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『ジャスティス・リーグ』に見る、DC映画の路線変更は本当に良かったのか?

2017年11月29日 14:12  リアルサウンド

リアルサウンド

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 バットマン、ワンダーウーマン、フラッシュ、アクアマン、サイボーグ…DCコミックス原作のヒーローたちが手を組んで、より強大な悪と戦うコミック作品を映画化した『ジャスティス・リーグ』。すでに興行的に大成功を収めている、マーベル・コミック原作の映画『アベンジャーズ』の二番煎じのように見られている向きがあるかもしれないが、ヒーローのオール・スター・チームを作るというアイディアは、1960年の原作コミックにおいて、DCがマーベルに先駆けて実現させている。その意味では、『ジャスティス・リーグ』こそ「元祖」ヒーロー集結作品といえるだろう。


参考:国内外における『ワンダーウーマン』への温度差が今後の日本洋画界に影を落とすもの


 『アベンジャーズ』シリーズを超える巨額の制作費を投じたことで、ワーナー・ブラザースが本作『ジャスティス・リーグ』にかけた期待の大きさはうかがえる。だが、ふたを開けてみれば、批評家からの評価はそれほど芳しくなく、また近年のDC映画の中でも興行収入が振るわないなど、『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』公開時を彷彿とさせる苦境に立たされてしまっている。ここでは、そんな本作に何が起こったのか、様々な背景を追いかけながら、DC、マーベルを含めた今後のヒーロー映画がどうなっていくのかを考えていきたい。


 DC映画といえば、『ワンダーウーマン』という、2017年のヒーロー映画1位の座に輝く大ヒット作を生み出したばかりだ。もちろんワンダーウーマンは本作にも登場しており、やはりヒーローたちの中でも強い輝きを見せている。とくに、悪党が一般市民をマシンガンで一斉に掃射しようとすると、その連続する弾丸を次々にはじき返し、誰一人として被害者を出さない、本作冒頭のアクションは激アツであった。それは奇しくも2017年にアメリカで起こり、大勢の被害者を出した複数の銃乱射事件を思い起こさせ、現実とのつながりを意識させるものだった。


 『ワンダーウーマン』が大成功したとはいえ、まだまだDC映画が、総合的には興行面でマーベル映画に後れを取っているのは事実である。観客の支持を受け安定的にヒットを続けるマーベル映画に対し、DCが苦戦を強いられている大きな要因は、やはりその暗い作風にあるだろう。クリストファー・ノーラン監督のバットマン映画『ダークナイト』のヒットを基に、ザック・スナイダー監督が受け継いできた、リアリティやノワール風の美学を重視する、いわゆる「ダーク路線」である。様々な監督が個々に作家性を発揮しながらも、結局はこの路線に連結されることになる。


 このダークな手法で、ノーラン監督のバットマン映画、とりわけヒーロー映画に強烈なリアリティを求めるアクロバティックな姿勢が新鮮だった『ダークナイト』が強い支持を得たのはたしかだ。そして、ザック・スナイダー監督による『マン・オブ・スティール』、『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』で、現実ばなれしたスーパーマンの強大なパワーを扱った荒唐無稽な題材を、同じように暗い雰囲気とリアリティを重視する演出を継続するというのは、さらに挑戦的な行為だったように思える。それはマーベル映画における、ヒーロー同士の仲の良い交流や、ギャグを多用する楽しい雰囲気とは対照的で、広い観客を意識したヒーロー作品としては賛否が分かれる作風であるといえる。現在の興行収入の推移から、マーベルの側に、より多くの観客の支持が集まったことからもそれが分かる。


