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ボブ・ディランがフジロックに出演する意義ーー2018年はフェス文化の分岐点となる

2018年03月27日 14:11  リアルサウンド

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 2018年7月27日~29日の3日間、新潟県・湯沢町 苗場スキー場にて開催される『フジロックフェスティバル』にボブ・ディランが初出演することが発表され、大きな話題を呼んでいる。また、今年は彼と同じくヘッドライナーとして、ケンドリック・ラマー、N.E.R.Dといった世界に誇るべき出演者が顔を揃えた。ボブ・ディランの来日とフジロックへの出演、さらに今年のフジロックのラインナップは、今後の日本の音楽シーンやフェス文化にどのような影響をもたらすのだろうか。ボブ・ディランの活動を長年追い続け、フェスカルチャーへの造詣も深い音楽評論家の田中宗一郎氏に話を聞いた。(編集部)


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■ボブ・ディランがフェスに出演する意義


 アメリカを起点にポピュラーミュージックが世界中に大衆音楽として広がっていく中で、ボブ・ディランこそがもっともすぐれた作家なんですね。他の追随を許さない。これは僕の個人的な視点だけではないはずです。だからこそ、日本が世界に誇る音楽フェス『フジロックフェスティバル』にディランが出演するーーこの2018年にこの組み合わせが実現したことに関しては、とにかく素直に嬉しいです。


 ボブ・ディランの今回のブッキングというのは、おそらく何年も前から主催者であるスマッシュがアプローチし続けた上での成果なのではないでしょうか。過去に出演キャンセルになったこともある。だから、彼がノーベル文学賞を受賞したことを機に主催者が思い立ったという話ではないと思います。そもそも僕の持論からすると、ノーベル文学賞よりもボブ・ディランの方が圧倒的に偉いんですよ(笑)。どちらかと言うと、ノーベル賞は人類にとって悪とも呼べるような人や技術ーー技術自体が悪ではなくても、使い方によって悪に転化してしまう技術もありますよねーーに賞を与えてきたという歴史もある。一方のボブ・ディランは文化全体、人類全体に対して、常に何かしらの疑問や批評を投げかけてきた。そして、人や社会をその内側から進化させてきた。ノーベル賞が与えられた人々の功績はさておき、ノーベル賞自体とボブ・ディラン、どちらが人類に果たしてきた功績が大きいかと言えば、それは間違いなくディランです。


 あと、そもそもディランがフェスに出演すること自体が極めて珍しいんですよ。特に、音楽業界では常識となっている“アルバム・プロモーションのためのツアー”や“大型スタジアムでのライブ”とは無縁の人だから。今の彼はかつては『ネバーエンディングツアー』と呼ばれたりもした、小規模会場でのツアーをずっと続けていて、むしろその合間にレコードを作っている。だから、他のアーティストとは基本的な考え方がまったく違うんです。1974年に彼はThe Bandをバックバンドに従えて大規模なアリーナツアーを大成功させた。当時はいろんなアーティストがライブ会場の規模を拡大していった、ロックがビジネスとして巨大化した時代でもあったんですね。でも、その直後にディランはアリーナツアーをきっぱりと辞めてしまう。で、始めたのが『ローリング・サンダー・レヴュー』という、会場も決めず、行った先の街で会場をみつけて、ほぼ告知もせずにライブをするという形式のツアーだったんです。しかも、バンドメンバーも行く先々で増えたり減ったり。デヴィッド・ボウイのバンド、The Spiders from Marsにいたミック・ロンソンだったり、音楽畑ではないサム・シェパードだったり、街で見つけたバイオリニストをいきなりバンドに引き込んだりして。


