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『毛虫のボロ』が成し遂げたことの意味とは? 宮崎駿監督による“紛れもない本気の新作”を徹底考察

2018年03月23日 06:02  リアルサウンド

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 『風立ちぬ』をもって長編アニメーション引退宣言を行った宮崎駿監督。その後、新しい長編企画(『君たちはどう生きるか』というタイトルが明らかになっている)の発表とともに引退は撤回された。この撤回までの間に、宮崎監督は三鷹の森ジブリ美術館の展示物や、そこで上映する短編アニメーションを製作していた。その短編が、『毛虫のボロ』である。


参考:小野寺系の『メアリと魔女の花』評:“ジブリの精神”は本当に受け継がれたのか?


 『毛虫のボロ』は、TVアニメ1話分にも満たない14分という長さで、通常の劇場での一般公開を予定されてもいないため、制作・公開規模は、長編作品とは比較にならないほど小さい。とはいえ、製作状況がドキュメンタリー番組(NHKスペシャル『終わらない人 宮崎駿』)のなかで紹介され話題になるなど、その内容については多くの人々の関心を集めていた。


 「20年間夢見ながら叶わなかった幻の企画」だけに、実際に『毛虫のボロ』 を鑑賞すると、本作が宮崎監督にとって、長編制作までの息抜きなどではなく、前のめりになって作られた、紛れもない本気の新作だということがひしひしと伝わってくる。それだけでなく、いくつかの意味において、現在のアニメーション界のなかでも最新型の作品だと感じることができる作品だった。


 ここでは、そんな本作『毛虫のボロ』の内容を追いながら、「描写」、「CGへの挑戦」、「物語」という、主に三つの切り口から、本作が成し遂げたことの意味を、可能な限り深いところまで掘り起こしていきたい。


■「描写」-“虫の眼”を持つこと-


 植物に付着した卵の殻を破り、一匹の生まれたての“毛虫のボロ”が「世界」を初めて見るところから、本作は始まる。ボロの周りにあるのは、不気味なもの(夜の魚)がうごめく闇の世界だ。


 だんだんと空が白み始め、ボロが葉の表面にたどり着くと、目に飛び込んできたのは広大な空間だ。様々な色をした大気の粒が躍動している。その光景は、印象派の画家、ジョルジュ・スーラの点描が映像化されているように感じられる。


 ボロは、立方体に近い形のほぼ無色透明な物質が、夥(おびただ)しい数で空間を漂っているのに気づく。それは、宮崎監督が名付けた「空気のゼリー」だ。虫のような小さな目から見ると、酸素や窒素などがこのように見えるのではないかという、空想の産物である。空気のゼリーは、わずかに発光しながら草木にぶつかり、自らの重量によってほろほろと崩れていく。ボロはゼリーにぶつかり、身体いっぱいに空気を吸い込む。おそらくこれは、いままでに誰も描いたことのない呼吸の表現だろう。


 次に驚かされるのは、陽の光が差し込んでくる描写だ。無数の光は棒状のかたちに質量をともなって、ボロに向かってくるのである。それがボロの身体に衝突して、液体の質感をともなって、するどく通り抜けていく。陽の光を物体として描くという発想も圧倒的だ。


 驚愕の凄写はまだまだ続く。ボロの食事シーンである。毛虫は葉っぱを食べるものだが、本作におけるその描き方は、凄まじく鬼気迫るものだった。植物の葉はたっぷりと水分を蓄えており、表面からも水滴が次々に染み出してくる。その内部では葉緑体が絶えずうごめき、光合成を行いながら虹色に輝いている。ボロは、水や養分を通す葉脈ごと葉っぱを切り取り飲み込んでいく。この圧倒的な描写力によって表現された、複雑で美しい命のシステムを、自分の栄養にするためボロが吸収していく様子は、観る側もうっとりとした快感を味わい、同時にほのかな背徳感をもともなう。その表現は、もはや官能的だとすらいえる。


 空気を吸う、陽の光を浴びる、葉っぱを食べる。このような、毛虫にとっての日常的な生活の風景が、これまでに見たことのない圧倒的な表現で迫ってくる。自然の環境は、じつはこのように圧倒的に複雑なディテールによって構成されている。多くの人間は、それに気づかずに生活しているのだ。


 だが言ってしまえば、このような表現は“嘘”である。空気はゼリー状で漂うことなどないし、光は棒状の物質となって迫ってはこない。葉っぱをどこまで拡大していって映像に収めても、本作のような光景は見られないだろう。もちろん、アニメにはこのような現実離れした表現がつきものだ。しかし、ここでの表現は、よくあるアニメの演出における誇張とは異質なもののように思える。


 宮崎監督は、これまでの作品でも、このようなリアリスティックな嘘をよくついている。『もののけ姫』で、アシタカが移動中に遠方から矢を射かけられる場面がある。距離があるため、矢の軌道は山なりになって、アシタカを真上から襲うことになる。その極端な角度には、幾分の誇張が含まれるのだが、観客は「なるほど、遠方からの矢はこうやって迫ってくるのか」と、事実に近い映像を見せられるよりも深く納得してしまう。むしろ誇張されている方が、物事を実感しやすい場合があるのだ。


