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菊地成孔の『ゆれる人魚』評:懐かしの<カルト映画>リヴァイヴァルとしての『ゆれる人魚』

2018年02月10日 12:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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 「菊地成孔の欧米休憩タイム~アルヴェヴェットを使わない映画批評~」に次ぐ菊地成孔の映画批評連載は、タイトルにある通りこれまでと一転、あらゆる言語を使ったあらゆる国家の、ハリウッド級からギリ自主映画まで、それが映画であればシネコンから百人未満の上映会まで、百鬼夜行の獣道を徒手空拳、「結局、普通の映画評フォームなんじゃないの?」という当然の声も耳に指を突っ込んで突き進む驚異の新連載!


参考:菊地成孔の『スリー・ビルボード』評:脱ハリウッドとしての劇作。という系譜の最新作 「関係国の人間が描く合衆国」というスタイルは定着するか?


■覚えてますか? あなたはこの言葉を


 それとも今でも、メディアによってはぜんぜん死んではいないのだろうか?「カルト映画」。


 『スコピオ・ライジング』(63)から『ロッキー・ホラー・ショー』(75)から『不思議惑星キン・ザ・ザ』(86)まで、『HOUSE ハウス』(77)から『金田一耕助の冒険』(79)から『大日本人』まで(07)。と、どこから始まってどこまでで終わるのかさえ危なっかしい(ので、思いっきり適当に書いた)このジャンル。


 「今じゃ、下手くそな映画は単にカス映画であって、カルトなんて甘い査定ねえよ」「興収から賞レースの情報過多、インターネット上のあらゆる評価サイトの林立等によって、マーケットにカルトなんて曖昧な位置自体が消えてしまったのさ」「ここまでカルト教団(「カルト」映画は、「宗教カルト」という語からの転用)が暴れる時代に、もう言葉自体使えないでしょ」こう言った正論は全て正論である。現実問題として、1980年代までに隆盛を迎え、9/11同時多発テロぐらいまでは辛くも命脈を保っていた「カルト映画」、しかし、上記の正論のように、それは作品が消えたのではなく、置かれる場所と存在意義自体がなくなったのである。


 立ち位置も存在意義もないのに存在する存在、それは幽霊に他ならない。ネイティヴ・アメリカンを「未開の蛮族」の悪役としてバンバン殺しまくって良かった「西部劇」というジャンルが手を替え品を替え、継がれている、その遺伝子の強さに比べ、もともと生命力自体が脆弱な感のあった「カルト映画」は、幽霊化するしかなさそうだ。


■そして、ここに、幽霊ではなく「人魚」として蘇る


 20世紀末あたりから我々は、西欧や南欧は言うまでもなく、実は東欧や東洋に独特の優れたデザイン感覚、おしゃれ感(これも死語っぽいけれども)、可愛い感が存在する事を知っている。『プラハ!』(01)等に描かれる「ある時代(ソヴィエト連邦による政治的圧力の始まり)までの東欧ポップセンス」、スコリモフスキーの『早春』(70)(デジタルリマスター版公開&リリースおめでとうございます)に代表される「欧州内合作映画の中にある東欧の<暗さと背中合わせのモダニズム>のエッセンス」を我々は知らないでもない。


 それは、グランギニョルや剣闘士の殺人ショーといった、肉食系の残酷さがひとつの文化として定着してしまい、「ポップ」「可愛さ」などとワンプレートに併せ盛りできなくなってしまった伊仏の、あるいは、「深い森の童話の世界」が、独立した感覚的なジャンルとして固定し、門戸を閉ざしてしまったゲルマン系の文化(この硬直を逆手に取り、見事な「新・物語」としてWニュー・ジャーマンシネマの傑作となったのが『ありがとう、トニ・エルドマン』(16)であるのは言うまでもないだろう)と比べて、軽やかに「残酷さ」「気味悪さ」が「ポップ」と手を結ぶ余地を残す。


 『ゆれる人魚』(アグニェシュカ・スモチンスカ監督/ポーランド2015年)は、そこそこ気の利いたオリジナル脚本ではある、しかし原作はあのクラシックス、あの「人魚姫」なのである(一応、ぐらいですが)。そして本作の人魚姫は、姉妹(双子ではない)で、80年代テクノ・ニューウエーヴィーなミュージシャンで、ある条件下では下半身も人間のそれになる。どころではない、実年齢よりも10歳は若く、つまり10代の少女に見える主演女優の二人は、女陰と肛門以外はスクリーンに堂々と晒し、マーメイド・フェチ、アンダーウォーター・フェチ(大きな水槽の中で潜り、歌うパフォーマンスあり)、キメラ・フェチ(人間と別の動物の合体フェチ)、といった中弱規模のフェチを悠々とカヴァーした上で、ロリコンという巨大マーケットに平然と打って出る(そこそこのセックスシーンあり〼)。


