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物事の二面性と中間性を体現する『スリー・ビルボード』の衝撃

2018年02月13日 15:42  リアルサウンド

リアルサウンド

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 「なんだ、これは…」『スリー・ビルボード』を鑑賞中に、思わず何度もつぶやいてしまった。予想を裏切り続ける衝撃的な展開の連続に、この映画を観ている間じゅう呆気にとられるのだ。このように、多くの観客に新鮮な驚きを与え、アメリカ国内外で多数の賞を受賞し、アカデミー賞有力候補にもなった本作、『スリー・ビルボード』が与える衝撃がどこからくるのか、ここではその理由をできるだけ深く考察していきたい。


参考:菊地成孔の『スリー・ビルボード』評:脱ハリウッドとしての劇作。という系譜の最新作 「関係国の人間が描く合衆国」というスタイルは定着するか?


 物語の始まりは、むしろシンプルで地味過ぎるほどだ。アメリカ、ミズーリ州の田舎町で、自分の娘を何者かにむごたらしく殺害された女性ミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)が、進展を見せない地元警察の捜査に苛立ちを感じ、車が通る道に3枚の大きな広告看板(スリー・ビルボード)を出した。その内容は、事件を未だ解決できていない警察署長を名指しで批判するというものだった。そのウィロビー署長(ウディ・ハレルソン)は、ミルドレッドのもとに駆け付け、捜査はしっかりやっていると説明するが、彼女は聞き入れない。ウィロビーは町の人々に敬愛されており、看板を下げずに頑なな態度をとり続けるミルドレッドの立場は次第に悪くなってゆく。


 ある程度、映画のパターンに慣れていれば、この後の展開はなんとなく予想がつく。例えばこんな感じだ。孤立無援になったミルドレッドは、保守的な町の人々に迫害されながらも単独で事件を追っていく。その過程で、事件解決の障害となっていたのは地元警察の署長による汚職の隠ぺいだということも分かってくる。じつは悪人だった署長は、真相に迫ろうとする彼女を闇に葬るべく命を狙い始めるのだった…。


 だが本作は、そんなありきたりな物語ではなかった。悪役顔のウディ・ハレルソンが演じるウィロビー署長は、町の人々に慕われている通りの善良な人間で、手がかりをつかめないながらも、事件の捜査は真面目に行っていたのだ。つまりミルドレッドの怒りの矛先は、最初から間違った方に向いていたということになる。さらに物語が進むにつれ、彼女が“娘想いの善き母親”のような、誰もが共感できる人物像でないことも次第に分かってくる。ここで観客は、予想していた物語の梯子を外され戸惑うことになるのだ。


 もう一人、ウィロビー署長を尊敬するディクソン巡査(サム・ロックウェル)が重要な登場人物として出てくる。彼は短気で血の気が多く、人種差別主義者でもあった。署長の名を汚す看板に対して不快感を持っており、ある出来事をきっかけに、広告看板の業者に殴り込みをかける。妙なのは、ディクソン巡査の怒りがミルドレッドにではなく、看板を設置した業者に向くという点である。ここでもやはり矛先は見当違いの方へ向いている。


 この報復合戦は、発端となった事件をよそに、ことごとく意外な展開を呼び起こしていく。この不毛で枠にはまらない不思議な感覚は、やはりフランシス・マクドーマンドが主演し、アカデミー主演女優賞受賞作となったシュールな犯罪映画『ファーゴ』の内容に近いように感じられる。本作の監督と脚本を手がけたマーティン・マクドナーがマクドーマンドを主演に呼んだのは、本作を『ファーゴ』のような、型にはまらない映画にしたいと考えていた部分があったからだろう。マクドーマンドが演じるミルドレッドは、あたかも現実に存在するかのような、立体的な魅力を獲得している。


 マーティン・マクドナー監督は、イギリスやアメリカで劇作家として活躍し、高い評価を得ながら、自身の監督作の脚本をも書いてきた。その映画作品には、舞台劇を連想させる会話の応酬と、それによって社会の姿を象徴的に映し出す文学性を感じさせる。


