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小野寺系の『最後のジェダイ』評:ディズニー帝国の『スター・ウォーズ』に新たな希望は生まれるか?

2017年12月21日 06:02  リアルサウンド

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 1977年にアメリカで第一作が公開されて以来、映画の枠を越え世界中で社会現象を巻き起こし続けてきた『スター・ウォーズ』シリーズ。ルーク・スカイウォーカーとダース・ベイダーの戦いを描いた「旧三部作」、将来を嘱望されたジェダイ、アナキンがフォースの暗黒面に堕ちていく「新三部作」がいままでに作られ、それら二つのシリーズを生み出したジョージ・ルーカス監督の手をはなれた、ディズニー買収後のルーカスフィルムによる新たな「続三部作」が現在制作中である。本作、『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』はその2作目にあたる。


参考:「間違いなく僕自身の映画だ」 『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』ライアン・ジョンソン監督インタビュー


 『スター・ウォーズ』シリーズは、公開されるたびに議論を巻き起こし、その出来栄えに世界中のファンが振り回されてきた。しかし、なかでも今回の『最後のジェダイ』は異例だ。その評判は面白いようにきれいに真っ二つ、「最高傑作」とまで言う観客や、逆に「ワースト作品」となじる観客もおり、現時点で賛否両論の事態となっている。どうしてそのような状況が生まれたのか。そして、実際の作品の中身はどうだったのか。いままでの『スター・ウォーズ』の歴史、また本作の描写や制作の背景にも踏み込んで、じっくりと作品の評価をしていきたい。


■「旧三部作」「新三部作」とは何だったのか


 本作について語る前に、まず前提となる旧三部作、新三部作を振り返り、本作が公開されるまでの複雑な経緯を確認しておこう。


 「デス・スター」と呼ばれる圧倒的な破壊兵器を使った大量殺戮によって抵抗勢力を消滅させ、恐怖支配を進める帝国と、銀河系の自由のために命を懸ける反乱同盟軍との戦いを描いた、ジョージ・ルーカス監督による旧三部作は、多くの観客に高く評価されるシリーズだ。ジョージ・ルーカス監督が学生時代に出会い心酔した黒澤明の時代劇をはじめ、戦争映画や西部劇、膨大な兵器やガジェットの設定などをベースに、かつてない迫力とリアリティ、高い娯楽性を実現させたスペース・オペラに仕上がっている。3作目となる「エピソード6」は、テディベアのような可愛い姿のイウォーク族が大活躍するなどファミリー的な要素を強めたために、一部のファンの拒否反応を生んだ面もあったが、そんな文句が出てくるのも、総じて質の高い作品であることの裏返しであろう。


 その後、ふたたびジョージ・ルーカスによって作られた新三部作は、共和国が治める古い時代が舞台となる。フォースの「暗黒面」の使い手である「シスの暗黒卿」は、共和国軍と分離主義派との戦いを陰から操作し、共和国を内部から食い破ることで独裁政権の成立を目指す。この陰謀と、引き起こされる深刻な悲劇を描き、ファシズムの台頭やアメリカの帝国主義への批判を表現しながら、シリーズの爆発的な人気によってジョージ・ルーカス自身が権威化していったという、自己言及もはらんだ内容は、より作家主義的で新しい試みを行った、真に”チャレンジング”なものとなっている。


 この新三部作は、新しい世代のファンを多く生んだ反面、旧作からの一部のファンに不評を買った部分もあった。旧三部作の持っていた無骨なデザインの美しさや、かつての明快さなど、多くの魅力が失われたというのだ。たしかにそういう部分があるのも事実だ。そして続編の制作を引き継いだディズニーは、今後のビジネス展開などを含め、より多くの観客に受け入れられる「単純明快な『スター・ウォーズ』」を作っていくという方針を選んだように感じられる。