 『熱風』(スタジオジブリ出版部)2010年7月号インタビューのなかで、宮崎監督は、iPadを操作して調べものをするインタビュアーに、このように言い放った。


「あなたには調べられません。なぜなら、安宅型軍船の雰囲気や、そこで汗まみれに櫓を押し続ける男たちへの感心も共感も、あなたには無縁だからです。世界に対して、自分で出かけていって想像力を注ぎ込むことをしないで、上前だけをはねる道具として“iナントカ”を握りしめ、さすっているだけだからです」


 この発言はいささか乱暴にも聞こえるが、宮崎作品の表現方法を思い浮かべながら考えていくと、その真意が分かるはずだ。インターネットで弓矢の画像を調べ、コンピューターに矢の軌道計算をさせたところで、『もののけ姫』のような表現はできないだろう。


 人は生活のなかで、様々な体験をしながら起こる出来事を実感している。私は、人が本当に喜ぶ瞬間に、目の中の瞳孔がブワッと広がる瞬間を目撃したことがある。そのとき私は、嘘のない本当の喜びとは、瞳孔の広がりによって示されるものだということを、体験から理解することができた。このような一つひとつの体験を経て、人間は世界を実感していく。しかし、実写でそれを撮影するには、かなりカメラを目に近づけて接写しなければならない。だがアニメーションであれば、それを自由に表現することができるのだ。そうやって作られた映像は、「事実」をそのまま映した映像よりも「真実」に近いはずだ。


 優れたアニメーションや創作物は、事実を写し取ることを目指すのでなく、実感に裏打ちされた「真実」を表現することを目指すものである。ここでの誇張表現は、現実から離れる面白さを追うのではなく、現実以上の現実を生み出すための道具となっている。


 また、本作の効果音は全てタモリが声色によって表現するという実験的な手法を用いているが、それも前述しているような、「世界」を新たに見つめ直すための、宮崎監督による、いわばラディカル(急進的かつ根本的な)な試みの一つである。


■「CGへの挑戦」-高いハードル-


 本作の制作状況を追ったドキュメンタリーでは、宮崎監督による初の本格的なCG(コンピューター・グラフィックス)アニメーションへの挑戦が焦点になっていた。


 プロデューサー・鈴木敏夫の発言によると、今回の公開の半年ほど前に、いったん作品は完成をしたものの、宮崎監督が作品の出来に納得せず、製作スタッフを一新させ、大がかりな作り直しが行われたということが伝わっている。


 製作中の映像を見ると、当初から背景美術は、従来と同じく手描きによって描かれていることが確認できるため、全てをCGで製作することはもともと構想されていなかったと考えられるが、実際に完成した作品は、いままでの宮崎監督の作品のように、かなり多くの部分が手描きで製作されているように感じられる。また、手描きに見えるようにCGが使用されている部分も多い。


 これらの情報をあわせて考えると、手描きとCGの良いところを折衷する計画で製作が進められていたが、いかにもCGに見えるような表現は用いられず、完成した時点で宮崎監督が気に入らないと感じた箇所を、従来の方法で描き直したということだろう。それは、スタッフの数年がかりの努力を一部、無に帰すという決断でもあるはずだ。最終的なクレジットでは名前が消えているスタッフもいる。その裏には、宮崎監督の作品づくりへの独自の基準があった。


「ラセターがさ、宮崎が(CG)をやってたって言ったら絶対覗きに来るでしょう? 『まだこんなレベルか』って思うに決まってるじゃない。恥ずかしいものはやりたくないじゃない」


 宮崎監督が『終わらない人 宮崎駿』(NHKドキュメンタリー)のなかで話題にした、友人でもあるジョン・ラセターとは、ピクサー・アニメーション・スタジオの代表的人物であり、いまではウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオの作品をも統括する立場にあるクリエイターだ。そんなラセターに対して恥ずかしくないものを作るというのが、宮崎監督の望む最低ラインだった。そんな想いをまだ知らない『毛虫のボロ』CGスタッフたちは、「作り出したら早そうな気がする」と発言するなど、完成イメージを軽く見積もっていたようだ。その意識の差はおそろしく大きい。


 果たして、ここまで高い要求をクリアーしなければならないスタッフたちは、割に合うのだろうかと心配にすらなってくる。「スタジオは人を食べていくんですよ」と宮崎監督自身が言うように、多くの才能と努力は、宮崎監督のイマジネーションを“忠実に”具現化するためのパワーへと変換されてしまう。


 これに近いのは、小津安二郎監督の映画づくりだ。小津監督は自らカメラ位置やアングルを決定し、小道具などの美術も自分で決めることが多かった。カメラマンや美術スタッフたちの自主性の大部分は、その環境下では制限されてしまうのだ。ある美術スタッフはそれが理由で、比較的自由で新しいことが試せる黒澤明監督の方へ移籍したという。だが監督の能力が高ければ、その意志が強く反映された作品が魅力的になるというのは確かではある。


