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荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第10回:ディスコが音楽を変容させた時代

2018年01月01日 10:22  リアルサウンド

リアルサウンド

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 日本のヒップホップ/ラップはストリートとクラブから生まれてきた。クラブは1980年代まではディスコと呼ばれていた。


(関連:荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第9回:ラップ以前にあったポエトリーリーディングの歴史


 日本で最初にヒップホップを専門にプレイするクラブ(ディスコ)がオープンしたのは1985年で、その渋谷「HIPHOP」には、東京のディスコの流れから、既にプレイに定評のあるDJたち、マイケル、モンチ、ユタカ、ヒロ、マーヴィン、マツなどが集まっていた。彼らのなかの数名はM.I.D.という名の下でアイドル向けのリミックスを含むプロデュースを行ったが、なによりもFM横浜開局から、平日の深夜の『MARUI 24 CLUB』という番組でミックス(ヒップホップだけではないが)を流していた影響は大きい。


 日本のヒップホップについて、藤原ヒロシ、高木完、中西俊夫、工藤昌之、屋敷豪太によって設立された、日本初のクラブミュージックレーベル<メジャーフォース>と原宿の路上でのブレイカーだけにその起源を求める向きが多い(僕自身もそう書いたこともあります)が、ディスコ期からのDJたちを決して忘れてはならない。


 前回、ジャズからロックへの時代について書いた。今回から次回にかけては、その後に現れたクラブ以前のディスコについて書く。


「赤坂の月世界通りにあったソウル系ディスコ/ライブハウス『ムゲン』で夜半までひとしきり踊ったあと、店の裏にある秘密の階段でつながった同じビル上階のディスコ『ビブロス』に忍び込むと、その夜は珍しくアイザック・ヘイズの「Shaft」風リフにストリングスが絡むファンキーな曲に迎えられた」(参考文献:佐藤薫『名声と殿堂の熱きゴシップ David Bowie and Black Music』2013年/文藝別冊)


 60年安保闘争以降の政治の季節に、革命のためにパレスチナに旅立つ前の足立正生の映画『略称・連続射殺魔』の音楽監督だった相倉久人、前回触れたフリージャズとバタイユを重ねて見ていた間章、そもそも政治運動家として出発した平岡正明、ジャズ批評を記しながら詩人でもあった清水俊彦といった批評家/オーガナイザーたちの思想と行動、もしくは白石かずこ、諏訪優、吉増剛造ら詩人たちとジャズの遭逢としての“ポエトリー”の試行が“モダンジャズ喫茶”やライブハウスといった場において起こっていた時期と重なる1966年、新宿に「ジ・アザー」という、喫茶店から転じてDJがレコードをプレイする空間が現れた。


「ここは、これまでのバンド演奏のステージを見ながら踊れるゴーゴークラブと呼ばれていた大規模のそれとは大きく違っている。まず、狭いながらも店の中央にダンススペースがあり、それを囲むように客席となるテーブル・椅子が配置されていた。そして何よりここの音楽は、レジ室の中にまとめられていた音響設備からかけられるレコードによるリズム&ブルースを主体としていた事だ。大きく引き延ばされた(ママ)テンプテーションズの写真が壁一面に張られていたことも印象的だ。(中略)ショッピング・タウンとして成長する街と、大歓楽街の歌舞伎町。文化の魅力は人々をこの街に吸い寄せる。ビート族、フーテン族、ヒッピー、に全学連。赤テントの状況劇場やフォークゲリラにサイケデリック&トリップ・アート(中略)、この「踊り場」も、そんな時代が生んだカルチャーのひとつだ。


多少おおまかに2~3年をくくってしまうが、新宿3丁目には『ジ・アザー』とともに『チェック』『らせん階段』『LSD』という店があり、角筈1丁目にも『プレイメイト』。そして歌舞伎町には『アングラポップ』『リフレクション』『ベイビーグラウンド』『ポップ』『ヤングメイト』『スペース24』『スネイク』『ナック・ザ・ボーイ』」(同掲書)


