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『アナと雪の女王/家族の思い出』はなぜ盛り上がりに欠けた? 長編第2作への期待

2018年03月25日 13:11  リアルサウンド

リアルサウンド

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 日本で国内動員2000万人を超える、記録的な大ヒットを成し遂げ、社会現象と呼べる“アナ雪旋風”を巻き起こした、ディズニー映画『アナと雪の女王』。公開後、関連グッズや、キャラクターがプリントされた食品などが街に溢れ、劇中歌「レリゴー」こと「Let It Go」の流行で、上映中に観客が合唱しても良いという「シング・アロング上映」まで行われ、その狂騒ぶりも話題となった。


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 そんな『アナ雪』が、ピクサー制作『リメンバー・ミー』同時上映の短編作品『アナと雪の女王/家族の思い出』として、またまた帰ってきた。実写版『シンデレラ』と同時上映されたスピンオフ『アナと雪の女王/エルサのサプライズ』以来、久しぶりにエルサやアナたちと会えるのだ。しかも短編作品としては、前回の8分を大幅に超え22分にまで拡大されるという、TVアニメーション1話分ほどの異例の長尺となった。このことからも、ディズニーが『アナの雪の女王』というブランドに絶対的な自信を持っていることがうかがえる。


 だが、先に上映が開始されていたアメリカでは、大変なことが起こっていた。『アナと雪の女王/家族の思い出』は、ディズニー/ピクサーの指示により、公開から約2週間で、『リメンバー・ミー』の上映からカットされることになったのだ。


 このショッキングな事態は、一体なぜ起こったのだろうか。ここでは本作『アナと雪の女王/家族の思い出』の内容に触れながら、その理由を考えていきたい。


 カットされる大きな要因となったのは、やはりその異例な尺の長さにあった。メインとなる『リメンバー・ミー』を観に来た観客たちの一部が、短編がなかなか終わらないことに戸惑い、「別のシアターに入場してしまったのではないか」と上映中に席を立ち、劇場スタッフに問い合わせるケースが頻発し、映画館がその対応に追われたという。さらに、『リメンバー・ミー』が始まる前に子どもの観客が疲れてしまうなどの声もあった。


 しかし、本作が内容的に充実していれば、ここまで思い切った措置にはならなかったのではとも思える。本作のアメリカ本国の評判を調べていくと、「上映中ずっと、これ、いつ終わるの?と思った」などの否定的な意見がSNSなどでかなり見られるのだ。映画の評価サイト「ロッテン・トマト」でも、 観客の人気の目安となる「オーディエンス・スコア」が、現在「35%」となっており、非常に低い値を示している(『リメンバー・ミー』は「95%」)。4年前のアナ雪ブームの熱気を考えれば、この状況は予想外である。


 本作は、スピンオフ『アナと雪の女王/エルサのサプライズ』同様に、第1作の後の物語を描いている。 北の国アレンデールの女王・エルサと、その妹アナは、幼い頃からの断絶した関係をようやく修復し、仲良くお城で暮らしていた。だが、楽しいはずのクリスマスの日、ある問題が持ち上がる。幼い頃に両親を亡くした2人は、王族としてクリスマスをどう祝えばいいのかを知らなかったのだ。エルサは、伝統を途絶えさせ、家族の思い出をアナに伝えられなかったのは自分の責任だと思い悩む。雪だるまのオラフは、そんな様子に心を痛め、アレンデール国の市民の家を回り、家々の伝統を2人に伝えようとする。


 本作の原題が、”Olaf’s Frozen Adventure”(「オラフのフローズン・アドベンチャー」)である通り、実際に本作の内容は、オラフの冒険がメインとなっている。日本版ではそのタイトルが採用されてないことからも分かるように、本シリーズのファンの人気は、主にクイーンやプリンセスに集中しているため、雪だるまの冒険を中心に描いたほのぼのした内容では、あまり興味を惹くことができなかったと考えられる。


 北欧を舞台にしながら、トーベ・ヤンソンの『ムーミン』や、アストリッド・リンドグレーンの『やかまし村の子どもたち』のような、伝統に裏打ちされた深い内容や、自然と人間の関係や生活などの描写は希薄だ。アメリカのTV番組におけるクリスマスの特別番組のような雰囲気だと感じた観客もいる。


