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西尾維新原作〈物語〉シリーズはなぜ抗いがたい感動がある? 評論家が『終物語』を語り尽くす

2017年12月29日 12:12  リアルサウンド

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 TVアニメ『終物語』のBlu-ray&DVD「第八巻/おうぎダーク」が、12月27日より発売されている。本作は、2009年にTVアニメ化された、西尾維新原作〈物語〉シリーズのファイナルシーズン。阿良々木暦が“何”でできているかを知る物語にして、すべての“始まり”を知る物語である『終物語』の完結編だ。忍野扇と対峙していた暦が、彼女が何者なのか、その正体を突きつける模様を描く。自らの消滅を悟りながら、いつも通りの薄笑いで言葉を紡ぎ続ける扇に、暦が最後にかける言葉とは……。


参考:西尾維新原作『続・終物語』2018年にアニメ化 キービジュアル&ティザーPVも公開


 原作、アニメ共に熱狂的なファンを獲得し続ける〈物語〉シリーズは、なぜここまで大きなコンテンツになり得たのか。リアルサウンド映画部でも執筆中の物語評論家のさやわか氏に、その魅力をアニメと文学の歴史との関係性から紐解きつつ、徹底的に論じてもらった。(編集部)


■「新房昭之監督は“アレンジメント”のアニメを製作していた印象」
ーー〈物語〉シリーズと出会ったきっかけを教えてください。


さやわか:元々『ファウスト』や『メフィスト』といった文芸雑誌や、『ファウスト』の編集長であった太田克史さんが立ち上げた講談社BOXシリーズが好きでした。西尾維新さんの小説も、『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』、つまり戯言シリーズから読んでいて衝撃を受けました。


ーー西尾さんが出てきた時、文芸界隈ではどのような扱いだったのでしょうか。


さやわか:あの作品って、ミステリーのカテゴリに入ると思うんですが、振り返ると西尾さんが登場する10年ほど前から“新本格ムーブメント”がありました。つまり松本清張のように「犯人が殺人を犯したのはこういう背景があった」という社会派のミステリーと、トリックが重要な本格ミステリーという2パターンを経て、「トリックを重視しつつ、古典的なミステリーのお約束を踏まえる」小説が生まれていたんですよね。ところが、そういうフィクションのお約束を意識した時代を経た結果、もはや現実には不可能なレベルの密室トリックが登場したり、名探偵と呼ばれる人が、異常なくらい明晰な頭脳を持ったヒーローのように描かれちゃうという、いってみれば漫画みたいなミステリーが次第に出てきていました。西尾さんはそのさらに後の世代に当たる方で、「別にもう漫画みたいでもいいじゃん」という前提のもと、次々とキャラが立った作品を執筆した人だと思うんですよね。『メフィスト』は新本格ミステリー以後、そうやってライトノベルと文学の接点を作り上げていったわけですが、いわば西尾さんはその決定打となった人なんです。特に、彼の書く小説は、明らかにアニメや漫画のようなものを描きながら、最終的には抗いがたい感動がある。そして、それがなぜなのか説明しにくい。だからこそ評価を受けた部分はあると思います。わかろうとするんだけど、わからない。だから、読み続けてしまうんです。そんな彼が、作家としてさらなる飛躍を目指したはずの〈物語〉シリーズは、僕の中では大きな期待から始まりました。


ーー〈物語〉シリーズ最初の作品である『化物語』は、どのように受け止めましたか。


さやわか:このシリーズも先に話した戯言シリーズと同じで、主人公の阿良々木暦くんの周りで、“怪異”という事件が起こり、そこに介入することで新たなイベントが発生していきます。「名探偵がいるせいで殺人事件が起きちゃう」というミステリーでおなじみの矛盾ですよね(笑)。こういうお約束は、ミステリーではたとえば法月倫太郎の『頼子のために』なんかで追求されてきたテーマに近いわけで、言ってみればこれを青春物語に置き換えているのが〈物語〉シリーズだと思います。つまり阿良々木くんがほかのキャラにちょっかいを出すから物語が動いてしまう、ということをテーマにしている。そこがまず面白かったですね。


ーーアニメ化されると聞いたときはどう思いました?


