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大衆娯楽としての魅力だけではない? 『空海―KU-KAI―』で描かれたチェン・カイコーの核

2018年03月02日 18:02  リアルサウンド

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 日本と中国映画界の一大プロジェクトとなった『空海―KU-KAI― 美しき王妃の謎』。『陰陽師』シリーズの作家・夢枕獏の小説『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』を原作に、両国の豪華俳優陣が集結し、世界的巨匠・陳凱歌(チェン・カイコー)監督と、中国の一流スタッフによって撮りあげられ、絢爛豪華な美術とCGが駆使された、きらびやかな超大作である。


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 同じ夢枕獏原作の日本映画『陰陽師』が、平安時代に陰陽道の不思議な術を自在に操ったといわれる安倍晴明を主人公としたミステリー作品であったように、本作も、平安時代の実在の僧であり、中国(唐)に渡って日本へ真言密教をもたらし、真言宗の開祖となった弘法大師こと“空海”を、謎解きミステリーのフォーマットのなかに落とし込んでいる。


 同様に映画化された『薔薇の名前』や『ダ・ヴィンチ・コード』などとも同様、明晰な頭脳を持った素人探偵が殺人事件を解決するような物語は、洋の東西を問わず楽しまれ続けている。日本のTVにおける「2時間サスペンス」も、安定の視聴率や人気を誇るジャンルだ。そのなかでも定番は、名探偵シャーロック・ホームズとワトソン博士のように、探偵と助手の役割をする2人組が、欲望や哀切が渦巻くドラマが背景に存在する殺人事件を、第三者として解決するというものだが、本作『空海―KU-KAI― 美しき王妃の謎』は、空海(染谷将太)と歴史的詩人・白楽天(黄軒 ホアン・シュアン)が探偵と助手になる、まさに典型的なパターンにあてはまる大衆性を持った映画だといえるだろう。そこに『陰陽師』にも近い“幻術”や幽霊話などの非現実的要素が組み込まれることで、ファンタジー作品としての魅力が追加されているのだ。


 空海を演じる染谷将太の“半眼微笑”の表情は、この世とあの世の間に存在しているような一種の不気味さを感じさせて印象深い。それは、死線を乗り越え唐にたどり着いた経験からきているということが劇中で示されるが、そのヒーロー像は、人々を救う慈悲の心を持った仏をイメージした、東洋的な価値観に裏付けられている。そして白楽天は、“詩仙”と呼ばれる中国史上最高の詩人・李白の仕事に追いつこうと、漢詩『長恨歌』の完成のためにもがき、名を後世に伝えようとする情熱的な人物として描かれる。果てしない理想を持っているという点で、人の救済と悟りを目指す「仏教」と、芸術の道を追求し、現在を永遠のものにしようとする「詩歌」。分野は違えど、二人はその志の高さから魂の同士のような関係として同調し、深い友情が結ばれる。このあたりが非常にアツい。


 化け猫が長安の人々を次々に殺害していく本作の殺人ミステリーは、『長恨歌』によって描かれた、空海が唐に渡る30年前の時代の、玄宗皇帝と楊貴妃の悲しい運命が背景にあった。証言や証拠を集め、過去の謎を解き明かすことで、空海と白楽天は化け猫事件の真相へと迫っていく。それだけに会話シーンが多くなってしまう本作は、凡庸な監督が映像化してしまえば退屈な作品になってしまうだろう。だが、大規模セットの建設によって表現された長安の街の迫力や、化け猫による地獄のような殺戮シーン、そして贅の限りを尽くした、皇帝の宴を彩る幻術サーカスなど、本作はきわめて“映像的”な作品となっている。そのめくるめく世界は、中国を代表する作家・魯迅の『故事新編』のなかの傑作短編『鋳剣(剣を鍛える話)』を想起させる眩惑感覚と、アヴァンギャルドな実験精神をも感じられ、最大の見どころとなっている。


 陳凱歌監督は、同世代の中国人監督・張芸謀(チャン・イーモウ)監督と並び、中国の映画監督として頂点を極めた監督である。その才能は凄まじく、『黄色い大地』や『さらば、わが愛/覇王別姫』のような芸術性の高い作品や、『始皇帝暗殺』などの娯楽大作にまで及ぶ。それだけに本作はその中でいうと最大規模の娯楽作にあたり、今回は楽しみ方が限定された職人的な仕事にとどまっている部分も多い。それはあたかも、本作劇中の豪華絢爛酒池肉林の宴に出席し、皇帝に命じられるまま詩を詠んだ天才詩人・李白の姿にも重なる。しかし、本作がただ大衆娯楽としての魅力だけで作られた作品かというと、それだけではないように思える。李白のように義務として行った仕事が後世に残るのは、劇中でも描かれた通り、根底から湧き上がる“何か”があるからである。


 1952年生まれの陳凱歌監督が、若い頃に文化大革命の時代の体験を記した『私の紅衛兵時代 ある映画監督の青春』という書籍がある。このとき中国では、“革命的でない”とされた旧文化は否定され、知識人は弾圧された。その混乱の中で自殺か他殺か分からないような死亡事件がたくさん起きたと、陳凱歌は振り返る。


 青年期に陳凱歌は「生産隊」として辺境に送られ、肉体労働に従事していた。そこには都会から来た同じ年代の女学生たちもいたが、その中の一人の女子学生が、医師によって「発狂している」と診断されたという。それは、彼女のベッドの下から、指導者である毛沢東主席の顔を黒塗りにした写真が発見されたからだ。だがその理由は明白で、彼女は「毛主席はお父さんを農村の収容所へ放り込んだ。だから、主席が憎い」と語った。政治的だがまともな言い分である。しかし彼女は公安局から強制労働の刑を言い渡され、狂った人物として藁ぶき屋根の掘っ立小屋に一人で住まわされ、学生たちから忘れ去られていった。


 楊貴妃は、国を滅ぼした“傾国の美女”とされ、人々の怨嗟を買うことで殺された。そのエピソードから、悪女だというイメージも持たれることもある。しかし本作は、楊貴妃を時代や政治の犠牲になった一人の女性として描いている。指導者が大きな権力を持ち、それを維持しつづけるには、ときに犠牲になり、悪と決めつけられる人々も生まれるのだ。


 陳凱歌が原作から引き継ぎ、本作で扱っているテーマは、唐の時代の物語の中だけには収まらず、文化大革命の時代の物語にも収まらない。過去、現在、未来、世界中の地域に通用する、権力によって人の心がつぶされていく普遍的なシステムの描写だ。それが混迷の時代を生きた陳凱歌監督の、映画作家としての核となっているように感じられる。本作で一羽の鳥が羽ばたいていくシーンが胸の奥にまで迫るのは、全ての人間が解放されるべき暴力や抑圧の表現に、深い実感が込められているからである。(小野寺系)