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世界の長編アニメーションの新しい景色を語るための言葉 「GEORAMA 2017-2018」/高瀬司(Merca)のアニメ時評宣言 第11回

2018年01月13日 13:53  アニメ!アニメ!

アニメ!アニメ!

イラスト:mot
■ 高瀬司(たかせ・つかさ)
サブカルチャー批評ZINE『Merca』主宰。ほか『ユリイカ』(青土社)等での批評や、各種アニメ・マンガ・イラスト媒体でインタビューやライティング。
直近のイベントに、1月17日(水)イメージフォーラムでの『サリーを救え!』19時半~の上映後のトークショー(石岡良治×高瀬司×土居伸彰)、2月3日(土)大妻女子大学での講演会(石岡良治+高瀬司、要予約:https://peatix.com/event/335636)など。
Merca公式ブログ:http://animerca.blog117.fc2.com/


■ 世界の長編アニメーションの新しい景色を語るための言葉 「GEORAMA 2017-2018」

アニメーション研究・評論の土居伸彰は『個人的なハーモニー――ノルシュテインと現代アニメーション論』(フィルムアート社、2016年)で、冒頭から繰り返し「アート・アニメーション」という言葉の乱暴さへの警鐘を鳴らす。
つまり「「商業/芸術」をはじめとした既存の二分法の有効性を疑うことによって、これまで断絶したものとして考えられてきたアニメーション作品のあいだに、つながりを発見する」(43頁)ため、「これらの二分法は、アニメーションをめぐってぼんやりと作り上げられたイメージがあり、一方でそれにあてはまらないものがあるという認識をただ単に示しているにすぎない」(26頁)と看破したうえで、「本書が行うのは、「商業/芸術(前衛・実験)」「集団/個人」という二項対立を強化し、後者に肩入れしようとするのではないということだ。むしろ、それを無効化することなのである」(43頁)と語る。

しかし、二分法を「越境」するという語りには、常にアポリアがつきまとうだろう。分断があるということを前提とするような、論理の階層を許してしまうからだ。そのためかどうかは定かではないが、2018年1月13日(土)から新たな展開も見せる、土居が代表を務めるNEWDEAR主催のアニメーション・フェスティバル「GEORAMA」が掲げるのは、「アニメーション概念の拡張と逸脱」というフレーズである。

「GEORAMA」は、2014年から不定期で開催されている、世界の長編アニメーションを中心としたアニメーション・フェスティバルだ。これまでは海外の映画祭に足しげく通う者でなければ触れることのできなかったような世界のアニメーション作品を、日本にいながら観ることのできる貴重な機会であるのはもちろんのこと、音楽ライブなどを絡めるといった特殊な上映形態にも積極的で、2014年には閉館間際の吉祥寺バウスシアターにて、アニメーション作家のひらのりょうとミュージシャンの七尾旅人のコラボが、2016年には渋谷WWWと恵比寿LIQUIDROOMにて2日間にわたり、フランク・ザッパのMVなどで知られる伝説的なアニメーション作家ブルース・ビッグフォードを招き、彼の作品にあわせ菊地成孔、小山田圭吾、EYヨらが劇伴ライブを繰り広げるという集い(いまであれば『DEVILMAN crybaby』第1話を思い起こす者も少なくないであろう)が催されてきた。

そんな「GEORAMA」は現在、第3回目となる「GEORAMA 2017-2018」の真っ最中である。
皮切りとなったのは、2017年12月後半に全国を巡業した「変態アニメーションナイト ザ・ツアー」だ。“変態”アニメーションナイトとは、アニメーションという表現形態が得意とする「メタモルフォーゼ(変態)」を意味するのだという建前を用意したうえで、人類がいまだ肯定的に評価する術を持てずにいる、文字通り“変態”なアニメーション作品群をよりすぐって上映する試みのこと。上映が開始されるやいなや「なにこれ……さっさと終わんないかしら……」と必ずや思うにもかかわらず、――ちょうどしばしば耳にする、「『個人的なハーモニー』を著した「アート・アニメーション」の専門家である土居伸彰さん」という紹介を聞いたときのような、ナンセンスなおもしろ味に似た――そのセンスもユーモアもないだろう、ただただしつこくまとわりついてくる時間のなかを生き続けるうちに、やおら自分のなかで何かが整いはじめるという体験が売りの上映イベントとまとめられる。