 この時期、江守藹は、イラストレーター杉村篤の歌舞伎町のディスコ「サンダーバード」の壁画を含む内装を手がけるチームに参加した。杉村篤は、90年代のクラブシーンから現れた東京スカパラダイスオーケストラの故・クリーンヘッド・ギムラ、ニューヨークの日本人バンドとしてのMIRAIやThe Blue Mountainsの杉村ロン、ザ・ゴールデン・カップスの後継者としても位置づけられるモッズバンド、ザ・ヘアーからザ・ローカルズの杉村ルイら“杉村兄弟”の父親である。1960年代、マンガ家として出発、日本でのイラストレーションを定義した一人とされる。1970年代には、彼は筒井康隆全集の装丁など幅広く活動した。現在、“日本”的な題材を扱う現代美術家として活動中だ。


 デビュー当時のキャロルが演奏していたことで有名なこの「サンダーバード」の上のフロアにあったのは、当時“ロック喫茶”と呼ばれていたカフェ「ライトハウス」であり、そこにいたDJの1人、渋谷陽一は、国内最大規模のポップ/ロックのフェスティバル『ROCK IN JAPAN FESTIVAL』を2000年から企画制作することになる株式会社ロッキング・オンを興す。


 同じ時、同じく新宿で、そのジャズの現場のひとつであったライブハウス「PIT INN」で働くことから自らのキャリアを開始したプロデューサー/ミュージシャンの阿部登は、その頃に臨むことができた風景を次のように振り返っている。


「…1968年、1969年は政治と文化の革命と混沌の時代で、政治闘争が圧倒的な警察力によって封じられた分、革命勢力は政治から文化に流れた(中略)…そんな中、アメリカ・ニューヨーク州で開かれた『ウッドストック・アート・アンド・ミュージック・フェスティヴァル』のニュースが伝えられ、日本の音楽シーンに大きな衝撃を与えた。観客数、なんと四十万人! 会場全体からマリファナの煙が立ち上っていた。


 東京でもウッドストックに触発されて、日比谷野外音楽堂でロックのフリーコンサート、十円コンサートが開かれるなど、ロック・フェスの時代が始まった(中略)…(1971年)8月6日は芦ノ湖畔の『箱根アフロディーテ』。出演は外タレ組がピンク・フロイド、1910フルーツガム・カンパニー(中略)…入場者は主催者発表で四万人」(参考文献:『新宿PIT INNからはじまった あべのぼる自伝』2012年/K&Bパブリッシャーズ)


 1968年には赤坂に「ムゲン(MUGEN)」、続いて「ビブロス(Byblos)」が同じビルの異なるフロアにオープンした。


「ソウル・ミュージック・ファンにとっては『ムゲン』が魅力的だった。まず、地下一階の客席から吹き抜けになった階下のステージやダンスフロアーが臨める構造に驚いた。ステージを見れば、より高くつくられた台で髪を振り乱して踊るゴーゴーガールの姿が。そして、なんとここのステージで本物のサム&デイブやアイク&ティナ・ターナーが見られてしまうことにも驚かされた。その時たま行われるアメリカから招聘されるメジャー・アーティストによるステージ。(中略)バンド演奏が終わると、より斬新で衝撃的な事へと移る。なんと上の階からクレーンの先に取り付けられていたDJブースが滑らかに降りてきて、DJによるダンスタイムが始まるのだ。この演出こそがディスコのDJにはじめてスポットライトをあてた事と言えるだろう」(参考文献:江守藹『黒く踊れ! ストリートダンサーズ列伝』2008年/銀河出版)


 一方の「ビブロス」ではロックがプレイされていたとされるが、それはDJが一連の流れのなかでロックに重きをおき、際立つようプレイするから目立っていたわけで、実際には当時のチャートで知られていた曲、ディスコ、それにスロウなソウル/ロックのバラードもプレイされていた。


「赤坂。
路地に入って車を止めた。人気もまばらな裏通りをビブロスへ歩く。飾りけのない打ちっぱなしのコンクリートのビルが見える。
ビブロス。
ネオンも看板もない入口にあるガラスが鈍くオレンジに光っている。一見すると何の店だか分らない外観は、秘密クラブのような雰囲気で近寄りがたい。周囲の闇からポツポツと現れる男達がその中に吸い込まれるように入っていく。
(中略)
強烈なビートが体にくる。エーゲ海の洞窟を思わせる白い階段を二階へ上がる。床から伝わるベースの振動が頭蓋骨に響いてくる。
カネを払ってフロアに出た」(参考文献:大久保喜市『ストレンジ・ブルー プラス 70年代原宿の風景とクールス』2017年/DU BOOKS)


