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高橋洋は恐怖に魅せられ続けている 荻野洋一の『霊的ボリシェヴィキ』評

2018年02月17日 14:42  リアルサウンド

リアルサウンド

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 『霊的ボリシェヴィキ』などという人を喰ったタイトルをもつオカルト映画が、ロシア革命から100年も経過した2018年真冬の日本列島各地で当たり前のように上映されている事態がじつに痛快で、思わず笑みがこぼれてしまう。『霊的ボリシェヴィキ』ーーなんどもなんども発音してみたくなるこの愉しげな語呂だが、意味するところは正直申し上げてまったく分からない。映画それじたいを観ても、インタビューなどの関連文献に目を通しても、私のごく常識的な頭脳ではとうてい理解できない。しかしながら、タイトルが意味不明であることと映画が面白いという事実は、どうやら何の矛盾もないらしい。おそらく『霊的ボリシェヴィキ』というのは、本作の美称もしくは尊称なのだろうと思う。おそらくより的確で(ありきたりな)本題は作者側によってあらかじめ廃棄され、『霊的ボリシェヴィキ』という美称が一人歩きしたものと思われる。


 ボリシェヴィキとは、高校の歴史教科書レベルの浅はかな知識で言わせてもらうと、1917年の十月革命を先導したロシア民主労働党が左右に分裂し、暴力革命と少数精鋭による前衛主義を標榜した極左勢力を指す。授業では、穏健な右派であるメンシェヴィキとセットで覚えさせられた。共産主義とはかんたんに言えば、唯物論哲学の政治経済学的な変容形態であるから、唯物論的タームの上に「霊的」などという形容を冠するのは、荒唐無稽なふるまいだと言える。監督の高橋洋の発言によれば、この用語は左翼運動の退潮期たる1970年代後半に日本だけで唱えられたテーゼだとのことだ。


 この映画は、日本のどこかの廃工場でおこなわれた降霊術セミナーの一部始終を画面に収めている。場内には何本ものマイクが設置され、TEAC社のA-2300SXオープンリールデッキ上で、6mmテープがカサカサという微細なノイズを生じさせながら回っている。デジタル機器はこの霊的空間ではまったく役に立たないからであろう。セミナーの出席者は女性4名、男性4名。円形状にパイプ椅子に座って、ひとりひとり順番にみずからの霊的体験、超常体験を披露していく。そして突如として、霊媒師の女性・宮路(長宗我部陽子)が「歌いましょう」と提案し、一同起立。一糸乱れぬロシア語コーラスでアレクサンドル・アレクサンドロフ作曲「ボリシェヴィキ党歌」を歌い上げてみせ、見ているこちらは思わず笑ってしまった。廃工場の正面頭上には、レーニンとスターリン、2枚の遺影が物々しく掲げられ、私たちを睨みつけている。


 つい先ほどボリシェヴィキという語の上に「霊的」と冠するのは荒唐無稽なふるまいだと述べたばかりだが、それを一部撤回しなければならない。というのも、そもそも事の始まりから「幽霊」がいたからである。マルクス=エンゲルス『共産党宣言』(1848)のあの有名な最初の一行を思い出していただきたい。「ヨーロッパに幽霊が出る。共産主義という幽霊が」という書き出しだったではないか。それは最初から「幽霊」だったのである。本作の劇場用パンフレットで畠山宗明(映画研究・表象文化論)は、「ソ連の唯物論は心的なものや霊的なものを排除したわけでない。むしろ、それを含みこんだ唯物論になろうとしたのである」と明瞭に述べている。「ボリシェヴィキは、暴力に至るまでの無慈悲で過剰な唯物論において、まさに『霊的なもの=ロシア的なもの』の象徴であった。『霊的ボリシェヴィキ』が捉えようとするのは、ロシア革命の暴力性のみならず、オカルト的なものが唯物論的なものにおいて最も色濃く表れるという、ソ連において現実に生じたこの逆説なのである」。


 それでも私は本作のタイトル『霊的ボリシェヴィキ』が美称もしくは尊称であると主張したのと同様に、出演者一同の頭上に掲示されたレーニンとスターリンの遺影は、代表としての差し替えではないかとも考えている。真にここに掲げられるべきは、帝政ロシア末期あるいは革命期の神秘主義的、超人主義的イデオローグの巨人ゲオルギー・グルジエフ(1866-1949)ではないか。現代演劇の祖型的演出家ピーター・ブルックが監督した映画『注目すべき人々との出会い』(1979)の原作者であり主人公のグルジエフが、よりパロディアスな効果のあるレーニンとスターリンによって代置されたのではないか。高橋洋の述懐によれば、本作のシナリオ第1稿では、セミナー出席者の体験談に合わせて再現映像が差し込まれていく予定だったのだという。つまりオムニバス形式のオカルト映画の体裁だったということだが、現状の本作は再現映像もフラッシュバックも挿入されず、ひたすら語りの映画に徹している。つまりこれは「撮影された演劇空間」である。グルジエフ=ピーター・ブルック的空間が四角い画面に詰め直され、画面外から霊的なものを招喚しているのだ。


