トップへ

『リメンバー・ミー』はなぜ感動を呼ぶ? “優しさ”がもたらした深いテーマ性

2018年03月27日 10:01  リアルサウンド

リアルサウンド

写真

 アニー賞、ゴールデングローブ賞などで主要な賞を獲得し、第90回アカデミー賞、長編アニメ映画賞に輝いた『リメンバー・ミー』。近年のアカデミー賞は、ディズニー/ピクサー作品ばかりが受賞している印象があるが、本作『リメンバー・ミー』の受賞に文句をつける人は少ないだろう。紛れもない傑作である。


参考:『アナと雪の女王/家族の思い出』はなぜ盛り上がりに欠けた? 長編第2作への期待


 各所から「泣いた」との声が聞かれるように、本作ほど感動の涙を搾り取る映画というのも、そうそうない。「泣ける映画」という言われ方をされることがあるが、本作は、その手の作品のさらに一歩先を進んでいて、普段映画で泣くようなことなどない人にも涙を流させ、普段よく泣いている人は、涙を流すだけでなく嗚咽を漏らしてしまうほどの領域に突入しているのだ。 涙もろい人に至っては、鑑賞に際しハンカチでなくタオルを持って行くことをおすすめしたい。


 それにしても本作『リメンバー・ミー』は、なぜここまで深い感動を生み出すことができたのか。ここではその理由と、本作のヒットが生み出した社会的な意味について考えていきたい。


 監督は、多くのピクサー作品で編集を担当し、『トイ・ストーリー2』、『モンスターズ・インク』、『ファインディング・ニモ』で共同監督を務めたリー・アンクリッチ。そして『モンスターズ・ユニバーシティ』や『アーロと少年』で脚本製作に加わったエイドリアン・モリーナが、脚本と共同監督を務めている。このピクサーの屋台骨を支えてきた2人は、「感動の名作」との呼び声高い、『トイ・ストーリー3』で、それぞれ監督と、美術スタッフという立場で関わっている。


 描かれるのは、メキシコのある少年の物語だ。靴を作り続けている一族の家庭に生まれたミゲル少年は、ギターへの才能と情熱を密かに持ちながら、家業を継がなければならないプレッシャーを、家族から日々受けている。そんな境遇に、ついに我慢できなくなったミゲルは、メキシコの祭り「死者の日」に家を飛び出し、先祖たちが暮らす「死者の国」に迷い込んでしまう。ミゲルは、冒険の中でメキシコの伝統に根差した価値観を学んでいく。


 故人の魂を明るく祭るという「死者の日」。その明るく楽しい祭りの雰囲気を表すように、本作で描かれる「死者の国」は、メキシコの中央部に位置する、世界遺産にも指定されたグアナファトの街をイメージしているとアンクリッチ監督が明かしている。建物が思い思いの色でカラフルに彩られたテーマパークのような街で、死後の生を楽しむ骸骨の姿をした人々の様子を見ていると、「こんなに楽しいのなら死んでも大丈夫だ…」と思わされてしまう。死者の国の人々は、現世の人々が彼らを覚えていることで存在できるという。このルールはあくまで「死者の国」が、メキシコの人々の信仰と伝統によって存在している、現世のためにある世界だという暗示が込められている。


 本作では、死者の日を祝う、先祖の写真を飾る祭壇や、この世に故人を導くための花など、メキシコの伝統文化が紹介されていく。ミゲルを導いていく犬、ダンテは、「ショロ」と呼ばれるメキシカン・ヘアレス・ドッグ(メキシコの無毛種の犬)という伝統ある犬種で、劇中の「死の国」にも登場する実在の偉大な画家フリーダ・カーロが、絵画の中に何度も描いている。ちなみに「ダンテ」という名前は、死者の国を旅する叙事詩『神曲』の作者からとられているはずだ。


