アートの現場が疲弊している。長時間労働、低賃金、セクハラ、非正規雇用。アーティストやアートマネージャーたちが直面している現実だ。
『日産アートアワード2017』でグランプリを受賞したアーティストの藤井光は、早くからこの問題に注目してきた。2010年には芸術労働者たちに呼びかけ、墨田区役所前広場でテントを張って座り込みを行い、『Our Strike』という映像作品としても発表している。
一方、学問的な立場から、当事者に地道な聞き取り調査を重ねてきたのが共立女子大学・准教授の吉澤弥生だ。吉澤は『若い芸術家たちの労働』と題した冊子にこれらの調査結果をまとめ、現在までに続編を含む3冊を発表している。
同じ問題意識を持ち、これまでも共闘してきた二人は、芸術労働者の現状をどう見ているのか。業界を支配する共同体の存在、自主規制、「ポスト2020」問題、ビジネスとしてのアート……、話を聞くうちに、広くクリエイティブ業界を支配する構造的な問題が浮かび上がってきた。
■アーティストは搾取される対象になる以前に、まず搾取する側になりえる。(藤井)
—お二人は現在のアートに関連する労働環境に、どんな課題を感じているのでしょうか。
吉澤:ここ20~30年で芸術祭をはじめ地域振興や社会包摂を目的としたアートが増え、まちに出て制作をするアーティストや彼らを支えるアートマネージャーたちが登場しました。私自身も現場のいち労働者だったことがあります。その時「自分たちはなぜこんな低賃金で、長時間働いてしまうのか」と思ったんです。
藤井:アートの形態が、絵画や彫刻だけでなく、パフォーマンス、インスタレーション、パブリックアート、アートプロジェクトというように多様化するなかで、アートが社会的な公共世界へと実践領域を拡張していったんですよね。そして「アートの資金源が行政になる」という変化があった。
吉澤:そこには、文化政策が方向転換して、行政が施設管理を民間に行わせたり、市民との協働事業に力を入れたりするようになってきたという背景がありました。これは民間や市民のスキルを活用するためと言われますが、別の視点からみれば公務労働の民間化でもあるわけです。私はその中で搾取が起きているのではと考え、アートマネージャーを中心に労働環境などの聞き取り調査を始めたんです。すると「好きでやっているからいいんだ」「私の上にいるディレクターも低賃金だから文句は言えない」といった声があがってきた。
最初の頃は「搾取」という言葉自体、あまり使われていなかったんです。私が「それは搾取じゃないですか?」と聞いても、「いやいや、なんでそんなキツい言葉を使うんですか」という感じだった。
吉澤:だけど、インタビュー集の中で文字になったものを読むと、みなさん客観視できるようになるのか、少しずつ「確かにこれはひどすぎる」「搾取ではないか」という声もあがってくるようになりました。藤井さんに初めてお会いしたのは一冊目のインタビュー集を制作しているときで、『アサヒ・アート・フェスティバル』でのシンポジウムでした。
藤井:そうでしたね。2016年には『社会の芸術/芸術という社会』という書籍の中で、労働やキャリアに関する対談をしています。
まず一つ確認しておくと、私たちアーティストの場合は、単に搾取される側だけではないんですよ。たとえば僕は作品で映像を使うケースが多いので、出演者、技術者らと協働体制で制作をしています。そして、その人たちに対する責任が生じる中で、自分だけでは解決できない社会的な問題が見えてくるわけです。「あれ、払うお金がないじゃん!」みたいな。
そこで、借金をするか、プロジェクトを見直すか、むしろみんなが参加したくなるようなクリエイティブな状況、つまり「やりがい」を作り出していくのか。意識的・無意識的に後者を選んだ作家たちが「搾取する側」として日本中を巡回した。それがこの20~30年間の大きな違いの一つなのかなと思っています。アーティストは搾取の対象になる以前に、まず搾取する側になりえるわけです。
■高学歴ワーキングプアが増えているのは、アートの世界だけじゃない。(吉澤)
—アーティストは搾取される側だけでなく、搾取する側にもなる。その点について吉澤さんはどう思われますか?
