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『バーフバリ 王の凱旋』は歴史に残る娯楽超大作だーー黒澤明やジョージ・ルーカスの精神を受け継ぐ

2018年01月04日 14:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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 映画大国インドで歴代興行収入1位に輝き、さらに全米で週末興行成績3位を獲得するという大快挙を達成したインド映画、『バーフバリ 王の凱旋』。本作は、通称「ボリウッド」とよばれるムンバイ(ボンベイ)のヒンディー語映画ではなく、南インドのテルグ語、タミル語映画であり、インド映画の懐の深さを物語っている。


参考:S・S・ラージャマウリ監督が日本のファンへメッセージ 『バーフバリ 王の凱旋』特別予告編


 実際に本作を鑑賞すると、その前評判の高さをはるかに凌駕する、あまりにも激烈な面白さに驚愕してしまう。娯楽の王道も王道、いや、それを超えて、もはや“天道”を往く作品だ。興収データはもちろんだが、これはむしろ、内容の面で歴史に残るべき傑作である。まだ本作を見ていないのならば、すぐさま劇場に駆け込んでほしい。趣味趣向が多様化する現代において、ここまで年代性別問わず多くの観客が楽しめ、それでいて一つ一つの表現が極度に洗練されている明快な娯楽作品は、近年なかったのではないだろうか。


 音楽や舞踊に始まるインドの芸能文化には9つの感情表現があり、映画でもそれらの表現を文法的に利用し、様々なスパイスをブレンドするかのように鮮烈かつ複雑な、いわゆる「マサラムービー」をかたちづくる。本作は、その全てのスパイスが投入された、まさに黄金のインド映画である。とはいえ本作の面白さというのは、それだけでは到底、説明がつかない。ここでは、『バーフバリ 王の凱旋』の面白さの理由を、できる限り深く追求していきたい。


 本作『バーフバリ 王の凱旋』は、『バーフバリ 伝説誕生』の続編となる。この2部作は東洋版『指輪物語』といえるような、神話や史実から練り上げたオリジナルのファンタジックな戦記物語だ。本作のS・S・ラージャマウリ監督によって、脚本家である父親の助けを得て書かれたものなのだという。


 『伝説誕生』では、心優しく武芸に秀でた青年シヴドゥの旅と戦いが描かれる。シヴドゥは、最強の老剣士カッタッパと出会い、自分の出生の秘密を教えられる。そこから映画は、カッタッパが語る回想の物語へと移行していく。それは、インド南部の大王国マヒシュマティの王子、アマレンドラ・バーフバリが成長し、卑劣な裏切りに遭うまでの物語だ。


 驚愕させられるのは、その回想シーンの長さである。本編の3分の1以上が回想という、非常に珍しい構成なのだ。『伝説誕生』は、その回想の途中で終わってしまう。本作『王の凱旋』では、その回想の途中から始まり、なんと終盤近くまで過去の物語は続いていく。「それはもう回想じゃなく、メインじゃないか!」と思ってしまうが、この作中の語り部による叙述形式は、世界最大といわれるインドの神話的叙事詩『マハーバーラタ』にもみられる。そういった古めかしいスタイルが、本作に歴史的な雰囲気を与えているといえる。


 『王の凱旋』では、バーフバリが素性を隠し、身をやつして宮殿に住み込み、王国を救って王族の女性を妻に娶るエピソードや、親族の骨肉の争いに巻き込まれていく様子が描かれるが、これらも『マハーバーラタ』に書かれている物語に近い。それだけでなく、英国最古の文学『ベオウルフ』の英雄譚や、ディズニーアニメ『ライオン・キング』など、西洋的な物語もミックスされているように感じられ、本作の物語は、より現代的なものとして観客の心に響くものとなっている。


 目を惹くのは何といっても、プラバース演じるアマレンドラ・バーフバリ王子の、あまりにも望外なかっこ良さである。劇中歌によって「天界さえその勇姿を讃える」と強調されているように、まさにカリスマが服を着て歩いているようだ。インドの神話では、神が人のかたちで現世に顕れることがあるように、バーフバリはシヴァ神の生まれ変わりとして描かれている。強く美しい妻、デーヴァセーナに足蹴にされることを厭わず、彼女の尊厳を守るためならば地位すら捨てる。そして、母親代わりの国母シヴァガミへの忠節と献身。そこにあるのは、「イケメン」などという浅薄な価値観をはるかに超越した、インドの歴史、哲学、さらに進歩的なグローバリズムすら巻き込む圧倒的な「美」であるといえよう。