 本作にとって、それよりも打撃だったのは、DC映画の中心的な監督であり、本作も手がけたザック・スナイダー監督が、映画の完成を前にして、家族の自殺という不幸にみまわれ降板したという出来事であった。そこでワーナーは、なんと『アベンジャーズ』、『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』を監督した、ジョス・ウェドンを招聘し、再撮影を含む製作を継続させたのだ。たしかにウェドン監督はマーベル映画との決別を宣言していたが、これはほとんど「反則」ではないかと思える登用である。彼が新しく演出した分量は2割ほどで、基本的にザック・スナイダーの意図に合わせていると発表されているが、本作を観る限り、その枠のなかでギャグ、ユーモアを最大限に詰め込み『アベンジャーズ』寄りの作風になったのを感じ取ることができる。後任のウェドン監督が実質的な権限を与えられたことは、監督との確執で作曲者のジャンキーXLが解任されたという事実からも明らかである。


 『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』の評判を受けて、ワーナーからザック・スナイダー監督への、演出の方向を転換する要請もあったのだろうが、ジョス・ウェドン監督の采配にも助けられ、たしかに本作『ジャスティス・リーグ』は、明快で見やすい作品になったように感じられる。いままでにないギャグの連続や、ヒーロー同士の仲の良い雰囲気をバランス良く見せていく姿勢も共感を呼びやすい。今後DCが、このようなマーベル作品の明るい雰囲気を踏襲していくのであれば、本作はその「路線変更」のはっきりとした分岐点となったといえそうだ。


 しかし、これで本当に良かったのだろうか…。今回の路線変更というのは、いわばDCの一部マーベル化といえるものである。ということは、いままでのダーク路線というのは過去の失敗とみなされ、段階的に消え去っていくおそれがあるのではないか。たしかにダーク路線は、現時点でマーベルほどの成功は収められてはいないかもしれないが、少なくともマーベルとの差別化は達成できていた。マーベルが和気あいあいとするなら、DCは陰鬱に悩み抜く。それでアメコミ映画は総体として大きな振れ幅を獲得していたのではないのか。


 人々の関心は移ろいやすく、現時点で盤石のように見えるマーベルだって、いつ飽きられ失墜するとも限らない。そのときにDCの独自性が効力を発揮するはずなのではないだろうか。DCとマーベルが同じような方向に進むことは、ヒーロー映画のブーム終焉を早めてしまう可能性がある。だがワーナーの経営陣は、そんな気の長いスケールで映画制作を考えてはいられなかった、というのが正直なところだろう。


 また、この路線変更により、今後のDC全体を統括する役割を果たす存在が誰になるのかということが、現時点で不透明になってしまったことは不安材料であろう。マーベルには、制作する作品をカバーしコントロールする、権限を持ったプロデューサーのケヴィン・ファイギがいる。対してDCでは、本作で実際に大きな働きをした4人のプロデューサーの一人であるチャールズ・ローヴェンによると、重要なキャスティングなど、大きな権限はやはりザック・スナイダー監督に与えられていたようだ。その作家性によって骨組みが組まれていたはずのDCでは、今回の監督離脱によって、その体制やパワーバランスが変化していく可能性がある。そのとき、矢面に立ってヴィジョンを打ち出す役目は誰が担っていくのだろうか。


 近年、ビジネス上の理由で、ハリウッド映画のさらなる大作傾向が進んでいる。マーベル映画や、ディズニーの統括する『スター・ウォーズ』シリーズでも、監督降板や再撮影などの話題が絶えないように、映画が大作になるに従って、監督への管理が強くなり、軋轢が生まれやすくなっている。ここで問題になってくるのは、我々が観ている作品が、会社のものなのか、有力なプロデューサーのものなのか、映画監督のものなのかということが判然としないという部分だ。そして本作もまた、そのような作品になっているように思われる。だがDCにおいては、ザック・スナイダーの作家性によって押さえつけられていた状況から、パティ・ジェンキンス監督をはじめとする新たな才能が活躍しやすくなる状況にシフトしていくという新たなる希望も、現時点では存在する。


 『ジャスティス・リーグ』によって、混乱した状況が露わになってしまったDC映画。その隙にマーベルがぶっちぎっていくのか、はたまた制作体制のゴタゴタに乗じて、ふたたび『ワンダーウーマン』のような成功がDCに訪れるのか。波乱含みのヒーロー映画の趨勢から目が離せなくなってきた。(小野寺系)