 私の個人的な評価も、それらの否定的意見と大きくは変わらない。20分を超える尺があれば、TVアニメ『ザ・シンプソンズ』や『ボージャック・ホースマン』の優れたエピソードのように、深い人間ドラマを描くことは可能なのだ。今回ディズニーは、『アナ雪』ブランドへの人気に寄りかかり過ぎて、長編ファンへのサービス以上のものを提供することができなかったように思える。


 そもそも、“アナ雪旋風”が起こった理由とは何だったのだろうか。「Let It Go」の楽曲を紹介し、音楽を前面に押し出したマーケティングが成功したという意見もあるが、肝心の作品自体に力がなければ、それも叶わなかっただろう。


 「Let It Go」は、王女として生まれ、人々から差別される魔法の力を隠し通さなければならなかった、エルサという一人の女性の心理が反映されている。いままでの呪縛を断ち切り、ストレスを放り出して、「もうどうでもいい、なるようになれ」と、現実から逃避する意味合いで、”Let It Go”という言葉が使用されている。それは物語の中でも、最終的に否定される考え方として扱われているネガティブなイメージである。しかし、この全てを放り出してしまいたいという感情こそ、多くの女性が潜在的に求めている願望なのではないか。


 「Let It Go」は、1929年生まれの詩人・新川和江の代表作『わたしを束ねないで』という詩を想起させる部分がある。その一節を紹介したい。


わたしを名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
坐りきりにさせないでください
わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風


 娘、妻、母。女性は一生のうちに、社会の中でこのような役割を絶えず与えられ、縛られることになる。多くの国で男女同権が法によって保証されているが、実際には、人生における様々な場面で、「女であること」に縛られ、様々な制限に悩まされることが多いのが実情だ。「Let It Go」は、そんな女性たちに「その役割から解放されよう」という、カタルシスを与えてくれる。学校という組織に管理され、絶えずストレスを抱えている学生が、「学校を燃やせ!」とか、「バイク盗んで走り出す」みたいな歌詞に感動するというのにも近い。実際にはやれないけれど、その歌詞を聴いている瞬間は救われるのである。


 こう考えると、“アナ雪旋風”が、とくに日本で吹き荒れたという事実にも納得できる。 世界経済フォーラムが発表した、男女平等が達成されていることを比較する、2017年版「ジェンダー・ギャップ(男女差)指数」では、日本は調査対象となった144の国のうち、114位という、不名誉な結果となった。このように女性が社会的に差別されているような国で、「レリゴー」が流行らないわけがないのだ。


 その思想を受け継いで、『アナと雪の女王/家族の思い出』では、「伝統に縛られず、自分たちが新しい文化を作っていこう」というポジティブなメッセージが発せられる。だが、やはり「レリゴー」ほどの、全てを投げ捨てていく爆発力には遠く及ばないのは確かだ。


 しかし、もちろん『アナ雪』シリーズはこれで終わりではない。本当の勝負は、「2019年公開」と発表されている、製作中の長編『アナの雪の女王』第2作である。


 この第2作には、かなり興味深いトピックがある。一部ファンの間で、エルサに同性のパートナーを望む声が多く寄せられたことはご存じだろうか。「Let It Go」には「同性愛者であることを隠さない決意をする」という解釈ができるとして、次作でぜひそのことについて描写をしてほしいというムーブメントが起こったのだ。そのアイディアについて、監督と脚本を務めたジェニファー・リーが『ハフィントンポスト』のインタビューで反応し、そのアイディアに好意的な意見を述べたのだ。


 もし、第2作がそのような内容になれば、ディズニー始まって以来の、同性愛者の主人公が生まれることになる。『アナの雪の女王』という人気ブランド、しかも子どもの観客が多数鑑賞することになるタイトルで、もしそれが達成されれば、そのインパクトはとてつもなく大きなものとなり、大きな議論も生まれるだろう。ビジネスとしての役割も大きく担わされている『アナの雪の女王』シリーズにおいて、それが可能であるとは、現時点では思いにくいが、もしもその領域に足を踏み込むならば、次作は最も革新的な映画の一つとなるだろう。


 ともあれ、第2作では間違いなく「女性の自由意志と解放」に代わる、新たな強いテーマが必要となるはずだ。願わくば、前作以上のインパクトを持った、新たな「レリゴー」が生まれることを期待している。(小野寺系)