 本作で引っかかる部分があるとするなら、作品自体が王権政治を是認しているように見えるところだろう。だが、インドの哲学において「クシャトリア(王族、士族)」の義務が説かれるように、本作でも命を懸けることこそが「王族の義務」だと語られる。バーフバリが庶民とともに働き、ともに喜び、悲しむ描写で示されるのは、政治を執り行い、人の上に立ち豊かな暮らしをする者の心は、庶民とともにあらねばならず、有事の際には先頭になって矢面に立たなければならないということである。それは、部下や庶民たちを犠牲にして保身に走り、特権を貪ってふんぞり返っている権力者が多い現代にも通用するメッセージとなっているのだ。


 通常の映画であれば、クライマックスに相当するような場面が次々と繰り出されていくのもすごい。『ベン・ハー』や『300〈スリー ハンドレッド〉』、『アベンジャーズ』や『タイタニック』など、演出上でも様々なハリウッド娯楽作からの引用が多いが、それらは元の描写をスケールダウンさせておらず、場合によっては上回る表現として昇華させている。


 キーヴィジュアルの一つともなっている、裏切りに遭うバーフバリの姿は、インドや東南アジアでなどで盛んな影絵芝居を想起させ、また煙に映る宿敵バラーラデーヴァの影や、その首筋を伝わる一条の汗など、その演出スタイルは、ドイツやロシア表現主義映画の歴史をも負っていると感じられる。これだけの幅広い表現を一人の監督が自分のものとしているというのは、驚異的と言う他ない。


 S・S・ラージャマウリ監督は、人間の男が転生したハエを主人公にした異色作『マッキー』において、ハエが筋トレして腕力を高め、人間の恋敵に立ち向かったり、ハエが踊りまくる狂った描写を、質の高い娯楽作品に仕上げるという荒技を成功させている。そのような奇跡的な映画が撮れるというのは、表現力の豊さがあってこそだ。本作でも、マヒシュマティ王国へ向かう船の帆柱が、象を模した超巨大な像の足裏に引っかかるという、不安を喚起させる見事なシーンに代表されるように、表現の難しい、一つ一つのシーンにおける的確な演出が、全体のダイナミズムを支えているのだ。この才能は疑うべくもないだろう。


 国母シヴァガミが頭に燃え盛る火鉢を乗せて、歩みを止めずに寺院へ向かうという荒行のシーンより本作の物語は始まる。その途上に暴れ象が現れ、民衆が逃げ惑うなか、シヴァガミはそのまま猛り狂う象に向かって大道を歩いていくという大ピンチの描写を、前から後ろから切り返しで撮るという演出。このスペクタクル・シーンで、私が強烈に喚起されたのが、黒澤明監督の『用心棒』だった。『用心棒』で初めて黒澤映画を目にしたとき、こんなに娯楽に徹しきった面白い映画が、この世に存在していたのかという、体に電光が走るような衝撃を受けたことを鮮明に覚えている。その衝撃が、同じレベルでここに再現されている…!


 のちに『スター・ウォーズ』を撮ることになるジョージ・ルーカスは、映画を学んでいた大学時代、同級生たちの間で黒澤明監督の『七人の侍』が話題になっていたのを、冷ややかな目で見ていたという。しかし、ルーカスが実際に作品を見てみると、途端に熱烈なファンになってしまった。おそらくルーカスは、黒澤映画がここまで娯楽に徹したものだと思っていなかったのだろう。そこには「日本の精神性」のような、文化の特殊性を強調し、前面に押し出してくるような押し付けがましさはない。なかでも『用心棒』は、ハリウッド製西部劇をも取り込み、多様な表現を組み合わせた娯楽の権化のような作品である。


 『スター・ウォーズ』に影響を与えたのが黒澤映画であったことは、よく知られており、『隠し砦の三悪人』の設定を利用しているというのは、耳にタコができるほど語られてきたエピソードだが、そんなことよりも、様々な要素を取り込みながら、過激なまでに迷いなく娯楽表現への道を突き進む…そういう姿勢こそが、黒澤映画より受け継いだ『スター・ウォーズ』の本質ではないだろうか。


 本作『バーフバリ 王の凱旋』もまた、まさにその系譜に連なり、娯楽表現の極みに行き着くことで大成功を収めた、稀有な作品だといえる。ディズニー買収後の『スター・ウォーズ』シリーズは、王道の表現を離れ、独自の道を進み出したように思えるが、黒澤明監督やジョージ・ルーカス監督の精神は、本作でシヴァ神がバーフバリの肉体に乗り移っているように、S・S・ラージャマウリ監督に受け継がれたのだと思える。


 インド映画が、本作によって新たなステージへと進み、ハリウッドを含む世界の映画業界も、この作品に影響を受けざるを得ないはずだ。歴史に残るだろう、この真の娯楽超大作の出現を心から喜びながら、多くの観客とともに、劇中で叫ばれた「バーフバリ!」の歓声に参加したい。(小野寺系)