■「女性蔑視」を正面から扱った第3話
いよいよ最終回を迎える金曜ドラマ『アンナチュラル』。最終話に向けて、赤い金魚の謎と連続殺人犯の真相を巡って緊張感の続く展開になっているが、私はいまだ3話のことも考えている。
3話は、ある殺人事件の検察側の証人として出廷した主人公で法医解剖医の三澄ミコト(石原さとみ)が、傷と凶器の矛盾に気づき、今度は弁護側の証人となるという話だった。
その証言の場でミコトは様々な女性差別の視線にさらされる。検察側の証人である解剖実績1万5000件を持つ草野教授からは、ミコトの解剖実績が10分の1だということも加え、「女性だということでちやほやされるんでしょうが、最近は未熟ながらもいっぱしの口をきく女性研究者が増えております」と言われてしまう。また、「白いものも黒くする」という異名をとる烏田検事(吹越満)からは、「責任転嫁は女性の特徴です。自分の確認不足を棚に上げて、すべて人のせいにして、相手を感情的に攻める。彼氏が相手ならけっこうですが、ここは法廷です」と詰め寄られる。さらに「神聖なる司法の場が女性のきまぐれで振り回されるとは、由々しき事態です」という言葉を買って、「私は、法医学者として鑑定の事実を言っているんです」と返したところ、烏田に「感情的」と指摘され、ミコトはまんまと「私個人と証拠の価値は関係ないですよね…」と感情的にまくしたててしまう。
■クドカン脚本『監獄のお姫さま』でも描かれた「これだから女は」
このシーンを見て、前クールに放送された宮藤官九郎脚本の『監獄のお姫さま』を思い出した。このドラマでも、小泉今日子演じる主人公の馬場カヨが、ある事件の真犯人である板橋吾郎(伊勢谷友介)と自身の夫とを重ねて感情的になるシーンがあり、それを見た吾郎から「まいったな、これだから女は」とあきれられるシーンがあった。ふたつのシーンでは、女性たちには日常から感情を爆発させたくなるほどの仕打ちを受けているし、「これだから女は」という目線で見ることが、いかに女性というだけで蔑視をしているかを明らかにしようとする意図が感じられた。
『アンナチュラル』では、ミコトが感情的になった場面を週刊誌に「理性の検事VSヒステリー女法医学者」と書き立てられ、男対女の代理戦争の矢面に立たされてしまう。もし、こんなことが現実にあっても、どれだけネットが論争になるのか想像がつくだろう。
それを受けて、ミコトは自腹をはたいて証拠になるデータを集め、烏田検事を「ぎゃふん」と言わせようと奮起するのだが、結局その証言を、同僚で「感じの悪い」中堂(井浦新)に任せてしまうのだ。
■なぜミコトは自らの手で検事をぎゃふんと言わせなかったのか
この展開を見て、私は意外に思った。なぜならば、昨今のドラマでは、女性にふりかかった問題は、自分自身で解決するほうがスッキリする。そのほうが、女性の可能性を明らかにしているように思えるし、突然、都合のいいナイト=騎士のような男性が現れ解決してしまうのは、女性を舐めているようにも思えるからだ。
しかし、これだけ女性蔑視の状況を克明に描きながら、このドラマではミコト自身が解決しなかったのはなぜだろうか。このことは、ドラマをその後も見続けていく中でも、ずっと考え続けてきたことだ。
3話を見たところでは、ミコトは被告人の男性からも「私の人生、女なんかに任せられません」と拒否されてしまう。これには、被告人が妻から常に虐げられていたという過去があり、ミコトはこれに対しては理解をしている。しかも、無実の人が罪を認めることは、法医学の専門家としても遺恨が残るものだから、個人的な感情は横においてでも、やはり真実は明らかにしたかったのだと思う。
一方で、UDIラボでは、同僚の中堂がかつて同じラボで働いていた坂本からパワハラで訴えられているという状況があった。ミコトはこのふたつを結び付け、中堂と協力をしていっぺんに解決しようと、ここで初めて歩み寄るのだ。結果、中堂がミコトの代わりに検察を「ぎゃふん」と言わせることに成功した(そもそも、この依頼は中堂がやるかもしれなかったものでもあるのだから)。
