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ECDは思想家としてのラッパーだった 荏開津広による追悼文

2018年02月05日 18:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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 ECD(本名:石田義則)、ラッパー/プロデューサー/小説家/エッセイストーー彼がいなかったら日本のヒップホップ/ラップはまったく違った形になっていただろうーーが、1年余の癌との闘病の末、2018年1月24日の夜に永眠した。


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 代表的な一曲は、社会を見つめ続けるラッパー・K DUB SHINEをフィーチャーし、2017年に加藤ミリヤがECD本人をフィーチャーしてカバーした「ECDのロンリーガール」(1997年)である。


 彼は1960年、東京は中野に生まれ、吉祥寺に育った。学校には音楽の話が合う友だちがいなくて、高校生ぐらいの頃から外に出るようになった。例えば、17歳の時にディスコに出かけた、と後年語っている。


 翌年、結成されたばかりの劇団「名無し人」(後の劇団「キラキラ社」)に、ECDは俳優として参加した。この劇団を作ったのは、当時、日本のロックジャーナリズムの新しい波だった雑誌『ロッキング・オン』の編集者、岩谷宏で、ECDは岩谷の文章を気に入っていたので劇団に参加したと何回か記している。劇団「キラキラ社」の公演の数少ない記録映像を見ると、標準的な、私たちが想像できる演劇より遥かにマルチメディアのインスタレーションに近いようだった。10代のECDのこのエピソードが、私たちに教えてくれることがある。


 ひとつは、彼はアートにおいての前衛であろうとしたということ。もうひとつは、音楽と音楽にまつわるもの総てへの深い愛情だ。そんな彼は群れるのを厭うアーティストで、日常生活でもそうした人となりでもあった。


 ECDは、その生涯を通じて、音楽のために、音楽を愛する人のために、音楽を聴き、音楽を作り、音楽について考え、音楽から考えたが、そのような思想家としてのラッパーという存在がこの世にあるだろうか。


 ラッパー/プロデューサーとして、彼が遺した40枚以上のアナログやCDのアルバム、EP、シングルの中で、セルフタイトルの1stアルバム『ECD』から、(新しいリリックとしては)最後の加山雄三の「君といつまでも」リミックス/カバーである「君といつまでも(together forever mix)」まで、彼は切々と音楽をいかに愛しているか、音楽がいかに彼にとって大切かをラップした。音楽をもって音楽に言及する、そうした楽曲がほんとうにECDには多い。


 『ECD』の「Check Your Mic(1992 REMIX)」では、朝までパーティをして疲れきった次の夜もパーティに繰り出せと聞き手を煽ったあと、でも、東京には足りないところがあるとラップし始める。<・・・なんか足りない(中略)FMステーション/大好きな音楽/聞きたいラジオで/まるまる一日朝から晩まで・・・>。念のため、最後になった「君といつまでも(together forever mix)」に出てくる“君”とは、音楽のことである。


 ヒップホップを日本において始めた人物の一人として、ECDがそこに持ち込んだもののひとつは、クラブ/ダンスミュージックとしてラップ/DJが持ちえた、演じ手と聞き手を包む民主的なありようである。音楽の歴史で作曲と演奏が分けられ、重要な諸芸術の一形式として、特別な所有や労働のありかたとして発展していったことは知られているが、ECDは、ポップミュージックの分野での初期のクラブミュージックとしてのラップが持ち得ていた、それとは異なる可能性に賭けていたふしがある。


「80年代にはニューヨークでHIP HOPが始まっているわけで、ニューウェーブとの接点も結構あったのでそこから入った(中略)、そのころから一人で何をやれないかという想いが強くなっていて。劇団はお金がかかるばっかりで、一人でできてちょっとでもいいからお金になるようなことがしたかった。ラップだったらそれができるんじゃないかなと考えました」(参考:http://www.webdice.jp/dice/detail/1567/)


