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成功のカギは“原作”からの解放!? 『ちはやふる -結び-』、“映画”として満点の出来栄えに

2018年03月27日 06:12  リアルサウンド

リアルサウンド

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 人気漫画を映画化するとなれば「どのように映像にするか?」という課題は確実に付いて回る。とりわけ長く連載が続いている少女漫画の場合、その長さをもって確固たるストーリーが構築されていくだけに、ひとつひとつのエピソードだけを抽出するというのは決して容易なことではないだろう。しかも原作というひとつの“理想像”を前に、それをいかに再現して超えていくかが大きな鍵となる。


参考:ショートヘアの広瀬すず【写真】


 一昨年に前後編2部作で映画化された末次由紀原作のコミック『ちはやふる』は、ちょうど昨年末に連載開始から10年を迎え、現時点で37巻まで発行されている。1巻目こそプロローグとなる小学生編を描いていたが、学園モノという大ジャンルの特性通り、主人公たちの高校3年間を緻密に描写し、物語の主題となる競技かるたの緊張感漂う雰囲気を織り交ぜていく。


 それが映像化された『ちはやふる -上の句-』では、かるた部創設から地区大会優勝までの物語が映像化され、『ちはやふる -下の句-』では1年目の全国大会の模様が活写された。原作で言えば8巻あたりまでといったところか。小学生編のエピソードを回想場面として組み込みながら、『上の句』は極めて原作に忠実に映画化した印象を受けた。もちろん、原作ではもう少し先に登場するクライマックスの運命戦のくだりであったり、かるた部員たちのディテールに関しては多少の脚色が加えられていたが。


 ところが『下の句』に入ると、その“忠実さ”から遠ざかり、映画独自の路線を進み始める。原作の大筋を辿りながら、それ以外のエピソードを重ね合わせていったのだ。そこには“2部作”という前提に従うため、ある種ダイジェストにも近い手法で大胆に物語を脚色し、原作ではまだ到達していない“結末”を見つけ出す必要があったからだろう。その中でもとくに際立ったのは、原作では苦労に苦労を重ねた真島太一(野村周平)が早々にA級に昇格を果たしたくだりであろう。


 一度完結したはずの物語を、急遽として『ちはやふる -結び-』という3作目を作るとなれば、その脚色の大胆さは増すのは当然だ。というより、自由度が増すと言ったほうが適切だろうか。2部作構想の時点で迎えた結末をフックにして、さらに優雅な大団円に持ち込むためには、原作のストーリーラインから離れ、ひとつひとつの要素を積み重ね、新たなストーリーを構築していく必要が出てくるからだ。


 現実と同様に前2作から2年の月日が経過したという時間の演出しかり、原作では2年生編のエピソードであった新入生の登場を設定上で1年ずらすという離れ業を繰り出したり、原作の3年生編のエピソードである太一の退部エピソードや、綿谷新(新田真剣佑)から綾瀬千早(広瀬すず)への告白のくだりを融合させていく。そして原作ではまだ語られていないその先の物語を描くことで、“原作”という存在から自由になったのである。


 しかも自由度の高い脚色はストーリーだけでなくキャラクター設定にも波及される。新が作り出したかるた部のメンバーにいる、清原果耶演じる我妻伊織は原作にいないオリジナルキャラクター。原作に多数登場する千早のライバルキャラクターを凝縮させた実力の持ち主であると同時に、新に告白して振られるという山本理沙の要素や、試合中にモメる山本由美の要素も合わせ持った役回りなわけだ。


 原作の良い部分を拾い上げ、映像としてのメリット(かるたの躍動に他ならない)を付け加えることで、原作はあくまでも“原作”だと割り切られた、映画独自の魅力を作り出していく『ちはやふる』。もちろん、原作では絶対に作り出すことができなかった試合中の沈黙が、度々劇伴で遮られてしまう部分や、スローモーションで象徴的なルックを追求してしまう“競技かるた”の描き方には難色を示したくなるものの、“映画”としては満点の出来栄えだといえよう。


 ひとえに、確固たるストーリーを持った原作に甘んじることなく、堂々とそれを超えていくものを作ろうとした作り手の気概が実を結んだということだ。前作でもちらりと映るクイーン戦と、その先に待っているものが描かれてしまったとはいえ、シリーズ3作で段階を踏んで原作から卒業してきた流れを汲めば、まるっきりオリジナルストーリーの続編が作られることに期待したくなる。(久保田和馬)