 つまり、ボブ・ディランという人は産業としてのロックに全く興味をもっていないんですね。レコードを作り、世界中のいろんな街でライブをすること、自分自身の生業と役割にしか興味がないんです。例えば、The Rolling Stonesなら、お客さんが期待しているヒットパレードを演奏する。でも、ボブ・ディランはその時に自分がやりたい曲しかやらない。去年ずっと彼のツアーのセットリストをチェックしてたんですが、ベスト盤に入ってるような有名曲は数曲。なんとなくディランを知ってる人からしても、曲名がわかるのはぜいぜい5、6曲。しかも、基本的にどの曲もアレンジや歌い方がレコードとはまったく別物なんです。これってかなり異常ですよね(笑)。


 でも、彼にとっては奇をてらったわけでもなく、ごく当たり前のことなんです。実際、彼がやっていることを100年ほどのスパンで捉えれば、すべて納得できる。現代のミュージシャンの大半は、自分自身のポピュラリティやプロップスを保つため、自分が生活していくために、誰もが知っている曲をライブでやるのが当たり前だと思っている。でも、そのこと自体、実は異常なことだ、ただの資本主義リアリズムだ、そんな視点もありますよね。ディランの活動はそんなごく当たり前のことに気付かせてくれるんです。ボブ・ディランは、近代以前の吟遊詩人、20世紀初頭のフォークシンガー、1930年代から続くブルースシンガーといった伝統ーーつまり、人々の生活と音楽が直結していた時代の伝統を現代にアップデートしようとしている。「音楽を奏でること=今、人々に聴かせなければならないと自分が感じている曲を、今に則した形でやる」という、ごく当たり前ことを、ごく当たり前のようにただ実践してるだけなんです。


 ボブ・ディランは自分がやってることを決して説明しようとしない厄介な人なんですが、例えば、ノーベル文学賞受賞後の一連の騒動にしても、「音楽を作って演奏することが自分の生業」という彼の考え方からすると、これもごく当たり前のことをやってるだけなんです。大事なツアー中に連絡されても邪魔なだけじゃないですか。相手が世界一の権威だろうと、家族だろうと関係ない。何よりも大切な、自分自身の生業よりもプライオリティの低いことはすべて後回しにする、適当に手を抜く、というだけの話なんです。だって、彼のツアーは彼にしかやれないんだから。だから、異常なのは彼ではなく、むしろ異常なことを当たり前だと思い込んでる世の中の方なんですよ。


■「歩く批評」ボブ・ディラン、近年の活動スタイル


 よくボブ・ディランのことを“メッセージシンガー”と呼ぶ人がいますけど、それは彼がやってきたあらゆる功績の100分の1程度のことでしかない。むしろ彼の存在や功績の偉大さを貶める呼び方だと思います。ディランの場合、作品だけでなく、あらゆる言動に批評性があり、明確なメッセージがある。言わば、「歩く批評」なんです。40年以上、ずっと彼の音楽を聞き続けてますが、どの曲にも未だに発見があるんですよ。決して誰一人として彼の音楽の本質を理解したり、言わんや消費することはできなかった。つくづく理想的な表現者だなと、実感が強まるばかりです。


 でも、特に日本だと、ボブ・ディラン=フォーク・リバイバルの気運と共に世界に発見された政治的なメッセージシンガー、フォークロックの始祖といった、50年前のイメージが固定化されてしまっている。でも彼はいつの時代も新しいことに挑戦してきました。2010年代に入ってからは、ほぼオリジナルの曲を作っていない。フランク・シナトラを筆頭に40年代前後のアメリカ大衆音楽のカバーばかり録音している。これも彼なりの批評だと思います。Spotifyはじめストリーミングサービスからは毎週何百曲もの新曲が吐き出されるわけじゃないですか。つまり、今の彼がやってることは「でも、そんな新しい曲なんて本当に必要あるのか?」という批評なんです。むしろ過去の財産を新たに作り替えて、今に伝えることの方が大切なんじゃないか。でも、本当なら産業やメディアがやるべきことをやらないから、代わりに彼がやっている。『Modern Times』(2006年)というアルバムのタイトルがわかりやすいと思うんですが、すべての言動を通じて、その時々の社会の奇妙さに対する疑問を問いかけ続けてきた。その活動と存在すべてにおいて、映画や文学といった他ジャンルも含め、20~21世紀をまたぐ時代におけるもっとも偉大な表現者のひとり、それがボブ・ディランだと思います。