 また、日本のCG技術自体が、スタジオジブリのベテラン作画スタッフほどの洗練に達していないという問題もある。押井守監督が自作『イノセンス』でCGを多く使用しながらも、感情を込めるようなキャラクターに関しては、従来のように手描きの手法を選択した理由もそこにある。宮崎監督はCGキャラクターの感情表現について不満を漏らしていたが、これはCG技術の状況をよく把握できていなかった宮崎監督が、手探りで製作を行っていたためであろうと思われる。


■「物語」-生まれてきてよかったね-


 本作には、ハッキリと順序だったストーリーの流れや、成長物語による分かりやすい感動のようなものは希薄だ。その意味では、観客によっては期待がはずれてしまうかもしれない。しかし、ここにこそ本作の凄さが表れているといえる。


 『もののけ姫』が公開された1997年は、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』が同時期に上映されていた。それは、『風の谷のナウシカ』で巨神兵のシーンを担当した庵野秀明監督との、ある意味での「師弟対決」であった。もともとの公開規模の差もあり、興行収入においては『もののけ姫』が圧倒的な勝利を収めたが、純粋にアニメーション作品としての内容はどうだったかといえば、総合的な完成度では『もののけ姫』に軍配が上がるものの、少なくとも表現の新しさという面では、『エヴァンゲリオン』の方が数歩先を進んでいたように、私には感じられた。比較すると『もののけ姫』は、非常によく出来たクラシックカーのように古ぼけて見えてしまったのだ。このことがあり、私は宮崎作品はその後、アニメーション作家としては低迷を余儀なくされるのだと思っていた。


 だが次作となる『千と千尋の神隠し』によって、その予想は大きく覆された。具体的に言うと、千尋が列車に乗って移動するシーンで、宮崎監督の作家として残されていたポテンシャルが一気に花開き、大幅に奥行きが与えられたように感じたのだ。


 『千と千尋の神隠し』に登場する施設「油屋」は、上階に事務所を置く経営者・湯婆婆(ゆばーば)によって支配されている。この縦構造は、『未来少年コナン』の“インダストリア”における、『メトロポリス』や『やぶにらみの暴君』などを想起させる、ディストピアでの反乱を描くプロレタリア的な世界観だ。対比される農業国“ハイハーバー”は、その裏返しの存在に過ぎない。しかし、『千と千尋の神隠し』では、あるべき“権力の打倒”が描かれないばかりか、千尋が列車に乗った以降は、そのような構造が一気に崩れて、観客は物語の行方を見失うことになる。それは、あらかじめ用意されたテンプレートやカタルシスを、宮崎監督が意図的に排除したためだ。その試みは『崖の上のポニョ』でさらに深化し、宮崎監督は、優れたアニメーション作家であると同時に、優れて個性的でアヴァンギャルドな映画作家にもなったのだ。


 『毛虫のボロ』では一応、悪役らしき存在が登場する。宮崎監督が「無人攻撃機」と表現する、毛虫を狙う不気味なカリウドバチや、カマキリのような昆虫である。だがこの物語では、そんな肉食の昆虫たちが、毛虫の仲間たちの協力によって成敗されたりすることはないし、ボロが美しい蝶に変身するというような、よくある展開が訪れることもない。それは勧善懲悪の物語で感動を呼び込むという安易さを嫌った結果であり、対立を描くような文学的テーマのために映像を従属させたくないと考える、宮崎監督の現在の作家性によるものであろう。


 宮崎監督は、『崖の上のポニョ』を作る前に『虫眼とアニ眼』 (新潮社)での対談でこう述べている。


「生まれてきてよかったねって言おう、言えなければ映画は作らない。自分が踏みとどまるのはその一点でした」


 ボロが空気を吸い、陽の光を浴びて、葉っぱを食べる。そしておそろしい昆虫たちに絶えず命を狙われるなど、様々な体験をするワンダーランドは、カメラを引いて俯瞰でとらえると、じつは何の変哲もない住宅地のなかの畑だったことが分かる。官能的に美しい葉緑体の動きも、カリウドバチの不気味な姿も確認できない。しかしそれらは間違いなくそこに存在するものなのだ。


 そういうものを発見して喜ぶことができる眼を、おそらく人間は本来持っていたはずである。だが功利主義的な社会の中で成長していくことで、人は自分の利益にならないようなものは見なくなっていく。そしていつしかそんな世の中に失望し、「生まれてこなければ良かった」と思うことがあるかもしれない。しかし、我々が捨ててきた世界のなかには、美しい光景や多様な価値観が、もっともっとあったはずなのである。


 『毛虫のボロ』は、そんな「世界」を、これまでにない圧倒的な表現で示してくれることで、観客に生きる力を与えてくれる、宮崎駿監督の作品の中でも、とくに傑出したアニメーションである。この14分を体験するために、ジブリ美術館まで足を運ぶ価値は十分にある。本作を観て美術館の外に出れば、そこには新たな「世界」が広がっているはずだ。(小野寺系)


※宮崎駿の「崎」は「たつさき」が正式表記