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ジム・ジャームッシュの到達点となった『パターソン』、その深いテーマを徹底考察

2018年02月28日 10:02  リアルサウンド

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 『ストレンジャー・ザン・パラダイス』や『ダウン・バイ・ロー』、永瀬正敏と工藤夕貴が主演した『ミステリー・トレイン』など、ある時期、日本でも映画ファンを中心にブームを起こしたジム・ジャームッシュ監督作品。ここにきて彼のいままでの到達点といえる映画が撮られてしまった。人知れず詩を作り続ける人物の日常を丹念に描いていく不思議な味わいの作品『パターソン』である。来る3月7日、Blu-ray&DVDがリリースされるタイミングに合わせ、あらためてこの作品を振り返っていこう。


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 本作では、その人物の平凡な一週間がユーモラスに切り取られている。「癒される」、「穏やかだ」、「ずっとこの世界に浸っていたい」…そういった感想が多く聞かれるように、いかにも映画作品というようなドラマチックな事件が起こるわけでなく、平凡な日々の出来事がゆったりと描写されていく。そこに豊かな時間の流れを感じて幸せな気分になれるというのが、本作の一つの見方となっていることは確かだ。だがこの記事では『パターソン』の主人公の切実な内面にさらに迫っていくことで、本作で示された「詩作とは何か、ものづくりとは何か」という深いテーマを掘り下げていきたい。


■生活者パターソンが綴る愛の詩


 新しい『スター・ウォーズ』シリーズの悪役カイロ・レンや、『沈黙‐サイレンス‐』で神父を演じて話題を集めたアダム・ドライバーが演じているのが、アメリカのニュージャージー州に実在する都市パターソンに住む、“パターソン”という人物だ。彼は市バスを運転するバスドライバーである。アダム・ドライバーがドライバーとしてパターソン市のパターソン氏を演じている…。言葉あそびのような奇妙なユーモアが示しているように、作品全体にはなんとなくとぼけた雰囲気が漂っている。それもそのはずで、本作の設定や登場人物、セリフなどは、劇中でも登場するウィリアム・カーロス・ウィリアムズの『パターソン』という詩集からいくつも引用されているのだ。ゆえに、作品に登場するいろいろな要素一つひとつが象徴的な存在として機能しようとする。


 バス発着場への通勤や、バスに乗って勤務している間、パターソンの意識は詩の世界にある。そして待機時間に車中で、または昼休みにパターソン市の象徴である滝・グレートフォールズを眺めながら、ごく短い時間、しかし毎日毎日、「秘密のノート」に言葉を綴っていく。リズムをあまり重視しない散文的なスタイルで、「マッチ箱」や「胎児」、「バスの運転席から見た景色」のような小さなスケールの世界を、彼は文字に変えてゆくことに没頭する。


 そのような表現を通して、詩で描かれるテーマは、彼の妻ローラへの愛情だ。イラン出身の俳優ゴルシフテ・ファラハニが演じるローラは、自宅のカーテンを奇抜にデザインしたり、特異な創作料理を作るなど、生活のなかにありったけのクリエイティビティを注ぎ込む風変わりな女性である。彼女がパターソンのために用意してくれたランチボックスを開くと、パンの他に、サインペンで目玉のような模様がびっしり描き込まれた果物や、小さな花が添えられた、イタリアの詩人ダンテのポストカードが入っていたりする。パターソンは、そんな彼女の行動を楽しみ、ときに戸惑いを覚えながらも、否定的な素振りは見せないようにしているらしい。それは感情を面に出さない彼の性格が幸いしてもいるが、何よりも彼女に深い愛情を抱いているからだということが、詩の内容から理解できるのだ。


■日常に隠れた“知られざる芸術家”たち


 バスを運転し、妻と語らい、飼い犬のブルドッグを散歩させ、バーでビールを飲む…パターソンはこのように単調といえる毎日の繰り返しの合間に、詩作に打ち込み続けている。だがスマートフォンやPCを持たない彼は、ブログやSNSでそれを発表することもなく、もちろん出版社に足を運ぶことなどもしていない。ローラは説得を続け、秘密のノートのコピーを作ることだけを了承させるが、彼は自作の詩を作品として世に発表することには、どうも消極的らしい。それも仕方が無いと思えるのは、何の実績もない人物の詩が売れるかというと、現実的には難しいからだ。楽天的なローラが考えるようには、ものごとはうまくいかないはずである。


