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アメリカ史の裏に隠された血塗られた暗部 『ブリムストーン』が示した、新たな西部劇映画の可能性

2017年12月30日 10:42  リアルサウンド

リアルサウンド

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 いま、「西部劇」で何を語ることができるのか。


 『ドリーム』や『ズートピア』などに代表されるように、人種や性別、宗教への差別を問題にした映画が、アメリカを中心に最も作られている現在。かつてのように白人男性がヒーローとして先頭に立って脚光を浴びる映画は、差別問題に直面しているアメリカ国内でこそ、冷ややかな目を浴びせられるようになってきている。


参考:『宇宙戦争』元子役が美しき人妻に 『ブリムストーン』特別映像公開


 白人男性ヒーロー映画の原点ともいえる、アメリカ開拓時代の”旧き善き(ふるきよき)”価値観を楽しむ西部劇は、そんな状況のなか最も作られにくいジャンルのひとつとなっている。キャストに多様な人種を配したり、女性に華麗なガン・アクションをさせたりなど、時代によって西部劇の表現も変化を見せてきた。しかし、そういう部分に配慮すればするほど、当時の実際のアメリカとは、かけ離れた光景になってしまっていることも確かだ。


 このような現代的な配慮など一切無い時代の荒波に、一人放り出された女性の運命を描く、本作『ブリムストーン』は、アメリカ史の裏に隠された、女性にとって「地獄」という言葉しか見つからない、血塗られた暗部を描くことで、”旧き善き”時代の欺瞞を暴いていく画期的な西部劇である。ここでは、そんな『ブリムストーン』の凄さを伝えつつ、この作品が示した新たな西部劇映画の可能性について考えていきたい。


■アメリカ開拓時代は”男のため”のテーマパーク


 西部劇の世界を再現した超ハイテクのテーマパークを舞台にした、SFドラマ『ウエストワールド』では、そこで自分の中の「男らしさ」を奮い立たせ、自信を取り戻そうとする男性客たちの姿が描かれた。銃をぶっ放し、娼館で娼婦たちを買い、馬に乗って草原を駆ける。そのようにワイルドに振舞うことのできるアメリカ開拓時代の世界は、「男女平等」や「ポリティカル・コレクトネス(差別・偏見の助長を防ぐ表現)」などを息苦しいものだと感じている男たちにとっては、のびのびと息ができる理想の世界なのだ。


 西部劇のスター俳優であり、監督作も多数あるクリント・イーストウッドは、現実の差別行為を否定したうえで、表現の配慮が求められる最近の世間の風潮について、「軟弱な時代だ」と表現した。イーストウッドに言わせれば、西部劇が持てはやされた頃は「硬派な時代」ということになるのだろう。


 そんなイーストウッド自身ですら、主演・監督作『許されざる者』で、娼婦として男に奉仕させられる女性の苦しみを描いているように、西部劇の女性をリアリティを持って描けば、必然的に陰のある存在として表現されることになってしまう。実在の女性ガンマン、カラミティ・ジェーンなどのような例外的な人物もいたが、この時代に生きる多くの女性たちにとっての自己実現とは、往々にして有意義な仕事を成し遂げる男を、内助の功によってサポートするというものでしかあり得ない。その犠牲の下、男たちはヒーローになることができるのである。いま西部劇が衰退してきているというのは、そんなヒーロー神話が、社会通念の進歩によって効力を失いつつあるからである。


 女性を主人公にした本作『ブリムストーン』は、西部劇がそんなジャンル映画であるからこそ、時代の閉鎖性そのものと戦う女性の姿を描いていくという、逆転の発想で作られている。だから現在の映画の風潮は、むしろ本作にとっては追い風となっている。


■一人の女が直面する衝撃の物語


 『アイ・アム・サム』や『マイ・ボディガード』、『宇宙戦争』などで、天才子役として人気を得たダコタ・ファニング。名優デンゼル・ワシントンや、映画監督スティーヴン・スピルバーグは、その小さな姿から繰り出される「老練」な演技に、最大限の賛辞を贈っている。成人してなお、いまだ少女のような可憐さを残す彼女は、やはりその若さに反し、あらゆる辛苦が襲う暗黒の時代を生き延びてきた女性・リズを、説得力ある演技で体現していく。


 リズが小さな田舎の村で、夫や子どもたちと平凡に暮らしている描写から、本作の物語が始まる。リズは言葉を発することができないため、家族との会話は手話で行っている。助産師として献身的に働くことで、彼女への村人の信頼は厚い。その村に、ガイ・ピアースが演じる、異様な迫力を持った謎の牧師が現れることで、この平凡な生活の歯車が狂い始めていく。