 高橋洋という映画作家は、無類のソ連好きとして知られている。より正しくはスターリン独裁の醸す恐怖に取り憑かれているように思える。社会主義経済の運営というよりも、独裁政治の抑圧恐怖にスポットが強烈に当たる。スターリニズムにマゾヒスティックに拘泥しているふしがある。つまりツァーリズム(イワン雷帝から脈々と受け継がれる絶対君主体制)の完成形としてのスターリニズムを。帝政ロシアの秘密警察「オフラーナ」の長官ピョートル・ラチコフスキーがどこかの反ユダヤ主義的な公文書偽造家に依頼してでっち上げさせたとおぼしき『ユダヤ賢者の議定書』(1902)はその後、アドルフ・ヒトラーにとってホロコーストの論拠となり、「史上最低の偽造文書」などと呼ばれている。近代の啓蒙思想も、フリーメイソンも、フランス革命も、バイエルン啓明結社も、マルクス主義経済学も、フロイト精神分析学も、すべてユダヤ人による世界征服の一貫にすぎないと解釈する狂信的な超反動思想がツァーリの足元で醸成されるが、ラチコフスキー長官の努力むなしく、ボリシェヴィキによってロシア革命が1917年に成功を収めてしまう。帝政ロシアの「オフラーナ」は、そのままボリシェヴィキのもとで「チェー・カー(ЧК)」そして「カー・ゲー・ベー(КГБ)」に移行・改組していく。『霊的ボリシェヴィキ』の作者・高橋洋が標榜するのは、ひょっとするとこのラチコフスキー傘下の公文書偽造部隊ではないだろうか?


 わずかなヒントをたぐり寄せるために、私は『霊的ボリシェヴィキ』のセミナー出席者男女の顰(ひそ)みに倣って、恐縮ながら極私的な体験のうちのひとつを披瀝したいと思う。というのも幼少期に私は一度死んだような気がしてならないのである。幼い私は近所の子どもたちと一緒に近郊の住宅街を歩いていた。背後からバイクが猛スピードで来て、私を轢いた。私は数メートルバイクのタイヤに引き摺られ、そのままバイクは何事もなかったかのごとく走り去る。友人たちが大声で抗議しながらバイクを一斉に追いかけてくれたが、バイクはかまわず消えてしまった。路上に倒れたまま、去りゆくバイクとそのバイクを追いかける子たちの双方をとらえたバックショットを、今でもまざまざと思い出す。その後、何ヶ月か何年かして私はその現場にいた友の一人に確認する意味で「あの時、ぼくはバイクに轢かれたよね」と質問した。すると友に「なんで大丈夫だったの?」と逆に聞き返されてしまった。謎である。バイクに轢かれたことは結局、友たちと私の暗黙の秘密事項となり、両親にさえ話せていない。ひき逃げ犯も当然捕まっていない。後年、ジャン・コクトー監督『オルフェ』(1949)を見た私は、死神の密使の乗るバイクが詩人セジェストを轢いて走り去るバックショットを見た瞬間、「ああ、これだったのか」と合点がいったのである。


 『霊的ボリシェヴィキ』はこの種の私的体験を怪談百物語のごとく集積させ、霊的な磁場を呼びこもうというのだ。そしてそれをカメラに収める映画製作行為も、それを劇場で上映する行為も、座席でそれに視線をむける鑑賞行為もすべてのプロセスが、この霊的な磁場に繋がっていないと証明することはだれにもできない。


 じつは私と高橋洋監督は大学の同窓で、所属する映画サークルも同じであった。といっても私が新入生の時にあちらは6年生か7年生(留年)で、すでに風貌も大学生離れしていたが。その高橋大先輩がガリ版印刷によるサークルの機関誌に書いていた事柄が、大学1年の時以来今でも頭から離れない。彼は、ドイツの著名な映画作家フリッツ・ラング(1890-1976)がなぜドイツからフランス、アメリカに亡命したかを書く。若き日のヒトラーとゲッベルスがミュンヘンのビアホールかどこかで『ニーベルンゲン』(1924)と『メトロポリス』(1927)を絶讃し、俺たちが政権を奪取したあかつきにはフリッツ・ラング監督を映画大臣に任命しようと盛り上がる。政権奪取は1933年に実現し、じっさいにゲッベルスは執務室にラングを招喚し、大臣ポストに就くよう要請。ユダヤ人の母をもつラングはその日のうちに荷物をまとめ、間一髪でフランスに亡命する。そのあたりの狂信と恐怖のいきさつを、高橋洋は現実に見てきたかのごとき筆致で活写していた。その筆致から見られたのは、独裁政治に対する恐怖とマゾヒスティックな恍惚だったであろうことは、当時まだ十代だった私にも明瞭に理解できることだった。


 ソ連好きが昂じたあまり、周囲から畏怖をもって「ヒロシヴィッチさん」とあだ名されていた高橋洋がサークルで作った8ミリ映画『夜は千の目を持つ』は、ドクトル・マブゼとナチズムの恐怖が1980年代の日本社会に胚胎する謎を描いていた。あれから多くの年月が経過したにもかかわらず、高橋洋は恐怖についての映画を作り続けている。なぜなら彼自身がその恐怖を、本作『霊的ボリシェヴィキ』のヒロイン・橘由紀子(韓英恵)と同様の「不治の病」として滞留させ、またその恐怖に魅せられ続けているからにほかならない。映画によって差し替えられ、再び映画によって追放されるべき外道である橘由紀子は、高橋洋の自画像である。(荻野洋一)