そしていま、変態ツアーに続く第2弾「ワールド・アニメーション 長編アニメーションの新しい景色」が、東京・渋谷はシアター・イメージフォーラムにて幕を開けた。2018年1月13日(土)~1月26日(金)の14日間に長編19本と短編9本の合計28作品、全21プログラムを上映。このわれわれを試すかのようなプログラムは、いったいどのようなつもりで生まれたものなのか。

われわれが詰問するなかで、主催の土居は「いま世界のアニメーション・シーンでは、商業VSアートという二分法が無効化されたあとの中間領域にある“インディペンデント作品”が大きな盛り上がりを見せています。なかでも、アニメーションと言えば短編作品が中心的であった20世紀に対し、21世紀以降は長編アニメーションに個性的な作品が多く見られるようになっているんです」と前提となる状況を説明したうえで、この「長編アニメーションの新しい景色」のことを「世界中の“宮崎駿”と“新海誠”を集めたフェスティバル」と形容しはじめた。
さしあたり、“宮崎駿”とは各国を代表する巨匠然とした作家のこと、“新海誠”とは独自の文脈から出発しながら今後メインストリームになりうる作家のことと理解してよいだろう。今回監督デビュー作『豚の王』(2011年)が上映される、韓国のヨン・サンホがわかりやすい。小規模アニメーション作品から出発した彼が、2016年に実写映画『新感染 ファイナル・エクスプレス』で韓国映画界で最大のヒットを飛ばしたことを、『君の名は。』現象と重ね合わせて見ていた人は少なくないはずだ。

そこでわれわれは土居に、今回上映される19本もの長編のなかから、「日本のアニメファン」にとって、インディペンデント・シーンへの最良の導入となるような3本を紹介してほしいと声をかけてみた。

まず最初に挙がったのは、「イランの宮崎駿」こと、アリ・ノーリ・オスコーイエ監督による『天国から見放されて Release from Heaven』(2017年)であった。イラン・イラク戦争をモチーフに、3DCGパートと2D作画パートのハイブリッドで描かれる本作は、土居が「テーマ的に後期宮崎作品に通じ、映像的には新海誠を思わせる」と語るように、「GEORAMA 2017-2018」を象徴する作品と言ってよいだろう。あるいはイラン版『戦場でワルツを』とでも言うべきだろうか。アッバス・キアロスタミを代表とする映画大国に根付いた、高度な映像文化の蓄積を感じさせる傑作である。
また土居は宮崎と新海の名を挙げたが、終盤で「世界から戦争はなくならない。子どもたちを暴力から遠ざけられるのは物語」と語り、過酷な現実を前に“絵”と“物語”が希望をつなぐ本作を、『この世界の片隅に』(2016年)や『マイマイ新子と千年の魔法』(2009年)の片渕須直監督と並べることも可能なはずだろう。

続いて2本目に挙げられたのは、2017年の新千歳空港国際アニメーション映画祭で日本初上映された際も大きな話題を呼んだ、スペインのアルベルト・バスケスとペドロ・リベラによる『サイコノータス 忘れられたこどもたち Psiconautas: The Forgotten Children』(2015年)である。
汚染された島という、宮崎駿『風の谷のナウシカ』の系譜を思わせる設定を持ち込みつつ、同時に『エヴァンゲリオン』や『シン・ゴジラ』に通じるシーンも含む本作を観ることで、『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』(2014年)のトム・ムーアと並ぶヨーロッパの新たなスターと言っていいだろうこのバスケスのことを、“スペインの庵野秀明”と呼ぶ者がいてもおかしくはない。
ことによっては、ポスト・アポカリプスの世界を舞台に、キュートな動物たちのダークな物語を紡ぐ本作のことを、“実質『けものフレンズ』”と言いはじめる者すら出はじめるかもしれない。