さやわか:西尾さんの作品は特徴的で、同音異義語を使ったり、言葉遊びが多かったり、シャレがきいてたり、やたら長ゼリフがあったりするので、そもそもアニメ化するのは、難易度が非常に高いはずだと思いました。それらの書き言葉をアニメーションとして、話し言葉のセリフにすることで、作品の世界観が成り立たなくなってしまうはずなんですよ。でも、新房昭之監督が挑戦すると聞いて、期待を抱いていました。そして実際の作品を見た時には「アニメとしてすごく新しい!」と驚きましたね。


ーー新房監督の作品については、どのような印象を持っていましたか。


さやわか:アニメの表現も変遷しているなかで、新房さんは2000年代の半ばぐらいから、はっきりと違う方向性を見せつけるようになっていました。ゼロ年代アニメって、ざっくり言えばシャフト的なものと京アニ(京都アニメーション)的なものに分かれていったと思うんです。どちらも特徴的なんですが、とりわけ新房さんって、ジブリとかがやってきたような古典的な“アニメート”を重視するもの、たとえば人物の周りをカメラが回り込んでいったり、キャラが粘土のように変形するような、運動の面白さではないやり方の代表例のようなところがあったんですね。画面があって、そこにものを配置して横から見たような画、言い換えると平面性を重視した“アレンジメント”のアニメを製作していた印象です。あと、彼は『ぱにぽにだっしゅ!』あたりから“総監督”という肩書を使用していますが、まさに彼の仕事は監督であると共に“総監督”だなと感じます。一般的なアニメ監督って、自分もいちプレイヤーであることが多いんですが、新房さんは面白い・新しい才能をちゃんと使おうという、コンダクター(指揮者)のようなところもあります。作家性がものすごく高いのに、スタッフィングも上手くて操縦もできる。そこに彼の凄さを感じますね。それは〈物語〉シリーズだけではなく、『魔法少女まどか☆マギカ』などにもいえることですが。


 また一方で新房さんは、いかにもな“アニメっぽい感覚”を絶対に捨てない。単純に言えば、尖った作風と“エロさ”や“萌えっぽい感じ”、すなわちアニメという表現の猥雑さを両立させることにプライドを持っている。それゆえに〈物語〉シリーズは、渡辺明夫さんがキャラを描いて、新房さんが総監督を務めることで、西尾維新の作風、世界観がうまく出せたのだと思います。もちろん尖った映像表現でゼロ年代アニメにおける一つの典型を作り、後進の作品にも影響を与えていますが、ただ尖っているだけではない。艶かしいアニメでもあるんです。これは新房さんが、原作の雰囲気を汲みながらも、猥雑な“アニメっぽい感覚”を削ぎ落とさずに描いたからこそだと思います。


■「〈物語〉シリーズは、ギャルゲー的な構造の物語」
ーー『化物語』の第1話を見た時の、率直な感想を教えてください。


さやわか:〈物語〉シリーズの原作はリアルタイムで読んでいたので、どんなストーリーをやるかというのは知った上でアニメを見ていました。そのため、頭の中で想像していたものとは、やはり全然違うなと思いましたね(笑)。(戦場ヶ原ひたぎが落下するシーンで)「こんなに降ってくるの?」みたいな。あと、町並みがロードサイドと新興住宅地の続く、ゼロ年代的な郊外っぽく描かれているのも面白かったです。しかし色んな意味で原作と違う部分はあるんですが、少なくともこの作品においては、そうした表層的な部分に本質はないんだということを新房さんは見抜いていたと思います。その証拠に、“西尾維新の言葉”を何よりも大事にしていますね。今は見慣れてしまったけど、あんなに言葉の多いアニメは当時なかったし、削ってはいるものの、長いセリフをあえて効果的に使っている箇所もあります。


ーート書きの使い方も絶妙でしたよね。


さやわか:それも上手いですよね。先述した同音異義語についても、文字で表示する演出を積極的に、しかもスタイリッシュに取り入れていて。言葉を大事にするなら音声だけでも、と思われるかもしれませんが、アニメーションであるからこそ成立する作りになっています。


ーーこの作品の特異性というのは、色んな切り口から分析できると思うのですが、さやわかさんは特にどのあたりに魅力を感じましたか?