 1968年、のちにQFRONTや横浜みなとみらいを手がけた浜野安宏がプロデュースし、赤坂にオープンした「ムゲン」では、DJブースが可動式で中空にせり出し、70年の大阪万博の幾つかのパビリオンの照明と演出も手がけた、照明アーティスト藤本晴美のサイケデリックなライトショーが随時行われていたことをあらためて書いておく。


 ディスコは、「ウッドストック」を頂点とした、マーシャル・マクルーハンによる“メディアはマッサージである”というカルチュラルな、ある種の修辞の現実化された空間でもあった。そのことはアメリカの例を一瞥する以前に、やはり「ムゲン」と並び赤坂にオープンした「スペース・カプセル」に、黒川紀章(設計)、一柳慧(構成・演出)、粟津潔(グラフィックデザイン)、石井幹子(照明デザイン)、寺山修司、石原慎太郎、谷川俊太郎(協力)が関わり、白石かずこのポエトリー・リーディングを含むパフォーマンスが毎日行われていたことからも判る。


 「ムゲン」が、DJの他に、B.B.キング、サム&デイヴに続いて、1971年、アイク&ティナ・ターナーを招聘していたことは、江守の『黒く踊れ!』にも出てきており、その様子は、半ばそこに集まるナイトライフを楽しむ新しい時代の新しい職業を持った人種と、彼らに憧れる取り巻きや子どもたちへの好奇の眼差しもあって、音楽誌だけでなく『平凡パンチ』などファッション/カルチャーを扱う雑誌でも取り上げられた。


 その2年後の1973年2月、ジェームス・ブラウンによる東京から横浜、名古屋、大阪、沖縄までの計6回のコンサートが、日本におけるソウル/ファンクの人気を決定づけた。


 ディスコというカルチャーを通して1970年代を改めて検証していく『Hot Stuff:Disco And The Remaking Of American Culture』(W.W.Norton,2010)のなかで、初めてアメリカのロック雑誌『ローリング・ストーン』に“パーティ・ミュージック”、“ディスコテック・ロック”という言葉が記事に使われたのは同じ1973年だと、南カリフォルニア大学の教授、アリス・エコルズは指摘している。流行の向きとヒットの指針としてラジオを追っていた音楽業界の人々は、ディスコ、もしくはクラブ、日本ではその始まりの時期に“踊り場”とも呼ばれていた種類の場所について注意を払っていなかった。そこでは、アフリカのカメルーンのサックス・プレイヤー、マヌ・ディバンゴの「Soul Makossa」やバーラバスの「Woman」、もしくはエディ・ケンドリックスの「Girl You Need A Change Of Mind」など、ポストR&B的な構造と歌詞を持つ曲が満員のフロアを朝方まで揺らしていたが、こうした曲はチャートにはまだ上がって来なかった。エコルズによれば、最初のディスコヒットはバリー・ホワイト率いるThe Love Unlimited Orchestraの「Love’s Theme」(1973年)である。1974年には、高橋透、松本みつぐ、モンチといったその後のシーンを牽引していくメンバーが東京のディスコのDJになっている。


 1960年代終わりから70年代後半は、ダンス・ミュージックがファンク/ソウルからディスコへと移行していって、映画『サタデー・ナイト・フィーバー』とBee Geesによるそのサウンドトラックが世界中のダンスフロアに響いた10年間だった。


 そうしてディスコをロックと比較する。ライブラリー・オブ・アメリカの共同設立者である文芸批評家、故・リチャード・ポワリエは『The Perfoming Self / Richard Poirier』(CHATTO& WINDUS,1971)において、ある章を丸ごと使いながら、1967年にリリースされた“サマー・オブ・ラブ”の象徴だったアルバム『Sgt.Pepper’s Lonely Hearts Club Band』を論じて、The Beatlesとポピュラーカルチャーの重要性について読み手に注意をうながす。


「人々はまるで、一世紀前の人々がディケンズを読むようにThe Beatlesの録音された音楽を聞くのである」


 私たちは、ポワリエが「いってみたらワグネリアンな」と「A Day In The Life」の登場人物の感情の動きについて寸評するように、例えば、Bee Geesの「Stayin’ Alive」の冒頭の数行――<オレは女たらし/話す暇はない/音楽が鳴ってる、女はあったかい>に続く、<ア、ハ、ハ、ハ、ステイン・アライヴ、ステイン・アライヴ、ア、ハ、ハ、ハ、ステイン・アライヴ>という歌詞について分析できるだろうか。(第11回につづく)(荏開津広)