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荻野洋一の『ブラックパンサー』評:普通の映画であることによって革命的作品に

2018年03月11日 10:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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 この映画にはメッセージはない。あるとすればただひとつ、「われは黒人」という一点が身体言語によって執拗にくり返されている。アメリカ製のアメコミ映画であるにもかかわらず、アメリカ人はひとりしか出てこず、CIAエージェントであるこの男にしても、ごく補助的、後見人的な役割しか演じようとしない。あたかも今はもうそうでなければならないと心得ているかのように。『ブラックパンサー』はアフリカの架空の国ワカンダの物語である。「ヴィブラニウム」なる鉱石の恩恵を受けて高度な文明を築きつつも、「ヴィブラニウム」の拡散を恐れ、隠匿的な国家体制を採ってきた。


参考:米国ではヒーロー映画史上1位確実? 『ブラックパンサー』の日本興行はどこまで伸びるか?


 本作は2月に全米で公開されるやいなや、黒人若年層を中心に熱狂的に迎えられ、映画史上歴代5位の驚異的な興行成績を叩き出しているそうだが、その理由はあきらかだ。つまりこれが単に黒人初の本格的スーパーヒーロー映画であるばかりでなく、これが差別や抑圧、貧困から切断された黒人映画だからだ。ご存じのようにアフリカン・アメリカンの現状はそうではない。むしろ現代世界は、トランプ政権などという一昔前なら何かの陳腐なパロディでしかないような反動的、差別主義的な政権が誕生してしまう暗黒時代でさえある。


 近隣諸国の困窮とは隔絶され、「ヴィブラニウム」という物質の恩恵によって、ワカンダ王国ひとり繁栄を謳歌するいっぽう、彼らは「世界最貧国」という偽装のもとにその繁栄ぶりを隠蔽する。手の込んだ鎖国である。問題はどのように開国していくか。『ブラックパンサー』の問題はそこに存する。つい先ほど、貧困や差別から切断された黒人映画と書いたばかりだが、それを早くも一部撤回しなければならない。映画は全米屈指の犯罪多発都市、カリフォルニア州のオークランドから始まるのである。1990年代初頭、黒人居住区の低所得層用アパートメント。ひとりの血気にはやるアフリカ人活動家は武器調達に余念がない。オークランド市は、黒人解放闘争を主導した過激派グループ「ブラックパンサー党」が1967年に結成された場所だ(マーベルコミックにブラックパンサーが登場した数ヶ月後のこと)。このアパートメントで発生したアフリカ人活動家の殺害が、映画『ブラックパンサー』の発端となる。


 ワカンダ国王の座をブラックパンサーから簒奪することを狙って、鎖国国家ワカンダに闖入者が向かう。キルモンガーという元秘密工作員で、マイケル・B・ジョーダンが演じる。ジョーダンは本作の監督をつとめた黒人映画作家ライアン・クーグラーとはデビュー以来の盟友関係にあり、『フルートベール駅で』(2013)、『クリード チャンプを継ぐ男』(2015)と、クーグラーの前々作、前作で主演をつとめてきた。キルモンガーはアメコミ映画の範疇においてはヴィラン(悪役)であり、あくまで打倒される役回りだけれども、ジョーダンによってより共感に値する存在として表現された。


 ヒーローvsヴィラン、ブラックパンサーvsキルモンガーの対決は定式通りに描かれ、本作は、拍子抜けするほどオーソドックスなスーパーヒーロー映画として進行していく。玉座をいとこ同士で争うという点では、最近大流行しているインドの宮廷陰謀劇『バーフバリ』と内容的にはまったく同じである。つまり、これは普通の映画を志向している。同作を取り巻く環境や社会的意義があまりにも変革的にすぎるために、かえって志向された普通さに思えてくる。差別的スティグマからの転換がきわめて極端かつ楽天的に謳歌された形だ。


 『フルートベール駅で』も『クリード』もそうだったが、ライアン・クーグラーという作り手は、そもそもあまり変わったことをやる人ではない。謹直な実践派というべきか、アクション描写とメンタルの描写、そして大摑みの主題、この3点をきわめてバランス良く案配していく人である。かんたんに言えばウェルメイドの人ということになるけれども、黒人映画にいま最も求められているのは、良くも悪くもこの資質にちがいないのである。黒人映画としての『ブラックパンサー』は、ブラックスプロイテーション(黒人向けに濫造された初期の低予算通俗映画)でもなく、オスカー受賞の奴隷解放映画でもなく、アフリカの大地を舞台としたオーソドックスきわまりないエンターテインメントであることによって、つまりごく普通の映画であることによって、逆説的に革命的作品となることに成功したようである。


 スーパーヒーロー映画にとって大事なのは、ヒーロー本丸が魅力的であることはもちろん、敵対するヴィランが別の(場合によってはヒーロー以上の)魅力をもつこと、そしてヒーローを助ける助手的な存在もまた魅力的であることだろう。悲愴な覚悟で主人公に挑戦する悪役のキルモンガーだけでなく、主人公の婚約者でワカンダ王国のスパイであるナキア(ルピタ・ニョンゴ)、主人公を護衛する女性隊長オコエ(ダナイ・グリラ)など、黒人の女優たち、男優たちがみな素晴らしい。とくに2人の女性キャストのスタイリッシュな輝き、美しさは尋常ではない。韓国・プサンでのカーチェイスで、アクセルをグワッと踏みこむナキアの足のアップが2回も写るが、ああいうカットにライアン・クーグラー監督の入れ込み具合がそれとなく分かる。主人公ブラックパンサーを演じたチャドウィック・ボーズマンは、『42 世界を変えた男』(2013)で黒人初の大リーガー、ジャッキー・ロビンソンを演じた俳優だが、なんとも愛すべき顔をしていて、時として引き気味に構えて両脇のナキアとオコエに場をさらわれるいとまさえ作って、多層的なフォーメーションを演出する。一歩引くことを知るヒーローほど粋なものはない。


 個人的な記憶をリンクさせてもらうなら、本作『ブラックパンサー』はどこかしら1980年代初頭にデイヴィッド・バーン率いるトーキング・ヘッズがアルバム『リメイン・イン・ライト』をリリースした時の異様な雰囲気を思い出させる。同アルバムは、徐々に盛り上がりを見せていたエスニック音楽のエッセンスを、ニューヨークのロックバンドが大々的に吸収し、アフリカンビートとパンク・ニューウェイヴがみごとに融合した傑作として、音楽シーンに激震をもたらした。トーキング・ヘッズは日本公演もおこない、派生グループのトム・トム・クラブとの合同ライブは、反復されるビートの嵐の中で異様な熱狂を巻き起こした。


 『リメイン・イン・ライト』は、日本の音楽評論シーンで熱い賛否両論を呼び起こした。時代を画する傑作として同作を絶讃する論陣。そして反対にトーキング・ヘッズの試みを、アメリカのバンドによるアフリカ音楽の植民地主義的な搾取だとして全否定する論陣。筆者がなぜ『リメイン・イン・ライト』を思い出したのか、これはじつに単純な連想だ。このアルバムがアメリカによるアフリカンビートの剽窃だったからだ。映画『ブラックパンサー』にも同じようにその功と罪、両方が刻まれている。そのことを踏まえつつ、それでも研ぎ澄まされた美しいアクション、ここで奏でられるビートそのものの官能性と共にありたいと思う。中学生の当時、筆者自身が『リメイン・イン・ライト』の強烈なインパクトに病的に取り憑かれていったのと同じように。


(荻野洋一)