■フェスの現状に機能するであろうステージに期待


 話をフェス文化に移すと、フェスのあり方も時代とともに大きく変化しました。60年代後半ヒッピー時代のカウンターカルチャーの高まりから生まれた『ウッドストック・フェスティバル』はほとんどプロモーションがされないまま開催されました。ストーンズの大規模フェス『オルタモント・フリーコンサート』も会場が決まったのは開催日の直前だった。フジロックのロールモデルでもある『グラストンベリー・フェスティバル』は、そもそもは『ウッドストック』に対するヨーロッパからの回答として始まり、その後も紆余曲折がありながらも、反核政党や自然保護団体からの全面的なサポートを受けて発展してきた歴史を持っている。今、世界最大のフェスでもある『コーチェラ・フェスティバル』はいい意味でも悪い意味でもビジネスライクですよね。今やコーチェラは、そこに集まった世界中のセレブを追いかけたり、フェス仕様にがっつりコーディネイトした自分たちのセルフィーを撮るための場所でもある。そういうふうにそれぞれのフェスのあり方も時代とともに変化していきました。


 一方で日本では、海外のフェス文化の歴史とは完全に切り離された、邦楽中心のまったく独自の文化が発展してきた。その結果、このグローバルな時代に、文化的な鎖国推進装置として機能している、そういう見方もできなくはない。だからこそ、長年、多文化的な価値観をオファーしてきたフジロックに心酔してきた僕みたいな人間からすると、もしボブ・ディランが日本で唯一アクセスできるフェスとしてフジを選んでくれたのなら、本当に嬉しい。


 ただ、嬉しい反面、グリーンステージに集まった3万人の観客がボブ・ディランをどんな風に見つめるのかという不安はあります。実は、同じくヘッドライナーであるケンドリック・ラマーに関しても不安があるんですけど。ディランの場合、先ほどもお話したとおりなので、どんなに予習してもほぼ意味がないんですよ。「俺はディランの大ファンだ!」と自負してる人でもほぼまっさらな状態でライブに向かわざるをえない。ただ、そもそもライブの現場もフェスも、まったく知らないアーティストや音楽に出会う、発見の場所でもあったはずですよね。でも、いつの間にかフェスの現場が、まるで誰もが知ってる曲で盛り上げるという決まりがあるような、おかしな状況になってしまった。自分の過去の思い出に出会う場所、ノスタルジアとナルシズムに浸る場所に堕してしまった。わざと厳しく言えば、ですよ(笑)。


 そういった現状に対してもディランのステージは批評として機能するはずです。「本当にあなたたちは音楽が好きなのか?」「知らない音楽に出会うことで自分自身が昨日とはまったく別の人間に変わってしまう、という音楽に最初に感動した時の体験を忘れてはいないか?」ーーそうしたごく当たり前のことを観客のひとりひとりに問いかける空間になるのではないでしょうか。だから、予習の必要などない。付け焼き刃的にベスト盤を聞き込んでもまったく無意味。ただ、今のフェス文化にすっかりスポイルされてしまった常識をすべて捨てて、目の前で起こっていることにまっさらな状態で向き合うという気構えだけが必要なんです。