 そして彼女たちは、「うえ~ゲンナリ」というほどでも「うっわ!こわっ!」というほどでもなく、どちらかといえば我々の、温かい失笑を買う程度には、人間の内臓を、口の周りを血だらけにして喰らい、古典的な原作を一捻りし、恋人になりかけたが結ばれない美少年の王子様を噛み殺してしまう(ネタバレ回避のため、表現は曖昧にしてあります。しなくても大差ないと思うが)。最後になったが、そんな彼女たちは、陸で見つけられ、どこに定住し、何に就労するのか? ストリップティーズまで含めたダンスショーをコンテンツとする、ナイトクラブ(60年代には隆盛を極めたこうしたナイトクラブはポーランドでは「ダンシング」と呼ばれ、本作の原題の逐語訳は「ダンシングの娘たち」である)に、ショーガールとして雇われ、素晴らしいバーレスク・ショーの数々を見せてくれるのである。見たいですか? 見たいでしょう?


■では、何をしてカルト映画と感じさせるのだろうか?


 第一には、実際はどうあれ、ポーランドという国が、60年代に比べれば、ソヴィエト連邦にいじめられまくってボロボロの貧国、とイメージできなくなったことだろう。本作には、今や『ラ・ラ・ランド』(16)風の、で通用するようになった、セット内全員が歌い踊るプチ・ミュージカル・シーンまであり、人魚の特殊メイク、そして、後述する、大変に優れたオリジナルの音楽まで、「貧乏くささ」が全くない。潰れそうな店、貧国ポーランドのリアリティを描くための「敢えての場末=貧困」表現はあるが、あくまで作り物の貧しさである。


 にも関わらず、誤解を承知ではっきりと言うが、ストーリーは詰まらないのである。つまりここに「貧しさ」がある。これは「ハリウッドのヒーロー物全般の、コンピューターで算出したかのようなストーリーテリングと比べて」という意味である。「いくら特殊メイクったって、人魚姫でしょマーヴェルみたいに行くわけないじゃん」等と言うなかれ、今や「ハリウッドエンターテインメント式」の脚本作法は、数名の登場人物による家族の人間ドラマにさえ応用できる、観客誘導力を持っている。


 登場人物にグイグイ移入でき、弄ばれるがの如くハラハラドキドキし、心拍数を大いに上げられた上で、ちゃんと思い通りのエンディングが訪れて大満足、人間はここに満腹感に似た体幹を覚え、対価を払う価値を見出す。


 VFXを使わなくとも(因みに本作では使用されない。そこがかえってエロい)貧乏感=空腹感は生じない、しかし、物語に乗っけてくれて、グルングルンに振り回してくれないと、地球全体が崩壊の危機にさらられようと、ヒロインかヒーローが難病で死のうと、我々は空腹感を覚えるようになってしまった。


 この、ファストフードにも似た「脚本の<喰わす>力」は、ファストフードのチェーン展開が地球全域に広がる前までは、ワールドスタンダードたりえなかった。「すげえ良い感じなんだが、何かにかけている。だがそこに熱狂的なファンも多い」と、大雑把に「カルト映画」の定義を仮設するなら、こうなる。連続的に活動しない地下アイドルのようなものだ。


 本作は、とにかく音楽を聴かせたすぎ、人魚姉妹の半裸、もしくは全裸を見せたすぎ、バーレスクショーを見せたすぎる余り、脚本はまあ、「最終的に<人魚姫>をなぞって、今風に味つければいいでしょ」といった、手抜きとも、才能の劣性とも違う、「まあ、こんなもんでしょ」感が漂う。ここに、今では亡霊でしかありえない、懐かしの「カルト映画」感がうっすら蘇る(ちなみに、脚本のドライヴ力と並び、現代のファストフードの一翼を担う「ダンス」の力も本作は使わない。主人公二人は、基本的に簡単な振り付けの踊りさえせず、人魚ですよすごいでしょう。という「見世物の生物」にほぼほぼ徹する。軽く踊ったりするが、ダルくゆらゆらする程度である。ここにも「食い足りなさ=でもそこが良いんじゃん」というカルト映画の属性が忍び込んでいる。また、二人の「美人度」も絶妙で、新体操、フィギュアスケートなどの芸術点含め型のオリンピック競技の東欧女子選手アヴェレージからすると、むしろインスタグラマラスなリアルキューティーで、ここにも「美少女」というファストフードがない)。


■素晴らしい音楽、そして、それが仇となる設定


 ポーランドのインディーロックシーンに君臨する、まだ10代のブロンスキ姉妹は(誤解を招きやすいので注意、主人公二人の役者と彼女たちは別人である)、大変な才人とも言えるし、ユーチューブで古典が学べ、PCによって実作の実験がやり放題である現代から見れば、チョイスセンスが良いだけの凡人かもしれない、とも言えるが、とにかく「80年代風」の再現力はかなり高く、当然ながら、両親は「ダンシング」で、ミュンヘンディスコやニューウエーヴ系のキャバレー音楽をハウスバンドで演奏したりしていた、つまり直接遺伝である。


