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地獄のような体験を観客に味わわせる映画『デトロイト』は、現在のアメリカの状況をもあぶり出す

2018年02月10日 10:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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 執拗な侮辱や罵倒、激しい恫喝、そして銃撃による殺人…。人の目が無い狭い空間で、警官に異常な暴力を受け続ける地獄のような体験をじっくりと観客に味わわせる映画が、本作『デトロイト』だ。そして本作をさらに重苦しいものにしているのは、その胃が痛くなってくるようなおそろしい内容が絵空事ではなく、被害者の証言などを基に再現した「実際の事件」だという部分だ。


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 1967年に起こった「アルジェ・モーテル事件」は、地元デトロイトでは有名だというが、アメリカ人の多くに知られていたわけではなく、監督のキャスリン・ビグロー自身も、本作の企画が持ち込まれることで初めて耳にしたのだという。そして今回、このアカデミー受賞監督が事件を映画化したことによって、世界的に存在が広まることになったのだ。


 事件は、ミシガン州デトロイトのモーテルで、黒人の若者がふざけて二階からモデルガンを発砲したことから始まる。建物は包囲され、突入した警官によってすぐさま一人が射殺される。さらにモーテルの客は廊下に集められ、無関係の者を含めて、その場で人権を無視した暴力的な取り調べを受けることになる。次第に警官たちはヒートアップしていき、その場でまたしても新たな惨劇が起こってしまう。


 警官たちはなぜこのような異常な行動に出たのか。その背景には根深い人種差別意識があるといわれる。それは、事件が起こった都市部の中心地区では、黒人が6割ほどを占める地域であるにも関わらず、そこで犯罪を取り締まっている警察官の95%が白人であったという異様な事実からも類推できる。本作では描かれなかったが、当時の警察署内でも、数少ない黒人警官は、白人の同僚らから日常的に差別を受けていたことが証言によって明らかになっている。そんな白人警官たちが、一般の黒人、ましてや容疑者たちに、人権に配慮した態度がとれるはずがない。


 「まだまだ人種差別が激しい60年代だから、こんな事件が起こったのか?」と思ってしまうが、じつは近年も同様の事件が続発している。2014年以降、ニューヨークのスタッテン島、ミズーリ州ファーガソン、メリーランド州ボルチモア、ルイジアナ州バトン・ルージュなどで、銃を持たない無抵抗の黒人が、白人警官による暴力的な職務質問や銃撃によって殺害される事件が頻発し、人種間の対立が深まる深刻な社会問題になっているのである。つまり60年代アメリカの事件が描かれた本作を観るということは、いまだ同じ問題を抱える現在のアメリカを見るということなのだ。


 本作は40分ほどの長尺を使って、モーテルでの警官の異常な暴力をドキュメンタリー風に描いているが、前半部では、その背景となった「デトロイト暴動」のもようを、事件の関係者たちによる複数の視点で表現している。混乱状態のなかで放火、略奪事件が多発し、事態収拾のため警察官に加え州兵までが動員され、この暴動は5日間のうちに40人以上が死亡、1000人以上が負傷するという、アメリカ史上最大の規模となった。アルジェ・モーテル事件は、まさにその最中に起こったのだ。


 同時にアメリカはベトナム戦争のまっただ中であり、デトロイト市街のことを「ベトナムみたいだ」と劇中で言及されていたように、荒廃した街のなかを銃を持った兵士たちが見回っている光景は、まさに戦場のようである。本作で描かれる惨劇は、ここから端を発する。


 市街をパトロールしていた、白人警官のクラウス(映画では仮名となっている)は、店から商品を略奪して逃走する黒人男性を見かけると、追いかけながら思わず後ろから射殺してしまう。武器を持たない人間を背後から銃撃したということで地域住民は怒り、鎮圧どころか火に油を注ぐことになってしまった。警察署でもこの一件は問題視され、クラウスの立場は危うくなる。だが、彼に悪びれたり反省する様子は見られない。ウィル・ポールターが憎たらしく演じるこの男を、本作は異人種への共感や理解が抜け落ちている人間として描く。このような差別主義が醸成されるというのは、このデトロイトの黒人居住地区に代表されるように、アメリカ社会が人種ごとに生活圏が分断されていることが要因の一つとなっている。