■偉大な2人の“リリシスト”が揃ったヘッドライナー


 今年のフジロックのヘッドライナー3組の並びは素晴らしいと思います。特にボブ・ディランとケンドリック・ラマーの2人が並ぶブッキングというのは世界的にも珍しいはず。ケンドリック・ラマーはラッパーとしてのスキル自体No.1なんですが、“現代のボブ・ディラン”と呼ばれることもあるようにリリシストとしての才能が飛び抜けてるんですね。フロウのための歌詞のデリバリーの的確さはもちろんのこと、見事なレトリックやストーリーテリング、固有名詞の引用、人称の使い方や、一曲のヴァースの中で語り手を変える手法など、リリックの世界で何ができるかを常に推し進めているアーティストなんです。さすがにディランが50年以上やってきたことには敵わないんですけど(笑)。ただ、60年代に発見されたボブ・ディランと2000年代に発見されたケンドリック・ラマーという偉大な2人のリリシストが揃ったのは画期的だと思います。これは世界に誇ってもいいと思う。7年ぶりの新作を発表したばかりのN.E.R.Dはおそらく「Happy」筆頭にファレル・ウィリアムスのソロ曲も演奏してくれるに違いない。そういう意味ではバランスも取れている。総じて、2018年のフジロックは素晴らしいヘッドライナーが3組揃ったと言えると思います。


 かつてのフジロックに比べると、2010年代のラインナップは決して褒められるようなものではなかった。実際、日本全体が文化鎖国状態を強める中ですごく苦労してきたんですね。良くなってきたのは一昨年あたりから。一昨年のヘッドライナーはSigur Rós、BECK、Red Hot Chili Peppersと90年代のスターを3つ並べて、去年もGorillaz、エイフェックス・ツイン、Björkとエレクトロニクス系の90年代の人気ものを3組並べた。つまり、ヘッドライナーに20~25年前からのスターを並べて、どうにか集客を担保する一方で、文化鎖国状態の日本ではあまり知られていない最前線でリアルタイムで活躍する新人や中堅アーティストをなんとか呼んできた。それがここ2年なんですね。


 でも、今年はヘッドライナーにケンドリック・ラマーがいて、中堅や新人のラインナップも本当に素晴らしいんですよ。つまり、今とこれから、そして、過去の歴史の両方を伝えるという、黎明期からのフジロックがどんなメディアよりもしっかりとやっていた役割に立ち戻った感がある。並び立つ『サマーソニック』も今年は最高のラインナップ。特に新人のブッキングはサマソニがずばぬけていて、世界中が注目している新人が15組くらい出演します。もっとも日本だとごく一部にしか知られていないんですけど(笑)。だからこそ、今年の両フェスのラインナップに大興奮しているのはほんの一部で、実は集客は厳しいのかもしれない。


■2018年は“未来”に向けた分岐点に?


 総じて2018年というのは、もう一度、日本のフェス文化が息を吹き返すタイミングなのかもしれないと思います。ただ鍵になるのは、各フェスがこれだけ最高なものを揃えたんだと、主催者やメディアがこれからしっかりとプロモーションできるか。エンドユーザーが現場に行って、しかるべき反応を示すことができるのか。うまく行かなかったら、また欧米や中南米、東アジア諸国より20年遅れどころか、日本だけがさらなる孤立を深めることになるかもしれません。ただ、フェスはいまや国内の人間が足を運ぶものだけではなく、海外からの参加者が旅行がてら遊びにくるというカルチャーになりつつある。アメリカやヨーロッパはもう完全にそうですね。でも今年のラインナップなら、中国や韓国、東アジアはもとより、欧米からも多くの観客を呼ぶ込むことができる。その可能性に期待したいですね。


 そもそもJ-ROCKのような画一的な音楽ばかりが鳴っていて、同じ人種、同じようなトライブばかりが集まったイベントはそもそもフェスとは呼べない。歴史的に見れば、そう言わざるをえない。フジロックのロールモデルでもある『グラストンベリー』が果たした功績のひとつは、以前なら対立していたヒッピーとパンクスがフェス文化の中で交じり合ったことですから。だから、今年はケンドリック・ラマーやディランの前で、異なる人種や世代の人々が交じりあう光景が何よりも観たいですね。それを目撃しさえすれば、例えば、多様性といった現代的なイシューについても瞬時に肌で理解できたりすると思うんです。だからこそ、2018年というのは、いろんな意味でフェス文化の分岐点であり、日本のカルチャーの未来に向けての分岐点なんじゃないでしょうか。