 あらゆる音楽評論家は、本作の音楽的なひらめきと成熟を褒め称える、沸点の低い者であれば「エイティーズ・エレクトロ・ディスコ・ミーツ・ザ・ピーナッツ!!!!」ぐらい叫んでよだれを流すだろう(一番近いのはゴールドフラップだけどね)。


 が、しかし、ここが仇となる。どんな欠損や不足も「カルト映画風」という亡霊の立ち位置によって栄養にしてしまう本作の、唯一の動かしがたい弱点は、「これが、現代のポーランドを舞台にしていない」事である。


 ああなんと(未見の方には通じづらい感嘆だろうが)本作は、「80年代リヴァイヴァルが横溢する、今のプラハ(でもワルシャワでもどこでも良いが)のナイトクラブ」ではなく、「実際に80年代当時」を舞台にしているのである。


 だったらダメよ。もう一挙にダメよ。何がダメか? もしそうであるなら、音楽は考証の対象になってしまう。使用楽器、マイク、周辺機器、作曲の構造、歌い方、全てを「当時の物」にする必要性が生じてしまう。ほとんどの読者に伝わらないと思うが、あの、音楽シーンを半分支配するシンセベースは、00年代以降のエレクトロの音色で、当時はあんな音色なかったよ。あれは、リヴァイヴァル的に発達した「今の音」だ。テクニカルターム使っちゃうと、ソフトシンセの音で、ヴィンテージシンセの音ではない。


 下手に音楽家である筆者は、全編が終わって、紙資料を読むまで、これが「当時を再現した物語」だとは全く思っていなかったので腰が抜けた。前述の通り、80年代の音楽は非常に遺伝子が強く、90年代にも00年代にも、10年代も終わろうという現在でもリスペクトされ続け、リヴァイヴァルされ続け、その都度、完全再現志向ではなく、発展志向で動いてきた。「エレクトロなんとか」というジャンルは、今をときめくEDM(一応念のため、これは「エレクトリック・ダンス・ミュージック」の頭文字である。もう、元も子もない)に至るまで、連綿と続いてきた。


 インスタグラマラスなリアルキューティーで、惜しげもなく半裸/全裸を見せる彼女たち、そして彼女たちのバックを務めるハウスバンドのサウンドは、濃密なエイティーズ音楽、しかも東欧オリジナルという、極めて魅力的なものでありながら、時代考証という意味に於いては、最初から放棄している=現在の音、の素晴らしさを優先させている。


 慌てて再見した筆者は、「あ、ほんとだ、街並みとか服とか、今のじゃねえや」と改めて思ったのであった。これは筆者が音楽ばかり注目している、という訳ではない。もちろん、それほど本作は音楽映画である。しかし、「ポーランドって、新市街あるの? 未だに全部が古都なんじゃないの?(あんまり何も変わってないんじゃ?)」という、東欧社会に対する偏見の方が大きく作用したと思う。ポーランド語ネイティヴの方なら、しゃべり方(当時の流行語とか)とかで、すぐにわかったろうに。


 そう、最大の「欠損感の魅力=カルト」は、「時代考証性というファストフード」が、気付いたら喰えていなかった。しかし美味いし、そこそこ腹も膨らむ。ということだったのかも知れない。


■余談:少々前に、あの『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』の監督が作った


 『パーティで女の子に話しかけるには』(17)という作品が封切られた。こちらは(まあ、英国、という文化的認知度の高さもあるけれども)世界中の誰が見てもはっきりと1977年の物語で、音楽は時代考証性に重きが置かれている。音楽だけではない、この作品は、77年のロンドンに○○○(自粛)が来ていたら? という映画で、英国の時間の止まりっぷりを大いに活用し、ほぼ完璧な77ロンドンパンク・カルチャーの再現を見せる、しかし、こちらも堂々たる「<カルト映画>という亡霊」とするのに、全く吝かでないどころか、一瞬先でこっちが公開されたんで、こっちのが「カルト映画という亡霊(音楽が主役)」のパイセンですらあるのである。


 ちゃんと全てを再現しているのに? エル・ファニングという「ごちそう」がメインディッシュなのに? 前作は誉れ高い名作なのに? 何故? どこが「貧しい」わけ? もちろん、登場するパンクスたちの個人所得ではない。ご興味がある方は、本作(『ゆれる人魚』)と併せ、何らかの方法でどちらも鑑賞されることをお勧めする。というか、半年後に二本立てでしょ普通。(文=菊地成孔)