■ミソジニーの「エサ」にはならない
ここで、ミコト自身が「ぎゃふん」と言わせなくてもよかった理由には、ドラマを注意深く見ている人ならば、いくつか気づくことがあるだろう(私は何度も見てやっと整理できたのだが)。まず、法廷には男対女という構図を煽り、面白おかしく週刊誌に書きたてようというフリーの宍戸という記者がいることが気にかかる。ミコトには男対女の構図を煽りたいという意図はなく、代理戦争の矢面に立たされる必要はなかったということは理由のひとつとしてあるだろう。その宍戸という記者は、若い女性を狙う事件についてばかり書いていて、9話の時点では、連続殺人の犯人に最も近い人物であるということが明らかになる。ミコトは宍戸と彼の記事を興味本位で読む人々の「ミソジニー(女性嫌悪、女性蔑視)」の標的(エサ)になる必要はなかったということだ。
また、これも後々わかることだが、中堂とミコトは、大切な人を亡くした経験があり、そのことで「一人でも不審死をなくしたい」という気持ちを持っている。そんな二人が協力者になるというのが、このドラマのひとつの軸にもなっている。この3話でこそ、二人が協力者になる良いきっかけとして、ミコトではなく中堂が「ぎゃふん」と言わせたのだということもあるだろう。だからこそ、3話で中堂の人気もぐっと上がったのである。そして、重要なことだが、証拠はミコトたちラボのみんなで見つけ出したものだし、中堂はミコトの助けるためのナイト(騎士)ではないのだ。
■ミコトと中堂、感情と倫理のはざま
またもう一つには、ミコトは法医学者なのだから、個人的に誰かを「ぎゃふん」と言わせてすっきりするよりも、「法治国家で法医学がおざなりにされるということは、無法の国になるということ」だから、それを誰の手によってでも構わないから避けなければいけないと考えていることが3話のエンディングでも明らかに描かれている。これも、9話までを見ればわかることであるが、中堂は、恋人を死においやった人物を突き止めたときには、自分の手でその犯人を殺めてしまってもいいという気持ちを持っている。ミコトは、そんな中堂の気持ちを知り、感情と倫理の間で悩み、「倫理的に多少の問題があったとしても、誰かの一生を救えるなら目をつむるべきなのかどうか」と考える姿が5話でも描かれていたが、この物語は復讐の物語ではないのだから、どんなに怒りがあっても、絶対に感情に任せて人を殺めてはいけないということが前提にあるだろう。
その5話では、恋人を殺された男性が真犯人を知って、実際に刃を向けるシーンもあり、タイトルは『死の報復』というものだった。この話もあとあとまで生きてくる。9話では、ミコトは中堂に、「もし犯人が見つかったとしても、絶対にひとりでいかないでくださいね。私たちは法医学者です。法で落とし前をつける」というと中堂は「理屈ではな」と返すセリフがあるのだが、このシーンと『死の報復』と、3話でミコトが自分の手で「ぎゃふん」と言わせなかったことには、深い関係があったのではないだろうか。感情(理屈でどうにもならないもの)と倫理(理屈)というテーマは、3話以降、ドラマでずっと貫かれているのだ。
■女性蔑視の少ない「ファンタジー」を描かない誠実さ
それともう一つ。3話では、ミコトの同僚の東海林が、ある会社に至急、元素分析をしてもらいたいのに応じてもらえないということで、元厚労省出身の神倉に電話をかけてもらうシーンがある。実際の社会でも、女性だから(とか偉くないから)ということで、話を聞いてももらえない場合や、交渉の場にも立たせてないということはまだまだあるだろう。ミコトにしても、最後まで弁護人の証言をやりきってスッキリできるほど、現実は女性にとって生きやすくはないということなのかもしれない。『アンナチュラル』では、現実よりも女性蔑視が少なく、女性が生きやすい世界をフィクションの中で描いたら、ファンタジー(夢物語や、都合の良いポルノ)になってしまい、不誠実であるという作り手の思いがあったのではないか。現実に横たわる女性蔑視の根は、もっと深いということが思い知らされるのだ。