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妻夫木聡も惚れ込んだ「アンチ共感」的演出 石川慶監督『連続ドラマW イノセント・デイズ』に期待!

2018年03月17日 10:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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 石川慶監督の突然の登場は、日本映画界において少なからぬ衝撃であった。製作のオフィス北野、及び『アウトレイジ』(2010年)以降の北野武作品でプロデューサーを務めてきた加倉井誠人の尽力もあったのだろう、昨年公開された『愚行録』には、長編作品としてデビュー作であったにも関わらず、妻夫木聡、満島ひかり、小出恵介、眞島秀和、臼田あさ美らを筆頭に、現在の日本映画界の第一線で活躍する30代の役者たちが集結。しかも、石川監督はそんな多才なキャストたちを持て余すどころか、とても初長編作品だとは思えない巧みな演出によって、それぞれの役者としての新しい側面を引き出してみせた。


参考:妻夫木聡「今も夢の中にいるみたい」 自ら企画したドラマ『イノセント・デイズ』に感無量


 『愚行録』はその物語と技法の鮮烈な対比においても特筆すべき作品だった。過去(大学時代)のスクールカーストやコンプレックスや妬みや恨みと、その先に起こった惨劇という極めてドメスティックで陰湿な題材を扱いながら、画面の質感はまるでヨーロッパのアート映画のように硬質で、彩度が抑えられたもの。また、登場人物の心象を表情や台詞に頼らず、立ち姿や人物の配置で示していく、その凝った画面設計も印象的だった。撮影監督は、石川監督の留学先だったポーランド国立映画大学出身のピオトル・ニエミイスキ。我々観客が映画に「日本映画らしさ」を感じるのは、そこに出ている役者や、そこで語られている物語以上に、日本映画特有の湿っぽい映像のルックや人物のアップを多用する説明的な語り口にあるということを、「日本映画らしくない日本映画」であった『愚行録』は逆説的に証明していた。


 今回、WOWOWで全6話の連続ドラマとして放送される石川慶監督の新作『イノセント・デイズ』においても、(撮影監督は日本のスタッフだが)その独特の乾いた画面の質感や、周到な画面設計は健在だ。もっとも、冒頭で死刑判決を受ける女囚(竹内結子)と彼女の無実を信じる幼馴染(妻夫木聡)という構図は、『愚行録』の妹(満島ひかり)と兄(妻夫木聡)の構図と一見相似形を成しているようでいて、(それぞれ原作があって、その原作者も異なるので当然だが)物語はまったく違う方向に転がっていく。


 『愚行録』と『イノセント・デイズ』に共通するのは、石川監督が(もしいるとするならばだが)善人も悪人も、登場人物を等しく突き放しているところだろう。ここまで技法的な側面から石川慶作品の「日本映画らしくなさ」を指摘してきたが、実はその「日本映画らしくなさ」を最も表しているのは、その対象との冷ややかな距離感かもしれない。


 日本の映画やドラマの多くは「主人公への共感」をベースに物語が進んでいく。もちろん、作劇上においても、エンターテインメントとしても、それは必ずしも間違ったことではないが、石川監督の抑制が効いた演出は、主人公(及びほかの登場人物)への共感が安易に発生しないよう周到に心がけているように見受けられる。興味深いのは、これまで数々の作品における「泣きの演技」の巧さについてしばしば語られていた妻夫木聡が、『愚行録』に続いて、過去の代表作とは真逆とも言える石川監督の「アンチ共感」的演出に惚れ込み、本作の実現に向けても大いに貢献したという事実だ。また、中村義洋作品『残穢 -住んではいけない部屋-』や黒沢清作品『クリーピー 偽りの隣人』に続いて、すっかり「アンチ共感」的キャラクターを乗りこなすようになった竹内結子の静かな怪演にも注目してほしい。


 各方面から賞賛された『愚行録』を経て、妻夫木聡、竹内結子、新井浩文、芳根京子をはじめとする映画でもメインロールを張れるような人気と実力がともなった役者たちがキャスティングされた石川監督の新作が、どうして映画ではなく連続ドラマとなったのか、不思議に思う人もいるかもしれない。しかし、今や海外においては「アカデミー賞を受賞した監督でも、その次作はドラマ」というのが当たり前の時代。監督も役者も、作品ごとにそのフォーマット(映画かドラマか)やリリース方法(ネット局かケーブル局か配信サービスか)を慎重に選ぶようになってきている。WOWOWの「ドラマW」という場、そして全6話、約6時間という長尺で、「日本映画らしくない日本映画」の新たな可能性を切りひらいた石川監督がどんな語り口や技法を駆使して物語を語っていくのか。固唾を飲んで見守りたい。(宇野維正)