 パターソンは一週間の間に、何人もの自分のような“生活者としての詩人”に出くわすことになる。永瀬正敏が演じる謎の日本人、エミリー・ディキンソンを敬愛する可憐な少女、ヒップホップグループ、ウータン・クランのメンバーであるメソッドマンが演じる、ラップを口ずさむ男…。


 ドイツの作家トーマス・マンは、自国の偉大な詩人・ゲーテを、“市民性”を持った詩人だと評する。イギリスのバイロンのような、貴族の位にあった詩人に比べ、裕福な家柄ながら一般の市民の出身だったゲーテは、卑俗な部分を含めて、よりいきいきとした自由な詩作に取り組むことができたという。貴族の時代から市民の時代へ。日本でも、古くから貴族のたしなみであった「和歌」を庶民がたしなみ、「俳句」という町人の間で発達した文化がいまに残っているように、詩作が市民のものになってゆくというのは、歴史的必然である。そのなかで、最も自由でいきいきとした表現ができるのは、まさにパターソンや、彼が出会う詩人たちのような人々なのかもしれない。


■詩人の魂を追い求める物語


 生活者として詩を作り続けるパターソンの姿から想起させられるのが、作家ヘルマン・ヘッセの小説『クヌルプ』である。この作品は、初恋の相手をいつまでも忘れられずに旅職人となり、さすらい続けるクヌルプという男の流浪の人生を描いたものだ。そして彼は「生活の芸術家」として、行く先々の人々の心を照らしていき、ついには心の平安へとたどり着く。


 世の中には、「何かを生み出さなくてはならない、表現しなくてはならない」という想いを抱く種類の人間が存在する。そういう人は、自分の内面を何かのかたちで吐き出したいという衝動に、常に誘惑されているのだ。パターソンとローラが共通し、結びついているのはその部分である。そして、クヌルプの芸術の魂がひとりの女性への愛情にあるように、パターソン夫妻もお互いへの愛情が根底にある。


 前述したように、本作では詩人ダンテの肖像がポストカードというかたちで画面に現れる。ダンテといえば何より、叙事詩『神曲』が代表作である。その内容は、まさにこのような構図を描いているのだ。


 『神曲』は、魂の救済を求めて深い森をさまよい歩く詩人ダンテが主人公だ。彼は古代ローマの偉大な詩人・ウェルギリウスに導かれ、地獄、煉獄、天国と、この世ならぬ世界を巡っていく。その過程でダンテは、古い時代の詩人や歴史的な人物と出会うことになる。そしてダンテの最愛といわれる女性の名を持つベアトリーチェという、至高の愛の象徴へとたどり着く。


 『パターソン』は、平凡な人物の一週間を描く物語であるが、一方でそれは、詩人の魂を追い求める、『クヌルプ』や『神曲』のように孤独な精神の旅を描いている。そして7日の間に、パターソンのなかで詩を作ることと人生を生きるということが調和し、和解を迎えるのだ。


■ジャームッシュの到達点となった『パターソン』


 ジム・ジャームッシュ監督はハリウッド映画の常識から逸脱し、そのゆったりしたテンポと反復表現、またユーモラスなコミック風表現など、日本映画でも異端と言える作風の小津安二郎監督、鈴木清順監督の作風に共鳴し、作中でパロディー表現をすることも多い。西部劇『デッドマン』や、殺し屋を題材にした『ゴースト・ドッグ』や『リミッツ・オブ・コントロール』のような作品では、あえてアメリカ的なジャンル映画に取り組みながら、そこにアメリカ的価値観とは反発するような独自の作風をぶつけてきた。そこに一種のユーモアやダイナミズムが発生していたというのも確かだ。


 そのなかで本作『パターソン』は、地味な題材ながらジャームッシュ監督の作風にぴったりと沿ったものとなっているように感じられる。つまり、本来は商業的なものではないジャームッシュの作家性とは、散文的な詩作そのものに近いものだったということであろう。だから本作では、描こうとするテーマと手法が同期し、とくに充実した時間が流れているように感じられる傑作になっているのである。パターソン氏が劇中で一つの境地にたどり着いたように、ジャームッシュ監督自身もまた、本作で映画作りにおける達成を遂げているのだ。(小野寺系)