吉澤:搾取する側に回ることもあるでしょうね。でも私が聞き取りをしてきたアートプロジェクトの現場の人々は、ディレクションの立場の人もその下で動く人もみな厳しい状況でした。搾取している人は現場にはいないんです。文化事業、文化政策が搾取していると言っていいかもしれない。
ただアートの世界には、「搾取」もそうですが、そもそも「労働」という言葉にアレルギーを持つ方がすごく多いですね。労働というとどうしても苦役、やらされ仕事、といった意味でとられますから。ただ、社会全体を眺めてみると、一定の年収以上の労働者を労働時間の規制や残業代の支払い対象から外す、いわゆる残業代ゼロ法案のように、とにかく「労働者」という権利主体をどんどん切り崩そうという動きが進んでいます。非正規雇用はそれでも労働者ですが、事業請負のように雇う側が雇用主としての責任を果たさなくて済む方向に進んでいる。
そういう社会状況だからこそ、むしろ「労働」や「労働者性」という言葉にこだわったほうが踏んばれるんじゃないかと思うんです。でもアート関係の方々は、拒否反応のほうが強くないですか?
藤井:これは二重に複雑だと僕は思っています。まずアートそのものが、あらかじめ目的の定められた仕事をするというような活動ではなくて、そうした合目的な労働の対極にある「自由」と「創造」の世界にあるのだと考えられてきました。だからアーティストは生活に困窮しても、「好きなことやってるじゃん」と言われたりしてきました。
加えて、第3次産業革命で「労働」そのものの性質が変わってきたんですよね。決められた目的を模倣的に再現しようとする賃金労働者には、そもそも物事を決定する主体性が認められてはいなかった。だけど、現代の労働者は、判断力、思考力、表現力を必要とするコミュニケーションをベースにするから、主体性が求められるんですよ。
だから「労働者性」そのものが変化しているんです。社会構造そのものが変わってきているいま、そのあたりのコンセンサスを取っておかないと、この議論は発展的には進まないと思います。そこがバラバラじゃないですか?
吉澤:現代は、必ずしもモノを作り出すわけではない非物質的労働が比重を増しているということですね。デザインなどの創造労働、IT、調査研究といった認知労働、またサービスやケアなどの感情労働。アーティストやアートマネージャーの仕事も、これらと同じ地平にあると思うんです。だから私はこの話をアートの世界だけの話にしないほうがいいと思っています。たとえば、フリーの編集の人だって事情は同じではないかと。
それから高学歴ワーキングプアが増えているのも、アートの世界だけじゃないですよね。よく美術館学芸員のポストが少ないと言われますが、研究者などの専門職でも同じです。専門性を身につけても、それを生かした職につけない。何とかポジションが得られたとしても有期雇用で将来の見通しが立たない。
■アートを生産する状況そのものが「家庭的な空間」、一種の共同体的な状況になっていると思うんです。(藤井)
—賃金面以外でも、たとえば職場環境の課題もありそうです。
吉澤:アートマネージャーもそうではないかと思うんですが、デザインや建築のような専門的な領域は、ボスの背中を見てノウハウを学びとるというような、徒弟制に近いところがあるのではないか。そうなると怖いのはそういう一強支配の狭い世界で起こるハラスメントです。私はこれまでの調査でセクハラ、パワハラ、マタハラなどの事例を複数聞きましたが、これは業界の構造の問題ですよね。
藤井:僕は「徒弟制」という言い方にはちょっと違和感があって、問題の核心に触れていないんじゃないかと思うんですね。実際に起こっていることは、もう少し巧妙なんじゃないか。
むしろ、アートを生産する状況そのものが「家庭的な空間」、自己肯定感を与えてくれる一種の共同体になっていると思うんです。参加することでアイデンティティーが承認される状況が巧妙に作られている。そして、その共同体自体は内側から形作られているのでブラックボックス化する、という状況だと思うんですよね。
吉澤:アートを生産する状況そのものが、「家庭的な空間」になっていると。
藤井:すると実際の家庭のほうは、逆に合理化が進むんです(笑)。僕の場合は共働きなので、お互い限られた時間の中で、子供を育てなくちゃいけない。となると、社会的な空間の中で行われてる合理化が、家庭に忍び込んでくるんです。「この時間はごはんを食べます」「◯時から◯時までは読み聞かせをします」と、ある種のプログラムの中で子供を育てることになってくるんですね。
つまり、子供もプログラムに与しないといけなくなる。これはすごく大きな問題をはらむ恐れがあると思うんです。そういった家庭の合理化が広がる一方、公共空間におけるアートプロジェクトが家庭化するというこの逆転。
吉澤:面白いですね。今までアンペイドワークとして軽んじられてきた家事労働が可視化されることで、コミュニティー(共同体)だった「家庭」がアソシエーション化していると。その代わりに、共同体的な機能を果たす新たな場としてアートが機能しているということですね。
■アーティストは労働者なんですよ。好きでもないクライアントにニコニコする。そういうことに耐えながら働いているでしょう?(藤井)
—アートを生産する状況そのものが、「家庭的な空間」になっている。そこから、引き起こされる問題はどういったことなのでしょうか?
