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欅坂46の躍進と反響から考える、アイドルという「総合芸術」の可能性

2018年02月07日 17:12  リアルサウンド

リアルサウンド

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 2017年末の『NHK紅白歌合戦』で欅坂46が披露した「不協和音」は、番組内コラボのパフォーマンスも含めて強いインパクトを残した。「不協和音」は、欅坂46が2016年の同番組初出場時に披露した「サイレントマジョリティー」がもつレジスタンスのテーマを、さらにストレートに押し進めた楽曲である。「不協和音」が2017年の欅坂46を代表する楽曲になったことで、レジスタンス的なイメージは、このグループのトレードマークとしていっそう印象づけられた。


 そうしたイメージは、時にいささか直接的すぎるほどに「抵抗」や「ロック」といったフレーズを呼び起こし、各所で欅坂46が論じられる折にはそれらの言葉がしばしば用いられた。もっとも、昨年10月リリースの最新シングル『風に吹かれても』や、1stアルバム『真っ白なものは汚したくなる』に収録された楽曲を総覧すれば、このグループがそれほど単色で語れないことは容易に見てとれる。けれども、欅坂46を語る言葉はやはり、このグループが表現するカウンターとしての身振りへと収斂していくことが多かった。


(参考:欅坂46の近況やAKB48ドキュメンタリーなどから考える、アイドルの“疲弊”を物語化する危うさ


 また、欅坂46をめぐるこうした語りは、アイドルシーンにおいて時折頭をもたげる「アイドルらしくない」という言葉をも再び呼び起こした。やや先の時代を思い返せば2010年代前半、AKB48グループが覇権を確かなものにする中で、それら48グループに対するカウンターの気分もはらみつつ、ももいろクローバーZやでんぱ組.incなどのグループが称揚される際の常套句として、「アイドルらしからぬ」という言葉はあった。


 そうした議論は、ときに「アイドルらしからぬ」アイドルグループを、「アイドルではなくアーティスト」として論じる方向へと派生していく。ただし、それら「らしからぬ」論や「アイドル/アーティスト」という不自由な二項対立は、往々にして実態に沿わない「アイドル」のステレオタイプにもとづいていること、あるいはそうした発想にアイドルというジャンルを軽んじる姿勢がうかがえることなどが指摘され、時のアイドルファンから批判されてもきた。アイドル自身がアイドルであることの誇りをさまざまにアウトプットできる2010年代の環境も相まって、そのような語りはやがて、ある部分までは止揚されたかにもみえた。


 しかし、レジスタンスのイメージに先導された欅坂46の躍進は、上述のようなかつての「アイドルらしからぬ」にまつわる議論を、いくぶん素朴なレベルで再度召喚した。あるいは、ジャンルの外にまで届くほどのインパクトをもつということは常に、そうした喧騒やノイズと不可分なものなのかもしれない。


 しかし、欅坂46というグループの革新性は、レジスタンスのイメージに回収されてしまうほど狭小なものではない。


 欅坂46のデビューシングル『サイレントマジョリティー』が急速に世の中に届いたのは、楽曲に描かれたテーマそれのみによるものではない。アイドルというジャンルが、さまざまなコンセプトやストーリーの依代として豊かな土壌を確立している今日、「抵抗」や「ロック」的な姿勢それ自体は、アイドルにとってさほど新鮮というわけではない。欅坂46の特性は、その楽曲をもとにしたドラマティックな振付による群像の表現、さらには衣装、MVなどを含めた総合的なアートワークの水準の高さにあった。それらいくつもの要素が総合的な表現物として統一感をもって提示されたからこそ、その器の上にのった「抵抗」のイメージは鮮烈なものになり、世の中を驚かすことができた。


 そのことを考えるとき、『サイレントマジョリティー』に関して注目すべきは、カップリングとして収録されたメンバー全員参加楽曲「キミガイナイ」や「手を繋いで帰ろうか」ですでにみせていた振り幅の広さであった。「キミガイナイ」の静的なイメージも、「手を繋いで帰ろうか」の軽快なラブコメディ的テイストも、表題曲「サイレントマジョリティー」に導かれたパブリックイメージとは大きく異なる。けれども、時に演劇性を強めつつ群像を効果的に用いた振付で楽曲の世界観を豊かにしてゆく手つきは、「サイレントマジョリティー」でみせる総合的な表現と根を同じくするものだった。


 欅坂46にとって重要なのは、デビュー初年の段階ですでに探り当てていたその豊かな表現形式の方であり、レジスタンスのイメージそのものではない。「サイレントマジョリティー」に並列して「キミガイナイ」や「手を繋いで帰ろうか」といった表現がすでに生まれていたことを思えば、今日グループの旗印のように語られる反抗の身振りは、欅坂46にとって数あるモチーフの一手にすぎない。


 そしてまた、欅坂46が手にした総合的なクリエイティブの高さは、常套句として語られるような「アイドルらしくない」ものとしてではなく、アイドルというジャンルの可能性を存分に見せつけたものとして捉えられるべきだろう。


「やっぱり、70年代、80年代のトップスターというのは、その当時の最高のクリエイティブをやっていた。アイドルというのは昔から、総合芸術としてクオリティの高いものをやっていたんですよね。いつの間にか、バンドブームがあったり、「アーティスト」の時代になり、「アイドル」って言ったら中途半端なものみたいに思われる時代がありました。でも海外で言えばマイケル・ジャクソンやマドンナがアイドルだったわけで、それがやっぱりメジャーとしての最高峰。そこを目指さないとな、くらいの気持ちですよね」(今野義雄、「月刊MdN」2015年4月号、p84)


 これは2015年初頭段階での乃木坂46を念頭に置いた、ソニー・ミュージックレコーズの今野義雄の言だが、ここには総合的な表現としてのアイドルが有する可能性についての矜持がうかがえる。この「総合芸術」としての視点は、アイドルというジャンルを捉えるうえで基本かつ重要だ。また、乃木坂46と同じく今野がクリエイティブを統括する欅坂46は、乃木坂46が結成当初から模索してきたアートワークや演劇性への目配りを、ややベクトルを変えた形で発展させることに成功したグループでもある。


 これら「坂道シリーズ」が近年のアイドルシーンを席巻したとすれば、それは視覚表現などを含めた多岐にわたる要素を高レベルで統合し、パフォーマンスアートの一形態としての「アイドル」の特性を引き出したことによるものだ。欅坂46もまた、「アイドルらしからぬ」ものを発明し得たのではなく、テーマ設定からアートワークまでを柔軟に駆使しつつ、それをポップアイコンたるパフォーマーによって体現しうる、アイドルという総合芸術の潜在能力を見せつけたことこそが肝要だった。


 2017年後半のアルバム、シングルリリースをみても、あるいは2016年のマスターピース「二人セゾン」をみても、レジスタンスなりロックなりといった限定的なテーマに回収されてしまうほど欅坂46の可能性は小さいものではない。先日、3月リリースの6thシングルの選抜発表が行なわれ、2018年の欅坂46のクリエイションも本格的に動き出す。総合的な表現の型を築いたこのグループのポテンシャルを低く見積もらないために、送り手はどのように次の一手を展開し、受け手はどのように次なるイメージを語れるだろうか。(香月孝史)