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松江哲明の『ロング,ロングバケーション』評:ただの“いい映画”ではない、風格と実験性

2018年02月11日 12:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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 ヘレン・ミレンとドナルド・サザーランドの共演、爽やかなポスタービジュアル……最初に受け取った情報だけで、“いい映画”なのは間違いないとは思いつつも、普段だったら手を伸ばさないタイプでした。でも、ただの“いい映画”ではまったくなくて、想像を遥かに超える素晴らしい作品でした。


 アルツハイマーを患った元文学教師の夫・ジョンと、末期ガンに侵されている妻のエラ。子供たちから入院の働きかけをされるも、夫婦ふたりで過ごすためにキャンピングカーに乗り、ルート1号線でアメリカ横断の旅へ……。


 全編を通して、主要登場人物はヘレン・ミレンとドナルド・サザーランドの夫婦ふたりだけ。演技達者なふたりだけに、その演技をカメラに焼き付けようと演出が過剰になってもおかしくなかったと思います。でも、パオロ・ヴィルズィ監督の演出は一切邪魔をしません。いかにふたりの間に気持ちのいい空気を作るか、そこに徹底している。登場人物が少なく、会話のシチュエーションもキャンピングカー内がほとんどという中で、下手な演出をするとダラダラと単調な作品になってもおかしくない題材。でも、本作はテンポがいい。


 そのテンポのよさを生み出しているのが、とにかくキレ味の鋭い編集です。老夫婦ふたりがどんな人生を歩んできたか、どんな人間なのか、過剰な説明を排除して、描き過ぎなくても伝わるだろうという作り手の自信が垣間見えます。名優ふたりの演技、監督の演出、そして編集と、まさに名人芸を観ている感じがありました。


 具体的に挙げるとシーンの中でオチまでいかずに、その寸前でパッと次のカットにいくのが実に気持ちいい。例えば、夜のキャンプ場でふたりが思い出の写真をスライドショーで眺めているシーン。2人が過去を振り返っていると、いつの間にかキャンプ場に居合わせた若者たちがそこに混ざっている。夫婦が声をかけるアクションを入れてその前後を見せるのではなく、自然と彼らもスライドショーに引き込まれたと分かるように、さりげなくそこにいるんです。それはこの映画を観ている観客と同じ視点なんですよね。


 ジョンはアルツハイマーが進行し、妻であるエラのことを忘れる瞬間があります。キャンピングカーに1人で乗り込み、彼女を置き去りにするシーンがありますが、ここの見せ方も非常に巧みです。エラが息子に電話をしていると、その窓の外でキャンピングカーがスッと移動していく。ここでカットを割らずに、ワンショットで見せているところが本作の根幹をなしています。認知症の夫が妻を置いて1人で出発する、妻は居合わせたライダーのバイクの後ろに乗せてもらい夫に追いつく、夫はバイクにまたがる妻に「何をやっているんだ」と声をかける、自分を置いていったことに妻は怒るーー。一連のシークエンスを脚本として読むと、喜劇の色合いを強く感じますが、本作はそうはなっていません。コミカルな音楽を流すわけでもなく、おばあちゃんがバイクにまたがり追いかける画の面白さを見せるでもなく、あくまでふたりが直面する“日常”を本作は捉えている。


 このシーンに象徴されるように、コメディにせずに抑制された演出を続けているからこそ、最後に2人が取る選択がとても利いてくるんです。旅の過程で、初恋の相手に嫉妬したり、思わぬ過去の浮気がバレたり、ドラマチックな演出ができるところも、サラッと話を進めている。映画の中では、夫婦の断面しか観ていないはずなのに、その断面から彼らがどんな人生を送ってきたのか、それが分かる。過去を説明するために回想シーンを入れるようなことはしません。ふたりの現在を見せるだけで積み重ねてきたであろう長い年月が伝わるのは、名優たちの演技力があるからこそ、です。


 本作で一番素晴らしいのは最後に訪れる“ラブシーン”です。物語の結末とも繋がるため、多くは語れないですが、本当にこのシーンには感動しました。『ターミネーター』のサラとカイルが結ばれるシーンや、ギャスパー・ノエ監督の『LOVE【3D】』、田中登監督の『(秘)色情めす市場』、大島渚監督の『愛のコリーダ』など、性表現を踏み越えていくラブシーンはこれまでも生み出されてきましたが、本作のラブシーンも素晴らしい。このシーンが感動的なのも、前述したように抑制された演出を徹底的に積み重ねてきたからこそ。観客の「あともう少し観たい」と思う部分をスッと引いていきながら、本当に重要なシーンをしっかりと見せる。だから、ものすごく際立つんです。こんなにも美しく、自然なラブシーンはそう、ないと思います。


 だからこそ、最後の2人の選択は素直に納得できるものでした。今の社会は誰もが意見を発することが容易になりましたが、多くの人に届きやすい言葉は過激になりがちです。その結果、社会が窮屈になってきたと感じる人も多いでしょう。僕は本作を観ながら、“老いる”ということは社会と距離を持つことなのかと考えました。突然姿を消した両親を心配して、子供たちは彼らに頻繁に電話をかけます。子供たちの言葉も行動も間違ったものではありません。しかし、社会的に正しいことが必ずしも幸せな生き方とは限らない。社会と距離を取って、自分の生き方を見つめ直すこと。本作を通して、それを教えてもらった気がします。


 社会との距離という点では、本作がアメリカ大統領選挙真っ只中の2016年夏に撮影された意味は非常に大きかったと思います。当然、脚本製作段階では予定されていたものではないでしょうし、現実を描かなくても成立した作品です。しかし、老夫婦2人が目の当たりにする日常として、あまりにもさり気なく、映画のなかに織り込んでいました。政治的な意味を持ち込ませるのでもなく、ジョンが患っているアルツハイマーの笑いの一コマとしてさらりと扱っているのです。


 劇映画を作っているのに、ドキュメンタリー的要素を入れすぎることになって、破綻してしまうケースもあるんです。でも、この作品は壊れない。なおかつ映画のテーマともずれていない。生きていくことは社会と密接に繋がることでもありますが、そこから距離を取り、一番身近な人のために生きること、本作のテーマを描く意味として、欠かせないシーンになっていたのではないでしょうか。


 先にも述べたように、本作はポスターや予告編で”いい映画”が強調されているので、映画に新しさを求める人にとっては、選択肢に入ってこないかもしれません。でも、本作は風格と実験性が詰まっています。騙されたと思って、劇場に足を運んでいただきたいです。きっと”いい映画”だけではない、発見があるはずです。(松江哲明)