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人間はみなひとりぼっちーージョージア映画『花咲くころ』が彩る“生のありよう”

2018年02月04日 13:52  リアルサウンド

リアルサウンド

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 ジョージア(旧称グルジア)の女性映画作家ナナ・エクフティミシュヴィリが、夫でドイツ人監督のジモン・グロスと共同で撮りあげた『花咲くころ』という映画のもつ素晴らしさを、どのように表現したらいいのだろう。時代、政治、地域社会、都市、学校、集合住宅、家庭といった、私たちを当たり前のように取り囲む「環境」と呼ばれるもの、それがこの映画の主人公なのだと思う。一応ヒロインが2人登場する。エカとナティアーー同じ中学校に通う女子2人組ーーであり、彼女たちはそれぞれ家庭に問題を抱えている。『花咲くころ』はジャンルから言えば青春映画であり、銃後の戦争映画でもある。


参考:“人肉食”は物語にとって味付け? 『RAW~少女のめざめ~』は誰もが共感できる青春映画だ


 描かれるのは1992年の春、ジョージアの首都トビリシの住宅街。その前年にジョージアはソビエト連邦から独立を果たしたものの、政府の内紛で首都のトビリシ市内は内戦に巻き込まれた。さらに南オセチア地方と西部のアブハジア地方では分離独立の紛争が起きている。戦闘や爆発などは直接描かれることはない。ただ独立そうそう、市民は耐乏生活を強いられ、パンは配給制となり、電気とガスの供給はたびたび停止する。そんな厳しい環境下、市民はストレスと苛立ちを強めている。この映画の大人たちも子供たちも、さかんに怒りをぶちまけ、大声を張り上げて周囲と喧嘩を繰り返しているのは、「万人の万人に対する闘争」を想起させる。これはイギリスの哲学者トマス・ホッブズ(1588-1679)が著書『市民論』と『リヴァイアサン』で持ちだした表現として有名だが、ホッブズはそれを「市民社会なき人間の状態」または「自然状態」と呼んでいる。エクフティミシュヴィリ=グロス共同監督は、1992年春のジョージアを「市民社会なき人間の状態」として認識しているように筆者には思えてしかたがない。大人社会の乱れが子ども社会にも如実に反映されていくさまは、昨年に待望の再公開が実現した台湾映画の傑作『クーリンチェ少年殺人事件』(1992)においても同様だったが、「市民社会なき人間の状態」たる「万人の万人に対する闘争」下で、いったい何が映りこんでくるのだろうか?


 『花咲くころ』で何が映っているかというと、まずとにかく人々が腹を立てて言い争い、大声で口論している醜態である。上映時間の半分以上が口論シーンだと言っても過言ではない。これは伝統的に武勇の民として知られたジョージア人の好戦的気質によるのか、それとも内戦による時代的反映なのか。その両方であろうが、おそらく映画作家自身、人間同士が目を剥いて大声でわめくという図に魅了されているとしか思えない。人は気が済むまで喧嘩しなければならない。その果てに何が生み出されるのか。平穏なのか破滅なのか、それを作者たちは観たくてたまらないのだろう。画面内はつねに悪戯、イジメ、恐喝、誘拐、暴力沙汰に満ちている。一瞬たりとも油断のならない空間が360°ひろがっている。教室でひとりの女子生徒が大切にしているらしい写真を悪ガキ男子が取り上げて、争奪のあげくに写真は破れてしまう。しかしその次のシーンではクラス全員で授業をさぼり、写真の争奪で反目した女子と男子が遊園地でカートをぶつけ合って笑っている。加害/被害の関係が馴致によって無化されたのだ。


 怒りも喜びも、ひとつの感情が長続きしない。人々は次から次へと感情から感情へと乗り移っていく。そのせわしなさこそ、この映画の魅力なのかもしれない。せわしないと言えば、カメラワークもせわしない。ほとんど三脚によるフィックスショットはなく、人物たちの背後をせわしなく追い、彼らの感情にずかずかと侵入するカメラ。撮影を担当したのはルーマニア人カメラマンのオレグ・ムトゥ。ルーマニア映画は現在、国際的にきわめて高い評価を得ており、ムトゥはカンヌ映画祭でパルムドールを受賞したクリスティアン・ムンジウ監督『4ヶ月、3週と2日』(2007)や、クリスティ・プイウ監督『ラザレスク氏の最期』(2005)の撮影を担当してきた、ルーマニア映画の台頭を支える名カメラマンである。ルーマニア映画界に留まらず、ロシア、リトアニア、ポーランド、チェコ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、そしてジョージアと、東ヨーロッパ全体に活躍の場を広げている。


