トップへ

“17歳の大林宣彦”による映画への誓い 荻野洋一の『花筐/HANAGATAMI』評

2017年12月25日 16:02  リアルサウンド

リアルサウンド

写真

 クランクイン直前にロケ先の病院で余命3ヶ月を告げられた末期ガンの映画作家が、3時間にもおよぶ華やかな青春映画を豪快に撮り上げてしまう。『花筐/HANAGATAMI』では、にわかには信じられないことが本当に起こってしまっている。と同時に、どの1カットを見ても、この映画作家のものであることがたちどころに分かる。つまりこれまでと変わらぬ大林宣彦の映画がそこにある。本人は「ガンのおかげで緊迫感のある映画になった」と述べているようだが。


参考:大林宣彦監督の圧倒的な執念ーー『花筐/HANAGATAMI』の幻惑的で自由な映画世界


 若き日の檀一雄が1937年に発表した短編小説「花筐」の映画化を大林が企図したのは、なんと今から40年以上も遡ること1975年。初の劇場用映画となった『HOUSE ハウス』(1977)以来、すべての大林映画がこの「花筐」に先んじる形で実現していった作品たちであり、じつは彼のフィルモグラフィが潜在的に「花筐」映画化断念の歴史であり続けたことに改めて気づくとき、遙かなる感慨と共に溜飲が下がる思いに囚われるのは、映画作家本人だけではなく、大林映画を見続けたファンもそれは大なり小なり同じだろう。大林を息子のように可愛がった黒澤明監督は、かつて彼にこう述べたという。「おれにだって、映画にしたい企画の二十や三十はいつでもあるよ。だけども、そのどれをやるかだけは、おれには決められないんだ。映画にも果実と同じで、それが実るべき旬があるんだね」。


 とすれば、完成、公開のはこびとなった現在こそ、映画『花筐/HANAGATAMI』の実るべき旬ということになる。その旬が、映画作家にとって末期ガンによる余命宣告と共に訪れるという事実は皮肉なことであるし、また、戦時の若者たちの心痛や自由への渇望をえがく本作にとっての旬が、戦争法案の強行採決と軌を一にしたという事実にも、歴史の皮肉と思わずにはいられない。戦前日本のモダニズムが3時間にわたって猛威を振るうという本作のありようは、現代日本への痛烈な批判ともなってくる。戦前の浪漫主義、虚無主義、耽美主義、少年同士の同性愛、少女同士の同性愛、生の爆発と死への欲動。そうしたものが渾然一体となり、画面の中を稲妻のごとく暴れ回る。古いと同時に新しい。他の作り手にはマネはできないだろう。


 戦時の若者たちの苦悩、死への覚悟、自由への渇望が描かれているからといって、作品は巨匠タッチによって重くたわんだりするわけではない。ここでもやはり、画面と音響は呆れるほど大林的で、落ちつきのないカット割り、滑稽さ一歩手前の間欠フリーズ処理、手作り細工風の特撮、しつこく繰り返されるスライドインによる場面転換、主人公・榊山を演じた窪塚俊介の失笑を呼び込む大仰な「少年的」演技、『HOUSE ハウス』以来おなじみの少女たちの「少女的」演技。大林映画に対する苦手意識も生んだこれらの特長は、今回も3時間にわたってまったく途切れることなく持続し、加速する。しかも、そもそも榊山は17歳の大学予科(いわゆる旧制高校にあたる)の生徒という設定なのに、演じているのは現在36歳になる窪塚俊介である。彼の同級生たちとなると、驚くなかれ、42歳の長塚圭史をはじめ、28歳の満島真之介、同じく28歳の柄本時生。彼らを17歳の学生という役に押し込めてしまう大林宣彦の力技、というより筆者に言わせれば、これは極度のロマンティシズムの発露による狂気だと思うが、とにかく42歳も36歳もみな、17歳の大学予科の生徒であり、みな美しい少女に恋をしており、そして何より大林監督自身がつねづね述べているように彼らは皆「僕の分身」なわけであって、そのとき大林宣彦自身も17歳になっている。