■新シリーズ「続三部作」の抱える問題とは


 もともと今回の「続三部作」企画立ち上げ時に、ディズニー側とジョージ・ルーカスは、自らが監督するかどうかを含め話し合いを行っていたという。それが頓挫し、当初から存在したルーカスによるエピソード7~9の構想も採用されず、制作からルーカスを事実上排除したかたちで、新しいシリーズは作られることとなった。ルーカスの発言によると、懐古的な内容のシリーズを作りたがるディズニーと意見が合わなかったための決裂だという。


 そうやって完成した『フォースの覚醒』は、必然的に懐古的な内容となった。それは、新三部作に不満を持ち、旧三部作を愛するがゆえにジョージ・ルーカス監督を憎んでもいた一部のファンにとっては、旧年来の望みが叶った作品だと感じられたかもしれない。だがこれは、一つの映画作品というよりは、旧シリーズの魅力に依存したアトラクションとしての意味が強かったことは否めない。


 ストーリーにおいても、新三部作と旧三部作で長きにわたって描いてきた「恐怖政治の打倒」という達成は、今回のシリーズではあっさり反故にされてしまい、「ファースト・オーダー」という帝国軍の残党組織が、銀河系の覇権をいきなり握ってしまっているのである。たしかに、新たなファシズムの勃興は、歴史的にも必然的な流れなのかもしれないが、ここまで簡単に平和が破られてしまうと、「いままでの戦いは何だったんだ」という感想を持たざるを得ない。少なくともジョージ・ルーカスの構想では、もっと説得力のあるかたちでそれが表現されていたのではないかと思える。


 だが、ディズニーはそんなことよりも、すぐさま「帝国軍」そのものであるかのような敵を用意し、「明快な『スター・ウォーズ』」続編の足場を組みたかったのだろう。政治や社会を描く意義や、戦争のリアリティなどは、娯楽活劇を描く上で二の次、三の次になっている。本作『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』も、その脆弱な設定を引き継いだ作品であることは変わりない。


■『最後のジェダイ』は「革新」を目指す


 本作で描かれるのは、レイア姫率いるレジスタンスの「撤退戦」である。奇襲爆撃作戦によってファースト・オーダーの艦船を轟沈させたレジスタンスが激しい追撃に遭い、徐々に仲間の数を減らしながら逃げ続けるという内容だ。


 旧三部作において、真ん中のエピソード『帝国の逆襲』は、ファンの間で「最高傑作」との呼び声が高いため、初めて超大作に大抜擢されたライアン・ジョンソン監督にはプレッシャーがかかったはずだ。だが果敢にもライアン・ジョンソンは、脚本を単独で書き上げることをスタジオに納得させる。ただ実際には、脚本家としてのキャリアがある、レイア姫役のキャリー・フィッシャーにも助力を頼みながら、ルーカスフィルムのスタッフたちに相談を重ねて書き上げられたようである。ともあれ、ジョージ・ルーカスがシリーズ中に多くの作品で行ったように、ライアン・ジョンソンがストーリーの「創造」に挑んだというのはたしかだ。


 そこは、「バッド・ロボット・プロダクションズ」という自身の城を持ち、客観的な判断力を持つJ・J・エイブラムスとは違うところだろう。『スター・ウォーズ』シリーズの1作を撮ることができるという千載一遇のチャンス…ここでライアン・ジョンソン監督が自身の創造性を正面からぶつけてみたいという欲望に駆られたことは容易に想像できる。かくして『最後のジェダイ』は、前作とは方向を変えて、いままでにないような衝撃の連続を見せていく作品となった。


 本作では、伝説のジェダイとして知られたルーク・スカイウォーカーが隠居する惑星の孤島で、歴史あるジェダイの書物が焼かれるという場面がある。それは、ジョージ・ルーカスによる過去の聖典たる、いままでの『スター・ウォーズ』シリーズの”外形的な”魅力と決別し、ただ魂だけを受け継ぐことが重要だということを描いていたと感じられる。そして、そこで語られた「師とは超えられるために存在する」というセリフは、「ジョージ・ルーカスを超えていく」という宣言になっているはずだ。『フォースの覚醒』では懐古主義を批判していたジョージ・ルーカスが、本作で好意的な意見を表明しているというのは、おそらくこの部分の覚悟を買ったのだと思われる。監督の作家性という意味でいうなら、前作がゴリゴリの「保守」であるのに対し、本作は「革新」だといえるだろう。