 なお、ナナ・エクフティミシュヴィリ+ジモン・グロス共同監督の最新作『マイ・ハッピー・ファミリー』(2017)はNetflix限定配信で、こちらも素晴らしい作品なのだが(昨年のわがトップテンの7位)、やはり今回もルーマニア人カメラマンを起用している。オレグ・ムトゥの後輩にあたるトゥードル・ヴラディミール・パンドゥルという若手で、彼はクリスティアン・ムンジウ監督のあの哀切きわまりない傑作『エリザのために』(2016)の撮影も担当している。こうした東ヨーロッパ全域での人材交流と同時多発的な台頭という事態はどこかしら、昨今における中南米映画のケースに似ている。交通網の発達やデジタル機材の普及が、この地域の映画製作に、非常に興味深い相互交流の磁場を生み出しているのだ。東欧の映画と中南米の映画から目は離せない。


 言い争ってばかりの本作の登場人物たちだが、それがようやく寸断される時が来る。それは酒を飲む時と、歌を歌う時、そして踊る時である。ジョージアはワイン醸造の発祥の地と言われる。コーカサス山脈が北のロシアの寒気をさえぎるため、温暖な気候に恵まれたジョージアでは古代から良質なワインが作られてきた。ワインを飲むことじたいが民族の誇りの証明でもあるのだろう。少々の飲み過ぎを、外国人のわれわれが咎めるのは差し出がましい。そして歌。酒が入ると決まって男たちが4、5人並び、みごとな合唱を披露する。ワインと歌の喜ばしさは、ジョージア映画最大の名匠であるオタール・イオセリアーニ監督の諸作でさんざん観てきた映画ファンもいらっしゃると思う。


 しかしながら歌と踊りは、エクフティミシュヴィリ+グロス作品にあっては、問題の探究のほうに近い。女性讃歌を朗々と謳い上げる男声合唱をよそに、女性たちはほとんどその美声に聞き耳を立てていない。「女性は素晴らしい」などと褒めそやされても、それは男の側の身勝手な言い分であって、彼女たちにはまともに受け取れるものとして響いてこないのだ。『マイ・ハッピー・ファミリー』の祖母が吐き捨てるように言うセリフ「夫とは一度としてわかり合えたためしはない」「なぜ夫が怒っているのか理解できたことがない」ーー女性と男性の生のありようはどこまで行っても交わらず、たがいの賞讃や愛の表明は一方通行にすぎないものなのか。14歳ヒロインのエタが親友ナティアの結婚式(それは誘拐の果ての恐喝婚である)で舞踊を披露して出席者の喝采を受けるが、観客の心を揺るがさずにおかない素晴らしいその舞踊は、「シャラホ」という男性商人の祝宴の振付だ。ワインに酔った客たちは、そのぶしつけなジェンダー越えをだれも咎めない。しかし、エタはここにいる客全員に対してナティアの結婚に「NO」を、みずからの肉体の躍動によって表現したのである。


 「一度としてわかり合えたためしはない」ーー結局のところ、エクフティミシュヴィリ+グロス作品にあって、人間はみなひとりぼっちである。それは家庭にあってさえ。濃厚な血縁社会でがんじがらめとなり、個の自由が利かない環境をいったん解きほぐすためには、家族でさえも解体されねばならないのかもしれない。日本映画にせよ、アメリカ映画にせよ、最近の映画界はファミリー第一主義の一辺倒である。「家族こそ一番」、このだれにも逆らえない真実を、事と次第によっては選ばないという選択があってもいい。「言い争うこと」「飲むこと」「歌うこと」「踊ること」。ジョージア映画の伝統の延長線で語られうる本作の行動の集積が、最終的に「離反すること」であったとしても、それは悲劇とは言えない、とりあえずは。今は孤独者になる、独身者になる。『花咲くころ』にしても『マイ・ハッピー・ファミリー』にしても、登場人物たちは何かというと洗面室に立てこもる。彼ら彼女たちの魂の叫びは、洗面室の狭い空間で最大音量となっている。『花咲くころ』と『マイ・ハッピー・ファミリー』、この多幸的なタイトルは、反語である。花咲く春の季節ではあるが、戦時下である。家族ではあるが、バラバラである。そういう諦念による反語としてタイトルがいったん措定され、やがてその咀嚼の帰結として反転し、「嘘から出た実(まこと)」として起ち上がってくるにちがいない。


 「言い争うこと」「飲むこと」「歌うこと」「踊ること」そして「離反すること」。本作を彩る生のありようは、これで終わらない。彼らが経験してやまないのは、雨に「濡れること」だ。湿潤温暖なジョージアにおいて突然降り出す驟雨。どこか日本列島のそれにも似た激しい水滴が、彼ら彼女たちの衣服を、黒髪を、教科書をびしょびしょに濡らしてしまう。天候の変化によってびしょ濡れになる彼らの姿は、彼らの変容の予見である。雨が大地を濡らし、豊かな農作物を育む。この映画にあって、人々もまた農作物に見える。不出来だったり、形が悪いものもあるが、それらすべてが農作物だ。雨に打たれて彼らも何かに変わる。農作物として「濡れること」の映画。芳醇なワインのような豊かさをたたえた映画……。(荻野洋一)