 この伝統文化を重んじる世界で描かれる「家族のつながり」の物語は、一見「保守的」にも見えてしまうかもしれない。だがその反面、このような地域の古い伝統を、進歩的観点から否定してしまうというのも、傲慢な態度だといえないだろうか。本作には、現代の進歩的な考え方から抜け落ちてしまうような伝統や古い考えへの優しい目線がある。その“優しさ”が、本作の家族の物語全体を包み込んでいるように感じられるのだ。それが本作をより深いテーマへと導いている。


 「夢をつかめ」という、劇中の伝説的ミュージシャン、デラクルスが語るメッセージは、個人の自由意志を尊重し、夢を追うことが美徳だという、アメリカ的な個人主義的価値観を感じさせるものだ。だが個人主義を徹底し過ぎることで弊害が生まれることもある。


 地球を包括するスタンダードな倫理観が広がっていくことを「グローバリゼーション」と呼ぶが、その思想はアメリカ、ヨーロッパ型の個人主義的な思想が下敷きとなっている。もちろんその考え方が、世界の人々の暮らしを改善し、個人が生きやすい環境に世界を近づかせつつあることは確かである。しかし同時に、「グローバリゼーション」とは、大企業が世界中に進出することをも指す。多国籍企業は利便性や新しい職を現地にもたらすが、現地の産業を破壊し労働者を搾取する面もある。それは企業による新たな「植民地主義」ともいえよう。


 本作の「死の国」に、画家のフリーダ・カーロが偉人として登場していたが、彼女の夫であった、同じくメキシコを代表する偉大な画家ディエゴ・リベラは、かつてアメリカに招かれ、ロックフェラーセンターで壁画を描いたが、そのなかに、ロシアで社会主義革命を起こしたレーニンを描き加えたため、ディエゴ・リベラは共産主義者と呼ばれ、壁は破壊され、全く仕事が来なくなり、事実上の国外追放の身となってしまった。彼を招聘したアメリカ人たちが欲しただろう文化の多様性というのは、あくまで自分たちの想定する範疇に収まっていなければならないものだったのだ。


 「グローバリゼーション」は、個人主義的な多様性を認めるという功績と、世界を均一化し、地域文化の多様性を破壊するという面もある。本作がメキシコの伝統的な価値観を掘り起こすことは、その流れにアメリカの側から一石を投じるということである。本作の脚本はしかし、その伝統がミゲルを追いつめていくように、伝統文化が個人の可能性を遮る場合もあることを描くのを忘れていない。


 従来のリベラルな考え方だけに執着せず、その背景にある問題を浮き彫りにしてしまうまでに、今回のピクサー作品の脚本は先進性を持ち得てしまったように感じられる。ピクサーでは、監督や脚本家を含む各部門のスタッフによる、ときに数年に及ぶ脚本会議によってストーリーをブラッシュアップさせていくというやり方をとっているが、ついにここまで多角的に世界を描く脚本が出来てしまったのかと、驚きを禁じ得ない。脚本自体が、ときに矛盾する多様な価値観が並列的に存在する「世界」そのものだと感じられるのである。


 本作の興行的なヒットや、アカデミー賞受賞は、社会的な意味も強い。アメリカのトランプ大統領は、メキシコからの不法移民をブロックするために巨大な壁を建設すると公言してきたが、そのなかでメキシコ人を、ここではとても書けないような下劣な言葉で侮辱した。無論それは大問題となり、メキシコの大統領もトランプを罵倒するなど、両国の関係が険悪になっていった。


 そんななか、『リメンバー・ミー』がメキシコで50億円を優に超える記録的な大ヒットを果たした。本作がメキシコでここまで受け入れられたのは、ただメキシコを舞台にしたというだけでなく、メキシコ文化や伝統を尊重する内容だったためであろう。そしてアメリカ本国でも、メキシコの人々やメキシコ系の市民を思いやれる想像力を、多くの観客に持たせることに成功したのではないだろうか。政治ではなく、「映画」という文化の力によって、そして優しさによって、本作はアメリカとメキシコ両国の関係の改善に寄与したのである。それは、メキシコの民族的な文化に根ざした絵画を描き続け、社会をより良いものにしようとした、ディエゴ・リベラやフリーダ・カーロの理想とも重なっている。(小野寺系)