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『シェイプ・オブ・ウォーター』は、なぜアカデミー賞作品賞を受賞したのか?

2018年03月10日 10:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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 アカデミー賞有力作品『スリー・ビルボード』との競り合いを制し、第90回アカデミー賞作品賞に選ばれたのは、一人の女性と半魚人との恋愛を描いた映画『シェイプ・オブ・ウォーター』だった。さらに本作は、監督賞、美術賞、音楽賞と、合わせて4部門でオスカーを獲得し、広く世にその存在が知らしめられる作品となった。


参考:第90回アカデミー賞『シェイプ・オブ・ウォーター』が4冠! デル・トロら熱いスピーチを披露


 ホラー映画の受賞実績が少ないアカデミー賞において、半魚人が出てくる映画が、最も注目を浴びる作品賞に選ばれたというのは、驚くべきことである。なにせ、体中がウロコで覆われ、手には水かきがあり、不気味な顔をした、あの半魚人の恋愛を描いた作品なのだ。下手をすれば「ふざけてるのか」と思われかねない題材だ。ここでは、この作品がアカデミー賞作品に選ばれた理由を考えるとともに、その真価について深く考察していきたい。


 映画の黎明期、「映画の発明者」と呼ばれるリュミエール兄弟の作品のなかに、言葉を失うようなショッキングなものがあった。『寺院の前で小銭を拾う安南の子供たち』と題されたその1分ほどの、ドキュメンタリーとみられる短編は、着飾った裕福な白人女性たちが、ベトナムの寺院の前で小銭をばらまいている姿を収めている。地べたを這い回ってその小銭を拾うのは、現地の孤児院の子どもたちである。あたかも、鳩や鯉にエサをやって楽しむように、女性たちは彼らに施しを与えている。


 寄付をすること自体は尊い行為であるにも関わらず、そこに我慢のならない醜悪さを感じてしまうのは、わざわざばらまいて拾わせることで、彼女たちがベトナムの貧しい子どもたちを、同じ人間だと認めていないという意識が透けて見えてしまっているからだと思える。そして、西洋の植民地主義的で傲慢な価値観によって、東洋の人々が屈服させられる姿に嫌悪を感じるためであろう。


 『シェイプ・オブ・ウォーター』が描くのも、このような傲慢な価値観によって踏みつけられる人々の物語である。サリー・ホーキンスが演じる、本作の主人公イライザは、声を発することのできない女性だ。彼女は映画館の真上の部屋に住み、研究機関の施設で清掃の仕事をしている。同僚のゼルダ(オクタヴィア・スペンサー)は、夫の無関心に悩むアフリカ系の女性であり、イライザの隣の部屋に住む画家ジャイルズ(リチャード・ジェンキンス)は同性愛者という設定になっている。


 彼らは、物語の舞台となる1962年のアメリカ社会において、いろいろな意味で「マイノリティ(少数者)」だとされる存在である。そしてそこには、アマゾンで捕獲され連れてこられた“外国人”である半魚人や、研究所に潜伏した冷戦下のソ連人スパイも含まれる。社会のなかで異端的な扱いを受ける、孤独な存在であるイライザと半魚人は研究所で出会い、人知れず交流を重ね、その物語はロマンスへと発展していく。


 現在のアメリカだとしても、これらの人々は差別にさらされるおそれがあるが、人種を隔離する悪名高い政策「ジム・クロウ法」がまだはびこっていた当時のような社会においては、なおさらのことである。彼らはそれぞれに抑圧され生きにくさを感じながらも、TVから流れるタップダンスに胸をときめかせたり、美男子の働くパイのチェーン店に通ったり、ゆで卵を味わうなど、小さな幸せを見つけながら日々を生き続けていた。


 ジャイルズが仕事として製作する、デザートのゼリーを見て喜ぶ“幸せな家族”の広告が象徴するように、この時代の“幸せのかたち”とは、大きなマイホーム、高級な車、パパ、ママ、子どもたちの満面の笑顔という画一的イメージであった。マイケル・シャノンが演じる、本作の重要なキャラクターとなるストリックランドは、まさにこの絵に描かれた家庭を手に入れた男として描かれる。TV-CMに登場するようなマイホームの居間をはじめ、最新型の車、家事にいそしむ美しい妻など、そこには“成功した男のトロフィー”がかき集められている。


 だがストリックランドは、理想的なマイホームパパのイメージとはかけ離れた残忍さを持った男だった。彼は研究所の警備責任者の地位を利用し、アマゾンで捕獲された半魚人を拷問器具で虐待していた。それだけでなく、アフリカ系のゼルダには人種差別的な言動をぶつけ、しゃべることのできないイライザにはセクハラを行い、自分の妻に対しても一方的で乱暴な性行為をしていた。


