誰だって嫌いな言葉の一つや二つはあるものだ。僕も嫌いな言葉はいくつも思い当たる。というか最近は「インスタ映え」だとか「気付き」だと「なるはや」だとか、舌打ちしたくなる言葉がみるみる増えるようになった。
ついこの前までは平気だった単語が、なんだかイライラの琴線にヒットして、一撃で無理になることもしばしば。なんというか、「インスタ映え」にせよ「気付き」にせよ、馬鹿っぽいのだ。馬鹿が多用しているイメージが(個人的に)強いのである。
そして、俗にいうところの"意識高い系"なんてのも、馬鹿のカテゴリーに加えられている。(文:松本ミゾレ)
どの自己啓発本も最終的には「行動しなきゃダメ」に落ち着く?
先日、2ちゃんねるで「自己啓発本読んでる奴ってなんであんなに馬鹿にされてんの?」というスレッドを見かけた。
本文には「意識高い系として見てるのか?」とある。ご明察。その通りである。少なくとも僕だったら、ああいう本は不要だし、いちいち自己啓発セミナーなんか通ったりもしない。あんなのはただの芸人崩れがやる町のユーモア教室並みに不要だとすら思っている。
自己啓発本を読んでいる人々が、僕の周囲ではろくな結果を残せていないのがその証拠だ。スレッドの中にも、辛らつというか、真っ当な意見がいくつも見て取れる。
「3時間睡眠とか信じてそうで草生える。引き寄せの法則とか」
「引き寄せの法則もそうだけどこの手の本って結局行動しないとダメですよって言ってるだけだからな。どの本も最終的にそこに行き着いてる気がする」
「全てを理解した気になって上から目線やから」
「明日から生まれ変わる厨ってこと」
「本読んで口だけ達者で行動が伴わない奴が多いんだろ」
こんな感じで割と手厳しい。だが無理もない。世間には自己啓発本を読んでいるものの、内容までしっかり理解できていないとしか思えない人も多いからだ。
断っておくが、僕は別に自己啓発そのものをそこまで毛嫌いしているわけではない。流石に大金出してセミナーなんか通う奴は馬鹿だと思うが、書かれてあることは基本的に否定しようがないことも多いため、自己啓発自体は有益ではある。
ただし、理屈では分かっていても実践が難しいことを要求する辺りはイライラする。一番の問題は、受け手に馬鹿がいることだ。
わざわざ自己啓発してるアピールしちゃうのが痛々しい
はっきり書いてしまうが、自己啓発本を読んでいる人の中には「見て見て! 俺は今自己啓発本で学びを深めていますよ!」がしたいだけの人が多い。読書なんてのは所詮1人で楽しむものであるのに、家で読めばいいものを、わざわざスタバだの職場だので読みたがる。つまり彼らは、ポーズとして自己啓発本を利用しているだけなのだ。
それこそ「インスタ映え」のために、自分が読んでいる自己啓発本をチラッとフレームインさせたランチの画像をSNSにアップする奴もいるぐらいだし。あれじゃあ本が泣いてるよ。「こんなんじゃ鼻紙として生まれたほうがまだ意義がある」と。
"自分は自己啓発に関心があるアピール"をする奴は、はっきり言って非常にイタい。なんというか、関西人でもないのに関西弁を無理に使ってムードメーカーを気取ってる奴とか、飲みの席で「不幸な身の上乗り越え自慢(しかも大したことない)」を言って聞かせる20代前半の女の子みたいな痛々しさがある。
そんな馬鹿に目をつけられた自己啓発本が可哀想とすら思える。自己啓発本を読むなと言ってるわけではない。読書は通勤途中か、もしくは家で静かにしようね、と言っているのだ。自己啓発本読んでいる意識高い自分アピールはやめよう。