ここまでの2作は、いずれも重厚な作品であったが、他方でエンターテインメントに振り切った作品も目立つ。その代表が韓国のチャン・ヒョンユン監督による『ウリビョル1号とまだら牛 The Satellite Girl and Milk Cow』(2014年)だ。
スタジオジブリでインターンとして働いた経験があるというチャン・ヒョンユンは、『ウルフ・ダディ』(2006年)が広島国際アニメーション映画祭でヒロシマ賞を受賞した際に、その造形から『トトロ』のイミテーションとして批判を受けた過去があるが、作品を少しでも観てもらえれば、宮崎駿監督がこんなふざけた作品を世に問うとは到底思えないという点で、強烈な独自性も備えている。
公式のあらすじを読んでもらえれば説明は不要だ。「人工衛星のイルホは地球を観察するうち、ミュージシャンを夢見る大学生キョンの歌声に惹かれ、地球に落下。しかしキョンは魔術の力で牛になってしまい、狩りの対象に…! イルホは魔法使いのトイレットペーパーの助けを借りて女の子に変身、キョンを助けようとする」。まだら牛になった男が、人工衛星の女の子から乳搾りをされ、白濁した液体を放出しながら頬を染める描写は、この作品以外ではあまり観た記憶がない。カオスアニメ愛好家に判断を仰ぎたい一作である。

むろん、19本のなかから3本をピックアップしてほしいという依頼が、本当に3本で終わるはずはない。
4本目として挙がったのは、フィリピンのアヴィッド・リオンゴレン監督による『サリーを救え! Saving Sally』(2016年)である。完成までに12年を費やした本作のことを“ポスト『君の名は。』”と呼んでは、本来であれば先後関係の転倒になってしまうのだが、そのような時系列の入れ替え劇を許してしまいたくなるほどに、全『君の名は。』ファンおよび新海誠監督へ胸を張って推せる、ポップでキュートな傑作と言える。
なお、1月17日(水)19:30~の上映後には、石岡良治×高瀬司×土居伸彰によるトークショーも行われるそうなので、詳細な作品評はそこで語られるのかもしれないが、さしあたって土居は本作を「フィリピンというクリエイティブの伝統のない場所で、全世界のポップカルチャーを吸収しながら育った、一周回った世代が手がける、既視感のあるもののパッチワーク=二次創作的な作品」だと評した。

いま語られた「既視感」をはじめとしたいくつかの言葉は、確かに、通常であれば批判的な意味で使われがちなものではあるだろう。しかし同時に、本フェスティバル全体に通底する要素とすら言える重要な概念でもある。
小~中規模で作られるインディペンデント・アニメーションの場に、ハイ・クオリティな3DCG映画を生み出すバジェットは与えられない。そのため作品は自ずと、手描きか2DCGを用いることになる。そのとき、表現の参照項となりうるのが、「日本のアニメ」である。それゆえ今回ラインナップされたそれぞれの作品に、日本のアニメからの影響を見出すことは容易い。その文脈が一つ。

しかし、「既視感」の指すところはそれだけには留まらないだろう。『21世紀のアニメーションがわかる本』(フィルムアート社、2017年)に顕著だが、土居のアニメーション理論の中心は、「既視感(コピー)」「部外者(伝統や歴史をふまえない)」「「私」の輪郭をなくす(匿名化)」「空洞化/流動化」「世界と対峙しない」「なんの思想もイデオロギーもない」といった言葉に託された、強烈な肯定の力にあるといって過言ではない。
だからこそ、今回のフェスティバルはむしろ、ことによっては直情的な拒絶や鈍感さに晒されかねないだろう、こうした危うい言葉を用いてまで賭けられた批評性に、これまであまりピンと来ていなかった方にこそ観てもらいたいラインナップだと言える。
「GEORAMA 2017-2018」は、「長編アニメーションの新しい景色」との出会いの場であると同時に、それをとらえるための新しい言葉との出会いの場でもあるのだ。