 こうした個人的な理由を持ちながら、徹底して民主的なありようのビジョンを保ち続けようとするECDのユートピアの不可能性は、当然、彼の生や言葉と音楽との間に緊張関係を作り出した。それは、ECDの音楽の持つやるせなさ、切なさ、時には傷つきやさぐれた、ブルーな衝動に満ちた言葉と響きの質感として表象する。


 彼のアルバムのうち、1992年の『ECD』から4作目、1997年の『BIG YOUTH』まではヒップホップ/ラップアルバムである。ところが、次作の、まだメジャーレーベルと契約していた『MELTING POT』で彼はラップを止めてしまう。この前後から彼自身が告白しているが、アルコールに淫したECDは最終的には入院までの顛末をたどる。この時期が『Thrill Of It All』、そして『Season Off』まで。2002年、メジャーと契約の終わったECDは自身の著書と同名の『失点 In The Park』をリリース。注意してほしいのはここにさえ「DJは期待を裏切らない」という曲を収めていること。このあと、2000年代を通して、彼の作品はアメリカの南部のヒップホップから国内のレイヴカルチャーまでの経験を通した地下音楽ともいえる。これら作品群の評価も待ち構えているが、それが、なんと2010年代からよりラップに回帰していく。ここ数年は、彼の新境地を刷新したフロウ/デリバーと内容で示し、ECDがラッパーとして完全に復活した印象がある。


 ECDのラップは決して超絶技巧ではないが、それより前に、商品として同じパターンで音楽を売りつけることを彼は拒否する。2012年の「まだ夢の中」や、ラップの原点的なボースティング(自慢話)を2015年に取り入れた「LUCKY MAN」を聞いてほしい。こうした曲に顕著なパターンを彼は量産のために利用しない。前衛として認めないのだ。


 ECDは、“才能もない、ダメだ、どうしよう”とがっかりした人のために、自分はそんな人々の内から現れマイクを握ったという(前述の「Check Your Mic」、1992年)。まるで1人だけの芸術運動の宣言だ。事実、トレイシー・エミンなども関連していた1990年代末のUKの美術運動“スタッキズム”(参考:http://www.stuckism.com/stuckistmanifesto.html)の宣言の幾つか、例えば“スタッキストはキャリアある芸術家ではなくむしろアマチュアである”を想起させる。彼は後からの世代のアーティストたちに手を差しのべる。スチャダラパーのデモを見い出し、Lamp Eyeに、後に伝説的な曲となった「証言」のリリースのための決して少なくない資金を工面したエピソードは有名だ。


 こうしたECDの音楽は、バブル経済の匂いが残る、彼の活動初期の1990年代の東京より、2010年代の世界と繋がっていただろう。結果としてECDは多くの人々の共感を得た。20枚前後のアルバムを含む、トータルで40以上の作品をリリースしたラッパーは世界的にもほぼいない。ほぼ触れなかったが、執筆家としては、単著だけでも10冊以上にのぼる。2017年、彼の生き様を配信したオンラインプログラム・DOMMUNEのビューワーは200,000人を超えた。


 そして、2000年代も後半には、彼のユートピア願望が音楽の領域で充足している分には怠惰だとばかり、特に震災以降の路上での政治運動に、ECDは文字通り飛び込んでいった。


 路上での政治的な活動から彼を過激な左翼と判断し毀誉褒貶する人々は決して少なくないのだろうか(そのようにオンラインで見える)。しかし、ナショナリストというのは正確ではないが、例えば、ECDは日本という国と、そこに住む人々のアートの領域でのある種の優越性を信じていたと僕は思う。かなり早い時期から、彼が後に“和モノ”と呼ばれる、国産ポップミュージックの熱心なコレクターであったのみならず、一時期の彼のアルバムは“和モノ”のみが使われてプロデュースされていたことを思い出してほしい。


 ECDさんは、アーティストとして再び旺盛な創造期を迎えるところでした。ほんとうに残念です。御悔やみ申し上げます。(荏開津広)