 その後発生したアルジェ・モーテル事件で、クラウスは名誉挽回とばかりに、功を焦ってモーテルに飛び込み、その場から逃げようとする黒人男性を見つけ、また射殺してしまう。白人警官たちは、その失態を取り繕うために、黒人容疑者たちや、居合わせた白人女性2人を並ばせて違法な取り調べを始める。だが彼らは、自分たちに有利な証言を引き出せず、犯行に使われた銃も見つけられない。そもそも銃撃事件は発生していないからだ。


 そこで警官らは容疑者を1人ずつ呼び出し、見えない場所で次々に殺害しているように見せかける芝居をすることで、心理的に追いつめていくゲームのような駆け引きを行う。そこで起こる悲劇は、その深刻な事態に反し、まるでコントのようなとぼけた失敗が連続していく。被害者たちが、彼らのきわめて幼稚な行動に振り回されざるを得ないという状況が、この事件の悲劇性を増している。


 だが真に驚愕するのは、事件後の裁判である。精神的、肉体的拷問を受け、暴力によって証言を強要された被害者たちとは対照的に、白人警官たちはアメリカの司法によって守られ、最大限に“彼らの”人権に配慮された裁きが行われるのである。ジョン・ボイエガが演じる警備員ディスミュークスは、周囲がヒートアップするなかで冷静に対立を避け、黒人たちの不満をなだめながら、彼らの命を救おうとする。その思慮深い行動をもってしても、凶行を止めることはできなかった。モーテルでの一夜を生き延びた被害者たちは、そこを脱してもなお「デトロイト」という街に隔離され、さらに旧弊なアメリカ社会という、何重もの檻の中に閉じ込められている。そんな逃げ場のない当時の状況、そして現在のアメリカの状況をもあぶり出したのが、本作『デトロイト』なのである。


 ただ注意しなければならないのは、アルジェ・モーテル事件はまだ全容が解明されておらず、本作は証言を基に想像を加えた箇所がいくつもあるという部分である。キャスリン・ビグローは、軍隊や警官、犯罪者など、女性でありながら伝統的に男たちが支配してきた世界を好んで描く映画監督だ。話題となった『ハート・ロッカー』、『ゼロ・ダーク・サーティ』もそうだが、これらはドキュメンタリーではなく、事実の再現を行ったものでもなかった。しかし、実在の人物名を出し、ドキュメンタリー風の演出が施されることで、創作部分も事実を基にしているかのように思わせてしまうという、クリント・イーストウッド監督の『アメリカン・スナイパー』同様の構造的な問題があった。しかし、本作は想像を加えつつも、事実に則した表現を目指しているという意味で、これらの作品とは異なり、社会に真の公正さとは何かを問う、より意義のある作品になっているといえる。


 黒人の苦しみを白人監督が表現するということについては、監督のなかで葛藤もあったはずだ。しかし、事件の被害者には白人女性も含まれている。衣服をはぎ取られ尊厳を踏みにじられた彼女たちもまた、女性であるということで軽んじられ蔑まれた被害者である。その意味において、人種差別、女性差別は、問題の根が根底でつながっているのだ。差別問題は黒人だけのものでなく、全ての社会的弱者に共通する脅威だ。誰もが被害者になり得るし、加害者になり得る。そして現在も同様の問題が依然として残り続けるというのは、それらの問題を看過し続けた社会全体の責任であり、市民一人ひとりの責任である。


 いまも人種差別問題に揺れるアメリカ社会だが、このようなアメリカの歴史の暗部を映画化し、それが話題になるという状況は、救いであり希望でもある。過去とまっすぐに向き合うことで、現在の問題を正しく理解することができる。日本を含め、世界の国々もまた、自国の歴史のなかの“目をそむけたくなる”部分に向き合うことが、いま必要だと感じる。本作『デトロイト』は、その勇気と信念こそを最も評価したい。(小野寺系)