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幻惑的な鏡の使い方が意味するものとは? 『ナチュラルウーマン』が描く、世界に存在する現実

2018年02月27日 10:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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 イグアスの滝の獰猛な流れが映し出される。このイグアスの滝の持つ力強さをそのまま体現したかのような人物が、本作『ナチュラルウーマン』の主人公マリーナ(ダニエラ・ヴェガ)である。滝の直下で岩に打ち付けられると水飛沫はやがて霧となり、マリーナの最愛の恋人オルランド(フランシスコ・レジェス)のいるサウナのミストへと姿を変えて接続する。しかし蜜月の日々を過ごす2人に突如、悲劇が襲う。オルランドが動脈瘤によって息を引き取り、マリーナは1人残されてしまうのだ。マリーナは、彼の家族や警察などから不当に疑われながらも、オルランドへの愛に導かれながら、差別や偏見に屈することなく前に進み続ける。


参考:他のトランスジェンダー映画と一線を画す? 『アバウト・レイ 16歳の決断』が描く“心の交流”


 2018年に入り、『アバウト・レイ 16歳の決断』(2015)が上映されたことがまだ記憶に新しいが、男性のトランスジェンダー役にエル・ファニングがキャスティングされると、なぜシスジェンダー(心と体の性別に違和感を感じない人)の役者が演じるのか抗議の声が上がった。本作が他のトランスジェンダー映画とまったく異なるのは、トランスジェンダーの役をトランスジェンダーであるダニエラ・ヴェガが演じているところにある。彼女の持つ身体性は、まさに「ナチュラル」なトランスジェンダーの身体性である。


 また、本作が素晴らしいのは、あらゆる映画へとつながる橋が、無数に架けられているところにある。イグアスの滝、そしてそこに行き着くことのできなかった恋人同士の物語という点では、ウォン・カーウァイの『ブエノスアイレス』(1997)が、オルランドという恋人の名前からは、性別を越境した人物を描いたヴァージニア・ウルフ原作の『オルランド』(1992)が、あるいはジェンダーを超えて自分らしく生きていくテーマとしては、同じくラテンアメリカを舞台にし、ドラァグ・クイーンとしての自我に目覚めていく少年を描いた『VIVA』(2015)などが想起される。


 オルランドの死後、マリーナが警察で身分証を提示する場面がある。ここで話されているのはあくまで名前の変更だが、実はチリのお隣の国アルゼンチンでは、2012年に医師の合意や性別適合手術の有無に関わらず法律上の性別を変更できることになった。世界的にトランスジェンダーの権利を守ろうと法律の整備が行われていっているのもひとつの事実だが、法制度の改正は人々の意識までもを急進的に変えることはできない。本作で描かれるマリーナに晒される厳しい差別や偏見の目もまた、世界に存在する現実である。


 ヴィヴァルディの『sposason disprezzata』をマリーナが唄いはじめると、映画の中でもっとも美しい瞬間が訪れる。監督がバスター・キートンなどのサイレント映画をイメージしたという、マリーナが向かい風の中を進んで行くシーンである。この向かい風はセクシュアル・マイノリティであるマリーナが受ける逆境そのものであり、その中を進んでいくマリーナの姿を描くことで、マリーナの人生がいかなるものであるのかを端的に物語っている。


 そしてもうひとつ特筆すべきなのは、本作における幻惑的な鏡の使い方だろう。過去のトランスジェンダー映画においても、鏡は重要なモチーフとして扱われてきた。たとえば、フランソワ・オゾンの『彼は秘密の女ともだち』(2014)は、妻を亡くし、母親役をするために女装をしたことがきっかけで女性性に目覚めていく人物ダヴィッドを描いているが、ダヴィッドが自宅で見つめる鏡には二面鏡が使われており、二分割に映し出される像がダヴィッドの女性性と男性性の揺らぎを表象していた。『リリーのすべて』(2015)では、エディ・レッドメイン演じるリリーが、自らの男性器を脚の間に挟むことで女性の身体を作り上げ、理想とする女性的な身体を全身鏡に投影することによって自己陶酔する場面があった。


 一方、『ナチュラルウーマン』では、脚の間に鏡を置くことによって性器の部分がマリーナ自身の顔になる。それは性器、つまり身体的形状そのものよりも、「顔」が比喩的に指し示すものである「アイデンティティ」そのものの方が重要であることを伝えているようである。また、マリーナをふいに写し出す街中で運ばれる大きな鏡は、彼女が周囲の人々に見られることに自覚的であることを示唆しているようである。


 オルランドが残した鍵の合う場所をようやく突きとめたマリーナは、その扉をそっと開ける。その中に何があったのか、映画はすべてを見せようとはしない。私たちは想像しなければいけない、その扉の中にあったものが何なのかを、彼女が虐げられることのない人生を、すべての人々が自分らしく生きることのできる世界を。(児玉美月)