 具体的に何が「革新」なのか。それは、多くのファンが「『スター・ウォーズ』らしさ」だと思っているところの、あえて「逆」を行く展開を連続させている点だ。それは、生々しい殺陣や「特攻」すら辞さない残酷な描写、ケリー・マリー・トランが演じる、平凡な整備士が銀河系の命運を握る任務で活躍するのも、『スター・ウォーズ』ファンの象徴のようだったカイロ・レンがダース・ベイダーへの憧れとコスプレのようなマスクを捨て、独自の道を進んで行くことも然り。そして何より、「スカイウォーカー家」の血筋による争いから脱却しようとする描写がショッキングだ。ジョージ・ルーカスが「処女懐胎」の要素をエピソード1に与え、『スター・ウォーズ』をキリストの物語にしたように、本作ではキリストが誕生した「馬小屋」を思わせる場所で奇跡を描くことで、新たな神話をもう一度始めようとする。


■『スター・ウォーズ』スタイルの破壊


 本作は、批評家・評論家が概ね好意的な評価を与えているのに対し、一部のファンの間で激烈な拒否反応が起こっているという点が特徴的である。その理由は様々だろうが、前者が評価しているのはおそらく、前述したように作家主義に戻していこうという意志に対してであろう。評論家は作品の”裏を読んでいく”という役割がある。表面的なストーリーの裏に隠されている、ライアン・ジョンソン監督の情熱に触れ共鳴しているのだ。本作を評価する一部のファンも、そこに惹かれている場合が多いだろう。では、今回の対立は「保守」対「革新」の衝突なのか。たしかにそういう面もあるのだろうが、そうとばかりもいえない部分がある。


 本作の脚本が描くものは、まず「撤退戦」の行方という、表面的なストーリーである。そして、その背景にある「選ばれし者」でなく平凡な人々が力を合わせるという作品のテーマ、さらにその背後に存在するライアン・ジョンソン監督の作家宣言という、大きく分けると三層の構造になっている。本作を批判するファンは、評論家を中心に評価されているような背景の部分ではなく、むしろ表面的な部分で様々な瑕疵を挙げている。つまり、評価の軸が異なっているのである。


 それでは、いったん視点を変えて、基本的なストーリーを見ていくと、やはりいろいろな問題点を見つけることができる。テーマを大事にするあまり、衝撃的な展開や、旧シリーズの流れにあえて反するような描写にこだわったことで、かなり無理があるものになっているように感じられるのだ。


 意外な描写を挙げていくと、例えば、霊体となったジェダイが、雷を操るという物理現象を引き起こしたり、フォースの訓練を積んでいないはずのキャラクターが優れた超常的能力を発揮したり、ハイパースペース航法を利用した攻撃や、ライトセイバーの機能を利用した反則技、見たこともないジェダイの新能力…。たしかにこれらは派手に見えるし、「その手があったか!」と一瞬は興奮させられるのだが、数秒後には「いや、待てよ…」と思えてくる。


 ここで使われているのは、過去に提示されたルールのなかで観客を驚かせるのでなく、後付けの設定によって観客を驚かせようとする手法なのだ。それによって、「こういうことができるのなら、なぜ過去の物語においてそういう選択肢が語られなかったのか」、「なぜその対策が講じられてこなかったのか」というような矛盾が発生することになる。ときには後付けの設定もいいだろう。しかし本作は、そればかりに頼っているように感じられる。そういうことでしか驚きを生み出せないのだとすれば、脚本製作の手腕を疑わざるを得ない。面白くするために新しい設定を出して対処する…本作は『スター・ウォーズ』を、そのような丼勘定、自転車操業のお手軽な作品にしてしまったように感じられるのだ。