藤井:制作資金を出資する側も、受け取る側も、その「家庭的な空間」に与しているわけです。両者に線引きがないんですよね。それをどう考えるかは、大きな問題です。
吉澤:アーティストだけでなくマネージャーやボランティアなどそこに参画する人が、「自分の居場所はここだ」というような自己肯定感を得ているとしたら、他人がとやかく言う話ではない。そうすると一方で、「自分のため」「あなたのため」という意識が、もろもろの不条理や構造的な問題を覆い隠す恐れも出てくる。共同体的な集団がはらむ、パターナリズム(家父長的温情主義)の怖さです。そのあたりが先ほどの「巧妙」という言葉につながってくるんですね。
—ある種の「やりがい搾取」につながりかねないわけですね。
藤井:さらにその「家庭的な空間」の安定と発展こそが大事であると考えられるようになるので、それ自体を脅かすと判断される表現はあらかじめ封じられるわけです。
吉澤:『キセイノセイキ』展(東京都現代美術館、2016年)に出品した藤井さんの『爆撃の記憶』はまさにそうでしたよね。歴史資料が展示できず、展示室のケースの中には何もありませんでした。天皇の肖像を扱った小泉明郎さんの連作『空気』もそうでしたね。
藤井:要するに、「自主規制」が起きるわけですよね。
吉澤:空気を読んでしまう。
藤井:そういった共同体の中で表現せざるを得ない以上、「表現の自由」や「すべてを言う権利」といった民主主義の理念は裏切られることになるんですよ。誰もが共同体に従属し、感情を抑圧したり、その場に調和する表現を模索したりするという意味において、アーティストは労働者なんですよ。好きでもないクライアントにニコニコする。そういうことに耐えながら働いているでしょう? 報酬と引き換えに感情や認知を商品化することで生きている今日の労働者と同じように、アーティストの芸術表現も管理されているわけですよね。
—アートは、検閲や規制から逃れられないのでしょうか?
藤井:いや。そういう制約や規制の中においても、共同体の枠組みからずれていくような出来事を引き起こす表現を持ち得ると思うんです。不自由な状況を逆手に取って、越境的で普遍的な表現を見いだすことを芸術はやってきたと思うんです。
■どこの自治体も長期プランがないんです。トップが変わったら、すぐにやめてしまう。(吉澤)
—いま芸術労働者が置かれた状況を改善するための策は、何かあるのでしょうか?