 牧師はリズに異常に執着し、「お前の罪を罰する」と伝える。彼は一体、何者なのか。リズの犯した「罪」とは何なのか。そして、リズが言葉を話すことができなくなったのは何故なのか。それらの謎は映画が進むにつれ、過去に遡った衝撃の物語が描かれることで、徐々に明かされていく。


■目を背けずにはいられない、容赦ない残酷描写


 13歳の頃のリズ(エミリア・ジョーンズ)は、ある事情から荒野を一人さまよっていた。身寄りのない彼女は娼館に売られ、自分の意志に反して、幼い年齢で男の客に性的なサービスをする娼婦としての生活を余儀なくされる。娼館で働く女たちは乱暴に扱われ、客の求めに反抗すると、苛烈な制裁や虐待が加えられる。契約の法によって縛られた彼女たちを助けてくれる者はどこにもいない。そればかりか、彼女たちが通りを歩いていると、「ふしだらな女は地獄に落ちるぞ」と罵倒されることすらある。


 こういう時代に抑圧されていたのは、娼館で働く女ばかりではない。本作では物語のなかで、家庭でも妻や娘などの女が”厳格で保守的な”父親によって、理不尽な虐待にさらされていた状況が描かれる。男に反抗することで鞭で打たれ、口答えができないように、顔を覆う金属製の奇妙なマスクを装着させられる。もちろん、当時でもそのような目に遭っていた女性は少ないはずだが、ここで表現されているのは、そのような異常な支配欲を持った男がいたとしても、この世界においては逃げる手立てが見つからないということだ。


 男への献身、理不尽な虐待、不公平な裁き。リズは法の下に、そして神の名の下に「男の世界」に従わされ、あらゆる責め苦を受ける。そんなリズの悲痛な境遇は、まさにこの時代に生きた女性たちの受けた不幸を、代表して体験させられているようだ。そのなかには、思わず目を背けてしまうようなものも含まれる。だが、それが残酷であればあるほど、娯楽映画にありがちな救出が行われないからこそ、描くことに意味が生まれるはずである。


 反抗の声を発することも、救いを求めることもできない。本作のリズが、声を失った女性として描かれているのは、当時の多くの虐げられた女性たちが、社会から無視され、屈辱を感じながら虐待を受け続けなければならなかったことの象徴となっているのだ。


 しかし、これは過去だけの問題にとどまらないだろう。ハーヴェイ・ワインスタインによるセクハラ・性的暴行事件に端を発し、同様の被害をSNSなどで公にうったえようという運動が世界的に広まるなど、性的な事件の被害を受けた人々が声を上げやすい環境を作ろうという動きが出てきたが、それは被害者の側が勇気を出さなければならない状況があることの裏返しである。声を上げにくい要因のひとつとして、社会にまだまだ旧弊な偏見が存在しているのだ。


■世界中で甦り続ける亡霊との戦い


 ハワード・ホークス監督の西部劇『赤い河』や、ジョージ・ミラー監督『マッドマックス 怒りのデス・ロード』で描かれたのは、「父性的なるもの」が、自由を求める人物をどこまでも追ってくるという構図だった。本作では、それが狂信的な牧師というかたちで表現されている。彼はイーストウッドによる西部劇『荒野のストレンジャー』や『ペイルライダー』がそうであったように、もはや生きた人間ではなく、亡霊や「観念そのもの」としてリズを追い詰めていく。それは、どこへ逃げたとしても、同じような男性優位の価値観によって差別や偏見の目にさらされてしまう、女性の境遇を描いているように感じられる。


 リズの救いであり希望となるのは、自分の子どもたちだ。彼女の一人娘もまた、そのような独善的な父性の脅威にさらされる。リズの娘も、そしておそらくはその子孫たちも、女性や何らかのマイノリティである限り、保守的な価値観と戦う運命にあるだろう。


 ロナルド・レーガンやドナルド・トランプが掲げた「メイク・アメリカ・グレート・アゲイン(偉大なアメリカをふたたび取り戻そう)」という政治的なスローガンは、社会のなかで差別を受ける可能性のある市民に、ある種の恐怖感を与えたようだ。一部の市民の発言によると、その理由は、古い差別意識を背景に、実際に多くの人権が剥奪された歴史までをも甦らせようとしているように聞こえるからだという。本作は紛れもなく、そんな現在の問題に連なってくる映画である。


 本作の監督は、オランダ出身のマルティン・コールホーベンだ。そして、アメリカとヨーロッパ7か国が共同で制作する、国際的なプロジェクトであるように、本作で描かれた問題は、アメリカのみならず、多くの国に共通する普遍的なものである。リズと亡霊との戦いは、世界各地でまだ継続されているのだ。(小野寺系)