トップへ

ロックと宗教の関係を読む『ジョン・レノンは、なぜ神を信じなかったのか』

2018年02月27日 11:31  CINRA.NET

CINRA.NET

島田裕巳『ジョン・レノンは、なぜ神を信じなかったのか ロックとキリスト教』イースト新書 表紙
■「ロックとキリスト教」を軽快に解説
新書『ジョン・レノンは、なぜ神を信じなかったのか ロックとキリスト教』が先日刊行された。著者は宗教学者で作家の島田裕巳。どんな本なのか。紹介していこう。

副題にあるように、本書は「ロックと宗教」の関係を説いたもの。3組のミュージシャンを中心に取り上げている。エルヴィス・プレスリー、ボブ・ディラン、The Beatles。著者は彼らの幼少期の宗教環境、信仰に関する発言、ゴスペルやキリスト教との関係を示すエピソード、さらに歌詞の宗教的な解釈を、手短に、しかし大量に放出していく。

面白いのは、著者が対象を「キリスト教の影響下にあり」もしくは「影響なし」と切り分ける際の、案外あっさりとした「サクサク感」だ。まるで熟練した鑑定士の手際の良い真贋判定を、間近で見学しているような爽快感がある。挙げられるエピソードは音楽ファンに知られたものも多いが、「宗教」というフィルターを通して眺めると改めて味わい深い。

■ゴスペル愛の権化プレスリー
幼少期から教会に通い、ゴスペルに親しんでいたエルヴィス・プレスリー。印象的なエピソードが詰め込まれている。引用したい。

<(前略)エルヴィスは、ステージが終わったあとに、ゴスペル・グループのメンバーをホテルの自分の部屋に呼び、夜を徹してゴスペルを歌った。そうした部屋には、有名人が多数つめかけていたが、エルヴィスは彼らにもゴスペルを聴くように促した。メンバーたちは、異口同音に、エルヴィスに誘われたら断ることはできず、とくに公演の最終日には、朝まで延々とゴスペルを歌い続けたと証言している。
(島田裕巳『ジョン・レノンは、なぜ神を信じなかったのか ロックとキリスト教』イースト新書 62ページより)>

「精神的に困っている人間がいると、一緒に聖書を読んで」悩みを解決しようとしたというプレスリーには、聖人の奇跡を思わせるようなエピソードもある。とあるゴスペルグループのメンバーが、ガンに冒されたという診断を受けた際の逸話だ。メンバーたちは悲嘆に暮れていた。

<そこにエルヴィスが現れ、話を聞き、彼はみんなで祈ろうと言い出した。そのときエルヴィスは、ガンがあるとされたシルヴィアのお腹に手を当てて祈ったという。翌朝、シルヴィアが病院で診察してもらうと、ガンは跡形もなく消えていた。
(島田裕巳『ジョン・レノンは、なぜ神を信じなかったのか ロックとキリスト教』イースト新書 62ページより)>

ことの真相は定かではないが、彼を取り巻く環境が信仰と強く結びついていたことは間違いないと納得させられる。著者は「エルヴィスが本当に歌いたかったものは、ロックンロールではなく、ゴスペルだったのである」と断じている。

■理解し難い男、ボブ・ディランの改宗
ボブ・ディランの項目は、ユダヤ教からキリスト教への改宗の話が中心。著者は1979年から1981年頃にかけてのいわゆる「ゴスペル期」以前のディランの楽曲に、宗教色がまったく見られないと主張する。1963年発表のアルバム『The Freewheelin' Bob Dylan』については「キリスト教の信仰にかかわるような曲はいっさいない」とし、続く『時代は変る』収録曲“神が味方”についても、「神を讃える意図を持つゴスペルとはまるで性格が違う」と切り捨てている。しかし著者は、かすかな改宗への兆候を歌詞から読み取ろうと努めている。

キリスト教への改宗時には熱心に教会の信徒学級に通っていたというボブ・ディランだが、わずか数年でユダヤ教に回帰したとされる。諸説あるものの、改宗と回帰の理由は不明。現在の信仰も不明である。本書でも明確にされていない。音楽評論家のジム・ファーバーは「Newsweek」で、「ディランとは、理解し難い存在だ――私たちはそう認めるべきだったのだろう」となかば匙を投げている。(参考記事:ボブ・ディランの「黒歴史」に新たな光を | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト)

■死後も許されなかった、ジョン・レノンの発言
英国国教会の制度的な権力が強く、キリスト教への信仰心が育たなかったとされるThe Beatlesの項目では、「キリスト教の影響なし」の判定がやや多い。楽曲について著者は、「宗教や信仰との結びつきを見出すことができない曲ばかりである。その点で、ビートルズの曲の世界は信仰とは無縁であり、まったく世俗的なのである」と嘆くかのように綴る。

それでも著者はあきらめない。プレスリーとの会見や、当時は社会運動に積極的に関わっていたディランとの邂逅といったエピソード、死後28年間もバチカンから赦されなかったジョン・レノンの発言、「僕らはいまやイエスより人気がある」などを紹介しながら、楽曲の歌詞から「キリスト教的かもしれない」言葉の断片を拾い上げる。そしてジョンの原宗教的でスピリチュアルな志向、ジョージ・ハリスンのインド宗教への接近など、その宗教観のありようを追跡していく。

■洋楽の「もやもや」に輪郭を
3組のほかにも、ミュージシャンと宗教とのかかわりがいくつか紹介されている。人気絶頂期に突然牧師となったリトル・リチャードをはじめ、Peter, Paul and Mary、Rolling Stones、Sting、エリック・クラプトン、アリス・クーパーなど。それぞれ短い挿話ではあるが、宗教という軸に沿って並べられるとなかなか壮観だ。

表題にある「ジョン・レノンは、なぜ神を信じなかったのか」は、ジョンの楽曲“God”の歌詞から取られたものだが、では、その答えが本書から得られるか。または、「堕落した生活に疲弊したアメリカのポップスターが、改心してキリスト教への信仰に目覚める」といった本書で差し出されるストーリーが、著者の言うように「必然的」であるか。その判断は読者に委ねたい。

しかし結論はそれほど重要ではない。ロックの「正史」に宗教の立場から光を当て、まとめあげ、新たな視点を提供すること。それが本書の担うべき役割だろう。一歩踏み込めば、プレスリー、ディラン、ジョン・レノンといったポップアイコンたちの多義性、彼らが抱えていたアイデンティティーの多様性を読み解く鍵にもなる。現代の欧米、さらに日本にまで視野を広げれば、新たなポップミュージックの見取り図を描くきっかけになるはずだ。そしてもし読者が、異なる文化背景から生まれた音楽を聴くにあたって、ミュージシャンたちの背景にあるはずの信仰を、理解の及ばない「もやもや」として感じているなら、ぜひ一読することをおすすめしたい。その「もやもや」に輪郭を与えてくれるのが本書の効能である。

■「クリスチャンロック」が気になる
余談になるが、個人的にもっと知りたかったのは、本書の「はじめに」と「おわりに」でおまけ程度に触れられている、「コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック(CCM)」および「クリスチャンロック」。日本では取り上げられる機会の少ないジャンルだが、アメリカ国内を中心に大きな市場規模を確保しているという。なんとクリスチャンパンク、クリスチャンハードコアといったサブジャンルも存在するのだ。(参考記事:福音派ロックとファルージャ総攻撃 - 映画評論家町山智浩アメリカ日記)こちらについても、いつか著者の手による解説を読んでみたいところだ。