吉澤:結局、文化政策の基盤が脆弱なんです。予算でみても、土木、福祉、教育、文化と並ぶと、どうしても文化は弱い。国家予算に占める文化予算の割合でいえば、日本は韓国の10分の1です。またそもそもどこの自治体も長期プランがないから、トップが代わったら、やめたり変えたりしてしまう。たとえば横浜市は前市長のときに文化や観光を含む形で「創造都市政策」を推進しましたが、現市長になってからは創造都市は観光やまちづくりの事業と並んだ位置づけになっています。象徴的な拠点の一つBankART Studio NYKは2018年3月末で終了(BankART1929は活動を継続する旨が発表されている)という話になっています。
—それは一言で言うと「日本ではアートの価値が認められていない」と。
吉澤:そういうことでしょうね。アーティストに対して「好きなことやっている変わり者」という人々の見方も、そことつながっています。大学生が「アートはお金のある人が道楽でやるものだと思っていた」って言ったりするんです。そういう認知のされ方と、文化芸術の予算規模の小ささはつながっていると思います。
藤井:そういう側面もある一方、「アートは使える」と考える人たちも確実にいますよね。いま年々数を増している国内の芸術祭に見られるように、アートを「動員のツール」として使おうとする人々がいる。今年でピークは終わったと僕は読んでるんですけど。
オリンピックにしても、「参加アーティストの人数目標は国内外で延べ5万人」とありましたからね(文化庁発表の「文化プログラムの実施に向けた文化庁の取組について」P5に記載)。「アーティストって、そんなにいるの?」って(笑)。その5万人の中には、きっと僕も知らないうちにカウントされていくわけですよ。
吉澤:構造を見抜き批判的な視線を持ちつつ「この波には乗っておこう」という、いわば確信犯も中にはいるとは思うんですが。
藤井:アーティストたちはみんな、状況はわかっている感じですよね。どこからお金が来て、どういった仕組みになっているか、だいたい関係性が見えている中で振る舞っている感じがします。さっき言ったように、共同体ですから。そこに居るアクターたちの顔はおおよそ見えている。
■アジア圏で構築されつつある新たなネットワークは、日本のアートシーンを相対化させる可能性がある。(藤井)
吉澤:『さいたまトリエンナーレ』が通常の計算だと2019年開催のところ、2020年に合わせてきました。『ヨコハマトリエンナーレ』も2020年です。東京オリンピック・パラリンピックの文化プログラムと合わせて盛り上げるということだと思いますが、問題はその後ですね、関東地方に失業者と無業者が溢れるのではという不安があります。
藤井:ですから「新たな経済圏を作っていかなきゃ」って気づいている人たちは、数多くいると思います。芸術公社の相馬千秋さんとか、別の自律的な経済を構築しようという意識は、すでに今日の段階で生まれている。
吉澤:行政の中にもいますね。ポスト2020を見据えた人材育成に着手していたり。うまく連携できればと思うんですが。
藤井:世界中でグローバルから自国保護主義への転換が始まっている中、「芸術関係者たちのグローバリズム」が重要なカギになってきます。特にアジア圏で構築されつつある新たなネットワークは、日本のアートシーンを相対化させる可能性があって、実際に新たな表現が生まれ、文化的活力を得ているのは事実ですよね。
吉澤:とくにここ数年、アーティストインレジデンスのネットワークが立ち上がって、アジアで作家の行き来が増えましたよね。行政主体のものから個人でやっているマイクロレジデンスまでさまざまですが、オルタナティブなネットワークになり得ると思います。
藤井:アジアで作品を発表しても、報酬は少ないので、いまの状況では、経済的に潤うわけではありません。ただ、私たち作家のプロフェッショナリズムが、そういうグローバルな交換の中において担保される状況はそれ以上の意味があります。
ラテン語の「プロフェッション」は、自分が何者なのか、何を信じて何をする者なのかを公の場で誓約することです。つまり「自分の職業としての行為に責任を担う」ってこと。けれど、実際には、必ずしもそれができない状況にあります。学芸員も含めて、専門家としてのプロフェッショナルな判断よりも強い力が働いて、自分の表現に対して責任を引き受けられない構造的な問題があります。
でも日本では担えない職業的な責任が、他のアジア諸国では担える可能性があるんですよ。「異邦人」として、無条件・無制約という環境が担保されるケースがあるわけです。逆に向こうでは制約がかかることが、日本だったらできるケースもある。
吉澤:藤井さんは歴史の問題を扱っているから、現在の日本だと発表できない作品でも、海外の場合、国によってはむしろ歓迎されることもありそうですね。
藤井:社会的な議論を恐れない美術館や大学に支えられているからこそ可能なのだと思います。「学問の自由」がそうであるように、無条件・無制約だからこそ探究できる学知があり、芸術にとっても必要な条件です。作家のプロフェッショナリズムを、越境的なネットワークの中で担保するというのは、芸術表現それ自体の死活にかかる問題なんです。
吉澤:なるほど。アーティストにはそうやって活動を続けていく道があるわけですね。となるとアートマネージャーや学芸員にはどういう道があるんでしょう。
アーティストと一緒にチームで動ければいいですけど、実際、マネージャーはあっちの芸術祭の後はこっちの芸術祭に行くとか、この施設の指定管理者が切れたから次は別の施設へとか、季節労働者のように国内を移動することが多いと思います。
それは確かに、ステップアップにもなりうるんです。前の契約での給与額を示して、「こうしてスキルを重ねているのだからこの金額以上で」と交渉して、自分の仕事の価値を自分で決めていける人たちも、中にはいますから。とはいえ、そもそもの予算の問題があるから、足元を見られる恐れもある。そうすると専門スキルを積んだ人がどんどん離職していってしまう。アートマネージャーの仕事に対する社会的認知も広がっていきにくい。
■状況を改善するためには、異なる立場の人たちが連帯するしかないと思っています。(吉澤)
—結局、行政が主な資金源になっているから閉塞しているのでしょうか。民間企業にプレゼンして予算を獲得するような動きは、あまりないですか?
