最近は猫ブームだそうで、犬の飼育頭数に迫る勢いで猫が家族の一員として活躍している。
僕は子どもの頃から猫に限らず動物の絶えない生活を送っていたが、どんなにたくさんの猫と暮らしてきても、お別れのときには毎度悲しいやら苦しいやらで生きた心地もしなくなる。
今現在は3匹の猫に囲まれて暮らしているが、1日たりとも「いずれお別れが来るのかぁ」と悲観的にならなかった日などない。
昨今は衛生面、そして飼い猫の安全という観点から、終生室内飼いにする世帯も増えている。猫の気持ち的には外に散歩に出たいだろうが、個人的には賛成だ。
先日、国道の脇に水色の首輪をした猫が横たわっているのを見てしまった。ああいう最期になるぐらいなら、せめて安全な家の中で、不自由なく暮らしてもらいたいと思うが、これもまたエゴなんだろう。
さて本題である。今回は、はてな匿名ダイアリーに投稿された、ある男性の日記を紹介したい。(文:松本ミゾレ)
癌で闘病生活を送っていた愛猫、その最期の瞬間を夫婦で立ち会った記録
今月12日、「猫を看取った話」という投稿が寄せられた。この日記を書き込んだのは男性で、夫婦で猫を飼っていたそうだ。猫は癌に蝕まれており、闘病中であった。
日記の概要はこうだ。あるとき家に帰ると、昨日は玄関まで迎えに来てくれた猫が、ベッドの下で横たわり、男性の顔を見て力なく鳴いていた。抱きかかえると、既に体に力が入らず、ぐったりとした状態。このとき、16時頃。
彼は仕事でまだ家に戻っていない奥さんに「そろそろだよ」とLINEしたという。その後はソファで猫を抱きかかえ、ずっと撫でていたそうだ。18時過ぎ。猫の呼吸が荒くなった。
ほどなくして奥さんが帰ってくると、そのときには既に猫の鼓動は、人間ほどのペースになっていた。
猫の心音は平常時でも人間より早いため、この状況はいよいよ、ということになる。そして最期の瞬間は訪れる。
「その後、ふいに猫がぐぐーっと手足を伸ばしてあくびっぽい動きがあった。同じ体勢が疲れたのかなって思って、体の向きを変えてやると、もう全身に力が入っていなかった。瞼に手をかざしても無反応。腕を持ち上げても無反応。呼びかけても当然無反応。が、胸元に手をやるとまだ微かな鼓動があった。奥さんに『もう最期だよ』って話しかけたら、その時は鼓動が止まってた」
奥さんが家に戻って、ここまで15分。男性に抱きかかえられながら、猫はきっと奥さんの声を聞いて安心しながら天国に逝ったのだろう。
飼い猫が消えた家、日常が一気に元通りになるも、いつまでも生き続ける思い出
猫の鼓動が途絶えたのち、奥さんは「生活が変わるね」とつぶやいたそうだ。
男性自身も、朝型に顔をペロペロしてきたり、トイレに入ってこようとしたり、服を毛まみれにする猫がいなくなったことに触れている。
その上で、猫を気にした生活スタイルの脱却について言及しており、さらに「これからの生活でそのギャップに気付いたとき、奴の存在を思い出して悲しくなるんだろうな」と書き込んでいる。
いわゆるペットロスというものは、家族としてペットを迎え入れている人にとっては回避することはできない。どんなに願っても、大抵猫の方が先に逝く。残された者は、これがもう本当にたまらないのだ。
投稿自体は淡々としている印象を受けるが、きっとこの男性も自分に起きた飼い猫の最期という状況を整理するために必死なんだろう。愛情を注いだ家族がいなくなるというのは、これは大変なことである。
ましてこの日記の中の猫は、癌で闘病中だった。きっと最期にいたるまでには、かなりの心労が夫婦共にあったはずなのだ。それを思うと、他人事ながら泣けて泣けてしょうがない。
きっとこの夫婦は、今後しばらくは、布団に入るときに猫が先に潜ってやしないかと、つい気にしてしまうだろうし、歩くときも追いかけてくる猫を踏まないように摺り足で移動するはずだ。そしてどこかのタイミングで心の中で整理がついて、いつかは猫が来る前の生活スタイルに戻っていくんだろう。
そのときになってはじめてこの猫は、悲しみを濾過しきった素敵な思い出の中の、かけがえのない存在として、この夫婦の心を彩ってくれるに違いない。