 その意味では、例えば同じように劇作家で映画の脚本を書いたアーサー・ミラーを連想させるところがある。彼の脚本による、マリリン・モンロー、クラーク・ゲイブル主演の『荒馬と女』は、カウボーイ文化の寂しい終焉と、力を誇示してプライドを保とうとする男たち数名の姿を描くことで、アメリカにおける男性神話の虚飾を暴き出した映画だ。この主要登場人物がかたちづくる対立の構造は、作家が考えるアメリカ社会の縮図となっている。


 アイルランド系でイギリス出身のマクドナー監督にしてみると、アメリカは外部的な存在として、より客観的に捉えることのできる対象であろう。善良で素朴な面を持つが、一方で差別や偏見が根深くはびこっている。自国の軍がどこの国に戦争に行ったのかもよく分からないような、知性と外部への興味が欠如している人々もいる。感情や暴力にまかせ、事態を混乱させ悪化させていくという短慮。本作『スリー・ビルボード』が描く人間模様は、まさにアメリカ社会の姿を、ときに好意的に、大部分は辛辣な目で描いているといえる。


 日本の地方を舞台に、男女関係のもつれによるケンカから始まった報復合戦が、どんどんエスカレートして殺人にまで発展するという、実際の事件を基にしたといわれる、井筒和幸監督による『ヒーローショー』という映画があったが、当時の井筒監督は、「アメリカ同時多発テロ事件」や、その報復として始まったイラク戦争について多く発言しており、ここでは日本社会の暗部を通して暴力の連鎖というものを普遍化して描きながら、アメリカの暴力性をも告発しているように思える。本作も基本的には、このような構造になっているといえよう。


 同時に、本作『スリー・ビルボード』はコメディー映画でもある。監督作『ヒットマンズ・レクイエム』や『セブン・サイコパス』に共通するように、マクドナーは血みどろの暴力と狂気を、多分に皮肉を含んだ“英国的”ユーモアを持って描くという作家性を持っている。例えば『セブン・サイコパス』は、冒頭から過激な表現があるので、観客に暴力への心構えをする余裕が与えられるし、シリアスな状況や惨劇を、どんどん笑いに転換させていくという仕掛けになっていることも分かる。この作品は軽妙なタッチもあって、過激なコメディー描写が、そのままコメディーであると観客に伝わるように作られている。


 しかし『スリー・ビルボード』は、いかにも真面目な社会派の映画という雰囲気でスタートするのと、発端となる事件の悲劇性もあいまって、マーティン・マクドナーがいままでに暴力や狂気を含んだ過激なコメディーを撮ってきたという事情を知らなければ、本作がコメディー要素の強い作品であることに、すぐには気づけないようになっている。だから観客は、コメディーでしかあり得ないような、度を超えた過激表現に驚愕し、ふんだんに散りばめられたギャグに笑っていいのかどうか混乱させられ、心が激しく乱されることになる。そのギャグの性質も、今回は笑いを引き出そうとするものではなく、いつでもそこに深い悲劇性を纏わせ、何とも言えないバランスにとどめていることからも、監督は確信犯的に観客の心理を操ろうとしていることが分かる。高く評価すべきはその絶妙さであろう。これは、深刻な事件を不謹慎なコメディー表現を駆使しながら描いた、ベネット・ミラー監督の『フォックスキャッチャー』とも共通する試みである。


 分かりやすいカタルシスは与えられず、手放しで喜べるようなラストシーンも存在しない。だが現実とはそんなものである。人生はほとんどの場合、人類の歴史の途上より始まり、途上にて終わる。人間という存在自体にも、善い部分があり汚い部分がある。そしてこの映画は悲劇でもあり、コメディーでもある。本作が体現するのは、物事の二面性であり、中間性である。


 ある印象を強調しメッセージを伝えるために、作中の描写を一点に集約させるような、分かりやすい脚本の魅力というのも、もちろん存在するだろう。きれいに伏線を回収して物語を完結するという快感もあるだろう。だがそれを良しとして手法を先鋭化していくと、純粋な美しさはあるが、悪く言えば単色で無菌的な作品を目指すことにもなってしまう。ときに雑味こそが、全体を豊かな深い味わいに変えることがある。


 『スリー・ビルボード』は、ゆえに言語化するのが難しい作品である。だが、そういう割り切れない世界を見せ、言葉にできないような感情を与えることは、映画の大きな役割のひとつだと感じる。(小野寺系)