吉澤:どうですか? アーティストはありますか?
藤井:『日産アートアワード』では、国内外から外部の審査員を入れるなど、自由が担保される仕組みに制度設計されています。何というか、民間のほうが自由が担保されるんですよね。でも僕、これをあまり言いたくないのね。むしろ言ったほうがいいのかなあ。どうなんだろう?
吉澤:『日産アートアワード』には驚きました。藤井さんをグランプリにするというメッセージを発したわけですから。企業の場合、こうして行政には出せない色が出せる一方で、トップに左右されるという点は同じだと思います。それに景気の影響も受けますから、継続性が担保されにくいという問題はあると思います。
藤井:資本の論理は偶発的ですからね。僕が「民間のほうが自由が担保されている」って言いたくないのは、美術館の公共性を信じているからなんです。だから、「民間ではできているから」って言い方が、本当にいいのか。そこがまた整理できていなくて、ちょっと悩んでいる。でも、美術館でも最近、「行動指針」を発表しましたよね(全国美術館会議による「美術館の原則と美術館関係者の行動指針」)。
吉澤:今日、ちょうどその記事を見ました。
藤井:その中には「表現の自由」をはじめ、美術館のあるべき姿を示した原則と行動指針が書いてある。現役の大臣が「一番のがんは学芸員」と発言したりするでしょう(山本幸三前地方創生担当相が2017年4月に発言)。美術館活動を、集客と効率化の追求のみに重点を置く論理が攻撃してきているわけで、これは日本だけの問題ではないんです。『ドクメンタ』(ドイツで5年おきに行われている現代美術の大型グループ展)でも最近、そのことで批判を受けて、アーティスティック・ディレクターとキュレーターが共同声明で反論を試みたわけです。経済活動を基盤とする民間との距離は慎重に計らないといけない。いまの段階では、理解のある企業が支援してくれている感じはしますけどね。
—最後に、芸術労働者を取り巻く状況は改善できると思いますか?
吉澤:やっていかないと。古い言い方になりますけど、私は異なる立場の人々が連帯するしかないと思っています。アートの仕事は、現代のさまざまな創造労働、認知労働、感情労働と地続きなのだと、まず想像してほしい。
藤井:そのためには、作家として、自分自身が従属する作品の形式を見直していかないといけないと思っています。自分のいちばん身近なその問いを発展させる必要があります。たとえば絵を描くとすると、「その絵の形式はどのように発生し、なぜ私はいまこうやって描いているのか」という問題として考えることです。そこから自分を取り巻く制作の環境を客体化していき、その過程で他者と議論し、社会的な議論に発展させる。それがいつしか、文化行政を変える立法府まで届く話になっていく。長い時間がかかりますが、でも本当にそこからじゃないのかな?
吉澤:そこは同感です。自分を客観視し、他者がどういう状況かを認識するのが連帯の始まりだと思いますから。私は現場の人々の話を伺いながら、「その状況は社会問題です、それもアートに限った話ではないです、一緒に考えましょう」と言い続けてきました。今後も地道にその作業を続けていきますよ。