 ファースト・オーダーの最高指導者スノークの本作での処遇も大きな問題であろう。彼は銀河系をどうしようと考えているのか、カイロ・レンをどのように利用するつもりなのか、バックグラウンドはどうなっているのか。これらは前作で提示されていた謎だったはずだ。しかし、それを本作ではあっさりと放り出してしまう。これにより『フォースの覚醒』での思わせぶりな演出が陳腐化してしまうことはもちろん、描かれるべき戦いの背景や奥行きが一気に平板化してしまったように思える。


■ディズニー帝国の『スター・ウォーズ』に”新たな希望”は生まれるか


 また、敵に体当たりする「特攻」について、本作ではそれを否定するような描写もありながら、同時にその行為を英雄的なものとして描いてしまっているところがあり、一貫性に欠けているように感じられる。『スター・ウォーズ』シリーズの良いところは、無謀な作戦を立てて多くの死者を出したとしても、全員が生還を目指して戦うところではないのか。犠牲になろうとする志願者を、レイア姫が黙認する場面があるが、旧三部作のレイアであれば、そんなことは絶対に許さず他の道を模索していたはずだ。なぜなら兵士を犠牲にするという道を選んだ時点で、レジスタンスの大義が失われてしまうからである。戦争における正義とは何か。フォースとは何か。ジョージ・ルーカスの指揮していたシリーズでは、一貫した信念と社会観などによって、それらがより深く描かれていたはずだ。


 伝説のジェダイ、ルーク・スカイウォーカーとして本作に出演したマーク・ハミルは、「ディズニーは、ルーカスの助言にもっと耳を傾けていればよかった」という発言をしている。残念ながら、その指摘は正しいように思える。少なくとも、現時点のライアン・ジョンソン監督の素養では、精神性を示すことはできても、宇宙戦争を描きながら意義ある物語を破綻なくまとめるような脚本を、助言を得ていたとはいえ、単独で書き上げるというのは難しかったのではないだろうか。だが、ルーカスフィルムでは、エピソード10からの新たな三部作を、ライアン・ジョンソン監督に任せることを発表している。これはかなり不安だ。


 そもそも、監督に大権を渡しているようなことを言ったり、「インディーズのような制作体制」であるようなことをメディアに対してアピールしてはいるものの、『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』で大幅な撮り直しを命じたり、『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』の監督を交代させるなど、ディズニー買収後のシリーズは、経過を見ている限り、映画監督ではなくスタジオが主導する映画であることは間違いない。


 そこで全体のヴィジョンを示し、一貫した世界観を作るべく統括していく役割は誰が担っているのだろう。プロデューサーのキャスリーン・ケネディだろうか。それともディズニーの幹部らなのだろうか。いずれにせよ、彼らにそこまでの能力があるとは思えない。いままでの流れを見ていると、とりあえず途中まで作らせてみて、気に入らなければ切るという、帝国軍のダース・ベイダーのような対応をしているように感じられるのだ。その結果、『フォースの覚醒』と本作との間で、もう齟齬が生じているというような問題が発生している。これでは三部作である意味すら希薄である。


 ジョージ・ルーカスは、旧三部作終了から、『ファントム・メナス』でシリーズを再起させるまで、16年間ファンを待たせ続けた。しかしそれは、自分のヴィジョンを実現することができる技術の進歩や、語るべき物語の完成という、必然的な理由があった。それに対し、今回の「続三部作」は「作らねばならない」というところから始まり、あらかじめ決められたスケジュールに監督を投入し、厳しく管理している。もちろん監督たちは、その環境のなかでベストを尽くすだろう。しかし、『スター・ウォーズ』という作品が、そのようなものでよいのか。これでは大手スタジオが定期的に作っている恒例の大作映画群の一つでしかないのではないだろうか。


 可能な限り、いつまでも作り続けられるという、ディズニーの『スター・ウォーズ』シリーズ。肥大し続ける「帝国」の終わりなき野望に、伝説は一つのコンテンツとして消費され続けるしかないのだろうか。願わくば、いつかそこに“新たなる希望”が生まれることを期待したい。(小野寺系)