さやわか:まあヒロインがいっぱい出てきて彼女たちのトラウマをたどっていく話ですから、いってみればギャルゲー的な構造の物語なんです。ただそれをミステリー的な形式をうまく使いながら展開させているのが面白いと思いましたね。そしてさっき言ったように、かといって猥雑な部分、つまり “女の子が可愛い”ということからは絶対に逃げないんですよね。たとえば、羽川翼の胸が強調されるところとか。そういうエロティシズムやB級な感じって、アニメというカルチャーの面白い部分を作ってきたものだと思うので、そこをブラさないのが新房さんと西尾さんの共振している部分なのかなと。


ーー〈物語〉シリーズは、各ヒロインたちが抱えるトラウマに対して、主人公(阿良々木暦)がともに立ち向かっていくけれど、最終的にはヒロイン自身が自分で解決するというお話です。キャラクターの振り下げ方が深かったり、オチに教訓的な意味合いも含まれていたりと、キャラクターに共感する部分もたくさん描かれていますよね。


さやわか:青春ものだから当然と言えば当然ですけど、それぞれのキャラクターが抱えている怪異の原因は、親やクラスメイトなど、身近で生活感ある事柄なんですよね。そこが共感を呼ぶところなのでしょう。西尾さんの作品は、同じ決めゼリフを繰り返し使うことが多いですけど、このシリーズだと忍野メメのセリフ「人は勝手に助かるだけなんだ」なんかが、あれだけの重みを持って使われていることで、結局自分がなんとかするしかないという人生訓、共感を呼ぶメッセージになっていますよね。


ーー確かに、そのスタンスはシリーズを通して共通していますね。


さやわか:そして“常に他人である女の子たちのことを思い、助ける”という主人公の在り方もまた、ギャルゲーを彷彿とさせるものです。でも、そういう構造の物語だと、「主人公は、一体なんでそんなことをしているの?」という疑問が出てくるんですよ。これはまさに、ミステリーの名探偵がことあるごとに殺人事件へ遭遇してしまうのと同じで、フィクションのお約束が生む矛盾なんです。だからこそ西尾さんはそこをごまかさずに、それを乗り越えることをシリーズ全体のテーマにする。それで阿良々木くんのことを完全に見抜く対立構造として、臥煙伊豆湖が登場するんですよ。彼女は“自助的なことをやらない人間はダメだ”というタイプで、阿良々木くんの曖昧な態度を追い詰め、ケツを叩く存在なんです。また、忍野メメがシリーズの序盤で姿を消したのも、阿良々木くんが自分のために生きようとしないからですよね。だからこそ、最後に阿良々木くんが自分のための決断をした結果、忍野メメが戻ってくるというシーンはめちゃくちゃ感動する展開なんですよ。


ーー忍野メメの再登場シーンは、シリーズにおいてもハイライトといえる爆発力でした。


さやわか:西尾さんの小説を読んでいると、時折「この人はタイミングを図って書いてるんじゃないか」と思うことがあります。僕は漫画の仕事もしているのですが、漫画って、ページをめくった瞬間に見開きを用意することで勢いをつけたり、コマの大きさで波を作ったりするんですよ。西尾さんは小説で、それを表現しているんじゃないかと思います。読んだ時に何行目でこれが来たら気持ちいいかを計算して、展開をリズムよく書いているんですよね。


ーー確かに、原作は緻密に構成されていて、テンポも良いですよね。


さやわか:アニメ版では、原作にあるタイミング性とテンポ感を綺麗に汲み取っています。だから、平面性があって動かないアニメなんだけど、すごく気持ちがいい。「黒駒」という文字だけの画が一瞬挟まれるところも、そのリズム感を助長しています。〈物語〉シリーズは、「アレンジメントの効いたアニメというのはテンポ感が大事」という、10年代にいたるまでのアニメにおいて一つの潮流を作ったんじゃないですかね。


ーーそれらの点を踏まえて、〈物語〉シリーズは、アニメ史においてどのような位置付けだと考えますか。


さやわか:まず、商業的な意味合いでは、この作品はBlu-rayのヒット作として先鞭を付けたはずで、アニプレックス社のパッケージビジネスという点で唸らされる作品です(笑)。販売戦略としては新聞の一面広告なんかもありましたね。ファンでない人がその広告を見ても、〈物語〉シリーズに興味を持つことは、ほぼないと思うんですよ。でも、ファンは「俺たちの〈物語〉シリーズは、新聞の一面広告を出すような面白いことをやってくれる」とワクワクできますよね。そういう、ファンのコミュニティを大事にしながら作品を盛り上げていくやり方が、この作品から広がっていったように思いますね。


ーービジネス面以外ではどうでしょう?