 ストリックランドはイライザに、「お前は“そそる”ものがあるな」と性的な行為を強要しようとする。彼がイライザに情欲をかきたてられるのは、彼女が声を出して意思表示をすることができない女性だと思い、支配欲が満たせると感じたためだろう。だがその意に反して、イライザが手話で反抗的な態度を示すと激昂する。支配欲と優越感が彼の生き甲斐であり、快感なのだ。イライザやゼルダ、そして半魚人を傷つけるストリックランドという男を通して映し出されるのは、保守的で傲慢な価値観によって、あらゆる少数者や、従来のモデルから外れた者を抑圧する社会の姿なのだ。


 だが彼は逆に、自分が信じる価値観そのものによって苦しめられることになる。仕事が脅かされ、いまの生活が維持できなくなるおそれが出てくると、ストリックランドは権威を失ってしまう恐怖におびえ出す。それは、多数派の価値観を信じて生きている者自身も、イメージに振り回され苦しめられるということを示している。


 そんなストリックランドに虐待される半魚人に同情していたイライザは、その純粋で傷ついた心に触れることで、次第に恋愛感情を抱いていくことになる。幾分かのホラー要素を含む、劇中で描かれる恋愛表現は、クラシカルかつロマンティックなタッチで演出され、『カサブランカ』のような、ハリウッド娯楽映画の基本形となるメロドラマに接近する。その意味では本作が、賞の審査をするアカデミー会員たちの多数に支持されたのも納得できるような、分かりやすい楽しみ方を持つ作品でもある。


 とりわけよく出来ているのは、水を使った演出である。蛇口から水を出し続け、バスルームが水に満たされながらイライザと半魚人が包容し合う幻想的なシーンは、それが常識的で保守的な観点から見て、不道徳だったり奇妙で異様だったとしても、愛に満ちた幸せなシーンなのだ。イライザが出勤する際に乗るバスの車窓に付着した雨の水滴同士がランデヴーして結びつく、きわめて個人的な視点で描かれる場面からも、そのことがひしひしと伝わってくる。


 『シェイプ・オブ・ウォーター』とは、「水の形」という意味だ。本来、水には形というものがない。水は、器の形によってどのようなものにも順応して変化することができる。それは本来、生物や人種、性別の多様的な価値観に対応することができる“普遍的な愛”の象徴となっている。“愛”は、社会の決まり事よりも根源的で柔軟な概念なのだと、本作は語っている。


 その愛は、『ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー』や『パシフィック・リム』などの作品で、怪獣映画やロボットアニメ、クリーチャーなどへの想いを爆発させたギレルモ・デル・トロ監督の、それらへの深い愛情とも繋がっている。本作の特殊メイクによる半魚人の造形の異常なほどの見事さからも、そのことが理解できるはずだ。一部の人にとっては、怪獣や化け物が好きだという気持ちは理解できないだろうし、場合によっては気持ち悪がることもあるだろう。しかし、少なくともある種の人間にとって、そのような虚構や妄想の世界を楽しむ行為は、厳しい現実を生き抜くうえで必要なことなのだ。半魚人が映画館に逃げ込んでスクリーンを見つめるシーンは、ギレルモ・デル・トロ監督自身の姿であるだろうし、映画を含めた創作物に救われた経験のある、我々一人ひとりの姿でもある。


 本作に最も大きな影響を与えたのは、半魚人映画の代表的なタイトルである『大アマゾンの半魚人』(1954年)だと考えられる。アマゾンの奥地にやって来たグラマーな美女に目を付け、入江に引き込んで自分のものにしようとする半魚人と人間の戦いが描かれる。本作にも、半魚人が女性を水の中へ引き込む同様のシーンがあるが、その行為の意味を全く反転させているところが面白い。


 本作は、『大アマゾンの半魚人』にリスペクトを払いながらも、そこで行われる「アマゾン化け物退治」という植民地主義的ともとらえられるストーリーを、より現代的なものとして再構成している。虐げられる未知の生物を、既存の価値観の外部にある少数的存在だととらえ、個人の視点から社会の問題を見つめることで、外部的な存在を抑圧し支配しようとする社会の保守的な傲慢さを暴いている。そして、個人それぞれの多様な生き方を認めることが、人間全体の幸せにつながるということを示したのだ。


 トランプ大統領による差別的発言や政策、ハーヴェイ・ワインスタインによる性的暴行事件などが大きな問題となり、多様性が最も大きなトピックとなっているアメリカ映画界にとっても、本作の取り組みはきわめて重要なものとして映ったはずである。(小野寺系)