淳一と恋仲であったということが発覚する(この辺りの関係性は原作から少し脚色されているようだ)。


 このあまりにも複雑で一方通行で繋げられた恋愛の描き方は、いかにもな少女漫画展開のひとつである。しかしそれを細かく見ていると、あくまでも本題である“青春”に作用させていることがわかる。薫と千太郎は2人とも“一目惚れ”をするという共通点を持ち、薫は律子を誘う電話のシーン、仙太郎は屋上でおにぎりを食べようにも食べられないと、実にベタな恋煩いを発揮。性格こそ対照的な2人が音楽と同じように共鳴し合う部分としての“恋愛”が活きる。


 そして何よりも、この複雑な恋愛群像に関わっている全員が複雑なベクトルをかき消すほどわかりやすく、自身の心情を表情で物語ってしまう点だ。律子の恋心、それに気づく薫、仙太郎の鈍感さ、淳一と百合香の明らかな気まずさ。恋愛映画には登場人物だけでなく、観客も巻き込んだ駆け引きが必要だが、青春映画にはそれをさせる必要がない。


 オーソドックスな見せ方で、少し懐かしささえも感じさせるほどまっすぐで不器用な恋模様と感情表現こそが、本作の青春要素をさらに強めようとしていくわけだ。もっとも、最近の高度な恋愛テクニックが炸裂する“キラキラ映画”で感覚が麻痺してしまっていると、かえって煩わしい描写とも思われかねないだけに、大冒険といえよう。(久保田和馬)