さやわか:音楽面での革新も大きいと思います。主題歌を含め、カラオケの上位にいまだに入ってくる曲が多いですしね。ヒロインごとに楽曲が用意されて、それが作品と完全にマッチしつつ、楽曲としての完成度がきわめて高い。今どきそういう作品は珍しくなくなりましたが、その間口を開いたのが〈物語〉シリーズと言えます。


■「すべてのキャラクターや伏線に対して、決着をつけに行く物語」
ーー確かに、音楽面でも間口を広げた作品ですよね。あと、個人的な主観ですが、好きなアニメとして公言してもあまり叩かれない印象です(笑)。


さやわか:オシャレで尖った、アート的な要素も感じられるからですかね? でも、よく見るとエロいアニメなんですけどね(笑)。ただまあ、先ほどから話しているように、西尾さんの小説自体がそういうものですからね。衒学的に思えたり、もってまわったような一癖ある文章で彩っているにも関わらず、漫画のようにキャラの楽しさと外連味あるテンポ感で展開させていく。そういう、背伸び感とエンタメ感の両立した感じって、まさに青春という感じで僕はいいなあと思うんですよ。しかも結局はそれが抗い難い面白さを生み出す。もちろん尖った要素だけに注目すればいくらでも難しく語れるので、そこにアニメ評論家やアニメライターは飛びつきやすいわけですが、最終的には「とにかく面白い」しか言わせない、圧倒的なエモーショナルさがあります。


ーー評論家であっても、「面白い!」の一言で終わらせたくなると。


さやわか:僕は本質的にそういう作品だと思っていますね。でも、もちろんアニメーションとしての面白さは存分にありますよ。たとえば、“シャフ度”(シャフト制作のアニメで多く見られる演出・キャラクターの首の角度の付け方)がどうして必要になるかだって、キャラクターへ極端に寄った画を急にインサートしつつ、振り向きや角度の変化という映像的な動きをつけてリズムを作っていると説明付けることはできる。先ほど話した、平面的である(=動かない)ことを意識しながらも、フィルムにテンポを付けるために施す手法ですよね。


ーーあのカットが入ることで、緩急が付く場面も多いですよね。


さやわか:会話途中の無意味なタイミングでシャフ度が入るのは、長台詞のなかで一拍置くタイミングであることがほとんどなので、それを裏付けているといえます。


ーー確かに。この作品は、2010年以降のアニメの速度感を決定づけたという印象です。


さやわか:アニメ制作の現場は、どんどん体力勝負かつ時間勝負になっているので、いかに“エコノミーにアニメを作るか”も必要ですよね。結果としてですが、新房さんの“アレンジメント的なアニメ”は、その解決法の一つになりました。CGを使ったシーンも、あえてCGっぽさをわかりやすく出すことで、その不自然さがかえってアーティスティックな、尖った表現に見えるように使っていますし。


ーー『終物語』についてもお聞きしたいのですが、特に印象深い回はありましたか。


さやわか:すべて面白いんですが、『終物語』に関してはやはり忍野扇とは何者なのかという最後の展開を挙げざるを得ないですね。なぜこのキャラクターが出てこなければならなかったのか、その伏線が一気に回収される場面は爽快でした。あと、過去のシリーズではミステリーであることは潜在的なことだったのに、このシリーズに関しては、序盤でこれがミステリーであることを宣言するのも、なんだか象徴的に思えて面白いポイントでした。


 『終物語』は、今まで登場したすべてのキャラクターや伏線に対して、決着をつけに行く物語です。その大団円をしっかりと成し遂げ、キャラクターを無下にしないところにも感動しました。


ーーここで一度お話は終わりましたが、原作はまだ精力的に出続けているのも、今後の展開的には気になりますね。


さやわか:一応、阿良々木くんを主人公とした青春ものとしては終わっていますけど、〈物語〉シリーズというか西尾維新作品の重要な点は、メインのストーリーがどうなろうと世界は存在するし、キャラクターは生き続けるということなんですよね。だからまずは『続・終物語』をやって欲しいですね。カーテンコール的にもいいですし、西尾維新作品のキャラクターの可愛さへの抗い難さを感じて、「いや、俺は別にそういうつもりではなかったんだけど……」と思いながら見たいです。『続・終物語』は全力でそう思わせてくれるお話なので(笑)。(取材=泉夏音/構成=中村拓海)