 滑稽な間欠フリーズ処理も、スライドインによる場面転換も、初めて8ミリフィルムカメラを手に取ったときの喜びが奇跡のように保存され、生徒たちのみずみずしい生の輝き、若さの浪費と死への欲動と、カメラを持った初心の歓喜が、夢の中でのように接続され、快感と悪夢がなんども、なんどもリフレインされる。映画手法も、原作小説へのこだわりも、自身の青春の思い出も、保存パックの中で発酵した登場人物たちの非現実的な年令設定も、すべてがすべて、大林宣彦の脳内で反芻され、渾然一体となる。ギリシャ神話のようなりりしさをたたえた満島真之介が、窪塚俊介を促して共に全裸となり、真夜中の海岸で馬に相乗りして疾走してみせる場面の詩情は、もはや無時間的、夢魔的時間と化している。彼らは一通り馬を走らせ、再びまったく同じ場所で馬から下りる。たった今の疾走などまるでなかったかのごとく。


 肺病を患う16歳少女・美那(矢作穂香)の青白くはかなげな美しさは、主人公たちの性の衝動と死への欲動を同時に加速させる。檀一雄の原作短編では、肺病で命を落とす美那の後を追って、美那の兄嫁(この兄もやはり肺病によりすでにこの世の人ではない)が海中で自殺する。少女とその義姉のレズビアン的愛情がこうして最後に謳歌されて終わるが、映画の『花筐/HANAGATAMI』はそれだけでは終わらない。この兄嫁(常盤貴子)を中心に、邸宅でのパーティが2度にわたって開催され、愛のさや当てが行われたあげくの果てに、戦争=殉死の輪舞が舞われるのだ。映画の中で、少女の美那が、自分の病死も戦死のひとつだと、殺されていくであろう男子の皆に後れを取ることはせぬと、それとなく口走る場面がある。このあたり、大林宣彦の長年の原作小説の寝かせぶり、熟成のさせぶりには舌を巻く。小説の浪漫的、厭世的な世界観がより大きな死生観に成長している。一人生きながらえて、美那の墓石に号泣しながらむしゃぶりつく老後の主人公・榊山による現在時制モノローグを挿入することで、老境に達した映画作家本人の自伝性を加味し、また、神話的桃源郷の中で死生を完遂し得なかった自己への醒めた諦念をも接ぎ木する。みごとだと思う。


 本作は後半に行くにしたがい、オペラのように連鎖的な盛り上がりを見せ、すべての要素がさしたる根拠がなくとも強引に接続される。振りすぎた花束からこぼれ落ちる一枚の赤い花びらが、美那の喀血のイメージとなり、卵の殻で飲み干そうとした赤ワインをこぼした染みとなり、処女膜が破れた際の少女の白い足をつたう一筋の血となり、義妹の喀血した血液を吸う常盤貴子の吸血鬼的イメージに結びついていく。そして、それが単に物語説明に終始せず、なんどもなんども回帰し、ワーグナーの楽劇のようにしつこくリフレインされるのだ。


 常盤貴子の亡き夫が戦病死する前によく弾いたバッハの無伴奏チェロの音色と、オーケストレーションによる映画の劇伴が重層化して鳴り響き、そこに満島真之介の所有物である横笛の音が加わり、彼らの英語教師(村田雄浩)がハーモニカで吹いていた歌曲の哀愁漂うメロディが加わり、舞台となった唐津市の秋祭り「唐津くんち」の祭り囃子が加わり、そしてそもそもこの物語全体の最初の出所である、世阿弥による狂女物の能楽『花筐』の囃子までもが加わって、重層化し乱反射する、えもいわれぬ音の洪水が画面内にインフレーションを引きおこす。絢爛たる文化の総合と肯定もできるし、総花的な金ぴか伴奏と否定もできる。ただただ音という音が乱反射し、一本の生命の糸の逃げ場を確保しつつ、全体としては互いに反発しながら融合しつつインフレと化し、あたかも登場人物たちは音=映像の洪水の中で溺死していくかのようだ。


 喀血死=溺死=戦死そして殉死。これは生のきらめきへの憧れであると同時に殉死についての映画でもある。再び戦争を繰り返さぬための、平和の誓いに対する殉死であり、生涯を賭した記憶の牢獄たる映画芸術というものへの殉死の誓いでもある。より良き殉死を求めて、大林宣彦は次なる新作の準備を始めたそうである。映画は剣よりもガンよりも強し。(荻野洋一)