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2017年版『オリエント急行殺人事件』は観客を未知の世界へと誘うーーケネス・ブラナーの新解釈

2017年12月13日 18:22  リアルサウンド

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 「灰色の脳細胞」で難事件を解決するエルキュール・ポアロといえば、創作による名探偵のなかでもトップクラスに名が知られ、親しまれているキャラクターだ。 大胆なプロットで読者を驚かせることで有名なミステリー作家アガサ・クリスティーによる、ポアロが活躍する推理小説シリーズには、いつでも読者を驚かせる試みが用意されている。


参考:ミシェル・ファイファー、インタビュー映像で『オリエント急行殺人事件』の撮影秘話明かす


 そんな名探偵ポアロ・シリーズで、とくに大胆なプロットで知られているのが、8作目『オリエント急行の殺人』である。ここに描かれた奇想天外な事件の真相は、映画やドラマ作品として何度も映像化されていることもあり、すでに多くの人に知られてしまっている。それでも、本作『オリエント急行殺人事件』は、当初の予定を上回るヒットを記録し、早くも次回作制作の話が出てきているという。ここでは、そんな本作が挑戦した新たな表現や、作品づくりの背景に迫ることで、より深く作品の真価を明らかにしていきたい。


 ミステリー作品は通常、筋が分かってしまえば、興味が著しく減退するものだ。また、オールスター・キャストの映画は、スターそれぞれに見せ場を用意しなくてはならず、そんな義務的な場面が邪魔に感じることがある。だが、アガサ・クリスティーの小説『オリエント急行の殺人』は、たとえ筋が分かっていても読者を楽しませる異端的なプロットを持っているし、その構造が、多くのシーンに必然性と存在価値を与え、キャストの多くを際立たせることができる、稀有な原作なのだ。


 映像化作品のなかでとくに知られているのが、1974年版の『オリエント急行殺人事件』である。群像劇や社会派サスペンスの傑作を撮ってきた名匠、シドニー・ルメット監督のもと、 ローレン・バコール、イングリッド・バーグマン、ショーン・コネリー、ヴァネッサ・レッドグレイヴ、アンソニー・パーキンスなど、イギリスを中心とした有名な俳優が集められ、トルコのイスタンブールからフランスのカレーまでのオリエント急行の中で起こる、豪華な殺人ミステリーを盛り上げた。


 2017年版の本作は、俳優の豪華さの点で、やはりこのシドニー・ルメット監督の『オリエント急行殺人事件』を意識しているように思われる。こちらのキャストも、ジョニー・デップ、ミシェル・ファイファー、ジュディ・デンチ、ウィレム・デフォー、ペネロペ・クルスなど、説明不要の有名俳優に加え、英ロイヤル・バレエ団のプリンシパルだったセルゲイ・ポルーニン、新しい『スター・ウォーズ』シリーズのデイジー・リドリーなど、そうそうたる顔ぶれである。


 そのなかで名探偵ポアロを演じ、本作の監督も務めるのが、シェイクスピア俳優として知られるケネス・ブラナーだ。『ヘンリー五世』、『から騒ぎ』、『フランケンシュタイン』など、名だたる俳優が出演する作品でも、主演と監督を兼任している。プロフェッショナルとして演技を熟知し、多くの俳優から尊敬を集める存在であるからこそ、ここまでのスターを集めた作品で兼任が可能となる。その意味で、英国において彼以上にこの役目を果たせる存在は思いつかない。


 映画監督としてのケネス・ブラナーの特色は他にもある。監督作『フランケンシュタイン』の、心揺さぶられる狂気のダンスシーンにも見られるように、流麗なカメラワークとエモーションを同期させる手腕は見事だ。本作では、オリエント急行の車内をなめらかに移動していく映像で、これを確認できる。そのような映像を可能にするために、撮影用の列車のセットをわざわざスタジオに作ったのだという。流れていく車窓の外の風景は、スクリーン・プロセスという、合成を行わずに映像を車外のスクリーンに投影するという、昔ながらの方法がとられている。さらに美術や衣装へのこだわりはもちろん、列車のセットを振動させるシステムなどによって、本作で再現された「オリエント急行」は、映画的なダイナミズムとリアリティーを両立させた存在となったといえる。


 ケネス・ブラナーは、嫌味なほどに自信家なポアロ探偵を、まずは定石通り、厳格かつユーモラスに演じている。特徴的なのは、事件がなかなか解決できない焦りと不安から、かつて愛した女性の写真を見つめながら弱音を吐く場面である。そこにいるのは、まさに「生きるべきか死ぬべきか」と煩悶する、シェイクスピア悲劇『ハムレット』のような、悩めるポアロ像である。


 また、容疑者を一堂に集めて謎解きをするお決まりのシーンでは、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』をモチーフにした構図を作るという冒険を見せている。『最後の晩餐』は、舞台で役者たちが並ぶように、キリストを中心に使徒たちを横並びに描いている。それはダ・ヴィンチが、舞台を意識した「劇的な印象」を鑑賞者に与えることを狙ったものだ。そしてそれは、舞台俳優出身のケネス・ブラナー自身のねらいにも重なっているだろう。


 本作でポアロは、「この世には善と悪しかない、その中間はあり得ない」と言った。それはキリスト教における厳格な二元論を基にした考え方だ。朝食の卵のサイズの違いや、片足の靴でフンを踏んでしまったため、もう片方も踏まないと気が済まないという、病的なまでに「片方」や「中間」という曖昧さを忌避し、それが自身の哲学であったポアロは、この事件によって、初めて単純な悪ではない犯人と対峙することになる。「裁くべきか、裁かざるべきか、それが問題だ」と、おそらくは心の内で思い悩んだ「ハムレット・ポアロ」は、果たしてどちらを選択するのか。この葛藤の醸成というのは、『LOGAN/ローガン』や『ブレードランナー 2049』を手がけた脚本家、マイケル・グリーンの手腕によるものであろう。


 こうやって新たに創造した新しいポアロは、そのセリフのなかで傲岸不遜にも神と自分を重ねながら、じつは子羊のように心の内で助けを求める、おそらくはシリーズの映像化作品のなかで最も弱い、等身大の人間として描かれている。私にはその姿が、原作にすらないエモーショナルでセクシーな、新しいキャラクターと物語の解釈だと映った。同じ楽譜を使ったクラシック曲が、時代を超えた様々な指揮者によって全く違う意味が与えられていくように、脚本や演技、演出によって、映像作品も全く違うものに変貌を遂げることができる。われわれが乗った列車は、紛れもなく「オリエント急行」だったが、その行先は未だに見たことのない世界だったのだ。(小野寺系)